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日本人の99%が知らない…大阪にかつて『天空の城』があった!

大和と河内の国境にある信貴山山上に築かれた城である

更新日: 2017年06月06日

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jetwskyさん

信貴山城とは

●大和と河内の国境にある信貴山山上に築かれた山城である。

●信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地

●松永久秀は山上に南北700m、東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点とした

竹田城より、現在日本一高い場所にある備中松山城よりも高い場所にあった

大阪平野と奈良盆地を天守閣から見渡せる、周りには遮るものがなにもない立地。
現存していれば竹田城とならぶ名所となっていたでしょう。

信貴山437m 備中松山城430m 竹田城354m

城跡すぐ近くの生駒山上遊園地から

城主・松永久秀は大河ドラマになってもおかしくないほど逸話が!

信長に愛された男、そして爆死!

戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。

織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。

織田信長が久秀を指して、
「この老人(久秀は信長より20才前後年上だった)は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。常人では一つとして成せないことを三つも成した男よ。」

日本で最初に爆死した人物

織田信長に一目置かれる要素がいくつかある。
例えば、茶道具のコレクション。久秀は武野紹鴎に師事しており、茶道の造詣が深かった上、信長もうらやむ茶道具のコレクターだった。
1568年、久秀が信長に降伏した際、信長はさっそく九十九髪茄子の茶入れを取り上げているし、久秀秘蔵の平蜘蛛の茶釜も、しきりに要求している。

天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(『信長公記』)。
信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。佐久間信盛は名器・平蜘蛛茶釜を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した(『川角太閤記』)。織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。首は安土へ送られ(『多聞院日記』)、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った(『大和志料』[52])。享年68。

10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であった[53]ことから、兵は春日明神の神罰だと噂した(『信長公記』)。

イメージ画像 平蜘蛛の釜

当時は茶器一つで国を動かせたほどの価値があったと言われている

信貴山城の現在

現在、跡地はこのようにひっそりと厳かに祭られています

跡地までの行き方

同じく山上にある朝護孫子寺から徒歩でアクセスできます

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