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楼蘭王国とは何か?シルクロードと砂漠の民の末裔たち

楼蘭王国とは何か?シルクロードと砂漠の民の末裔たち

更新日: 2017年04月05日

misukiruさん

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◆ユーラシア大陸を横断するシルク・ロード

シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。

中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。

◆ロプ・ノール

中国の文献には、タリム盆地の東側に大きな湖があることが記録されている。ところが、そんなに大きな湖であるにもかかわらず、それがどこにあるのか、当時は誰も知らなかったのである。

楼蘭に水が流れてこなくなって湖が干上がれば、都市機能を維持していくことは困難である。こうして楼蘭は滅びたのだろう。

◆交易の民として栄えた楼蘭王国

キャラバンは商品の輸送中に盗賊団などの略奪、暴行などの危険から集団的に身を守り、商品の安全やいざというときの保険のために、複数の商人や輸送を営む者が共同出資して契約を結ぶことによって組織されていた。

馬は耐久性がないため、荷物の運搬には用いられずに旅程の先導役に使われた。ロバも体が小さいため荷物がつめず長距離の交易には使われず、結局えさなどの維持費用も廉価で、耐久力のあるラクダやラバが長距離の交易に使用されることになった。

いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されている。

『漢書』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉黎の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。

その国力の増大によって政治的地位は上昇したが、漢や匈奴に比して弱小であることには代わりはなかった。やがて漢の介入が本格化すると、鄯善国はその覇権を認めざるをえなくなった。

◆宮崎駿 『砂漠の民』のモデル

「砂漠の民」という、シルクロードをめぐる民族紛争を描いた作品で、1969年9月から1970年3月にかけて「週刊少年少女新聞」で連載されていました。

◆NHKの番組ともなり

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