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真田丸【実はまあまあ楽しかった?真田父子の九度山生活】真田昌幸・真田信繁の7つの希望

草刈正雄さんの名演が光る真田丸。今夜は昌幸ロスっ!ドラマでは真田昌幸の九度山生活を悲劇的に描いているようですが・・・。少し違う視点でまとめてみました。真田紐もあったよね!絶対!

更新日: 2016年09月25日

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九度山の希望 ①高野山よりあったかい

和歌山県高野山の蓮華定院へ蟄居・・・
・・・それから程なく高野山から麓の九度山へと移り住むことになりました。九度山へ移った理由は、妻子と共に暮らすことを許されたことで、女人禁制の高野山を出た、とか、付いてきた家臣たちの家族も一緒に住むには高野山での住まいは狭すぎたためとか、寒いからとかw、諸説あるようです。

高野山は・・・
一般的に温暖な地域が多い和歌山県としては異例で、冬の寒さが厳しく、1月の平均気温は-0.5℃と氷点下になる。極値は最高33.2℃(1994年8月6日)、最低-13.4℃(1981年2月28日)

九度山は・・・
年間平均気温  15.4℃
最低月平均気温 3.2 ℃

寒かったからでしょうw
昌幸、家康より先に死ぬ訳にはまいりません。

九度山の希望 ②浅野クンはお友達

紀州は当時浅野左京太夫幸長が治めていた領地で浅野家は九度山の幸村一行の監視も担っていました。

昌幸は・・・
・・・石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。

お友達ですやん!ラッキー・・・と思っていたら・・・

浅野幸長は・・・
・・・加藤清正と同じく徳川家康の天下を認めつつも、終生にわたって豊臣氏に忠誠を誓い続けた。そのため、警戒した徳川氏によって暗殺されたとする説もある。

ちなみに、加藤清正・昌幸の死後のおはなし。
連続暗殺事件ですな。

九度山の希望 ③まあまあ立派なお屋敷

上田城にいた際の居館とは比べ物にならないが、大台所のまわりに、家来・小者や侍女たちの部屋があり、その東側には広い板敷きの間を隔たて、四間の一郭が真田幸村夫妻と、子たちが生活する場となったようだ。

当時としては、十分です。
庶民は、まともな壁があるようなお家に住んでないもんね。

九度山の希望 ④何と言ってもアニ信幸とトモダチ浅野の仕送りがありがたい

紀伊藩からの年50石の合力、国元(上田)からの仕送りで何とか生活をしていたが、金は不足しがちで、かなり苦しい生活であったようである。

苦しかったのかなあ・・・。ニートにしてはかなり贅沢だと思いますが。家臣も働いてたでしょうし。

九度山の希望 ⑤なんか・・地元のコも結構イケてるし

「九度山、結構ええぞ?土地のおなごも意外に可愛ゆうてのお」

↑ これはフィクションですが・・・
実際、こんな感じだったんでは。

幸村の側室は何人?・・・
・・・正式には側室は3人ですが、九度山にいた時、百姓の娘との間に1男(四男?・之親)をもうけています。

こら!!
諸説あるようですが、九度山でかなりアバンチュールを楽しんでいたことだけは確かです。
父、昌幸についても、記録はありませんが、結構手が早かったようですし・・・。
そりゃ、仕送りじゃ足らんでしょうよ。

九度山の希望 ⑥マゴ増えた!

実は幸村、先述した2人の女性以外にも、正室との間に5人、謹慎中に迎えた(!)側室との間に2人、さらに農民の娘とも結ばれ、合計4男7女!

ま、そうなるよね・・・。

九度山の希望 ⑦真田紐が大ブレイク!!・・・だったかも。

まず、九度山では真田家の家族や家臣らも制作して、堺の商人を通じて販売し、得た収入を生活費の足しにしていたと言われている。
 「真田の作った強い紐」と言う触れ込みで行商人が売り歩き、その各地の情報が九度山にもたらされたとされる。

しかし、父・真田昌幸が九度山で真田紐を作って売ったという資料は残っておらず、真田紐を売り歩いたという逸話は後世の創作と考えられている。

いやいや。資料はなくとも伝承はバカになりません。
父子が愛人と遊び暮すために、真田紐ビジネスが必要だったんです!(キリッ)

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