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ユダヤ人迫害の舞台となった『ゲットー』生活の様子。ワルシャワ・ゲットー蜂起

ユダヤ人迫害の舞台となった『ゲットー』の生活についてまとめました。ポーランドのゲットーで最大規模のワルシャワ・ゲットーでは、『ワルシャワゲットーの蜂起』が起こっています。

更新日: 2017年04月26日

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左側には既にトラックに乗り込んだ男性たちが見える。ユダヤ人評議会の行政運営の下で,若いユダヤ人男性は,ゲットー内部のユダヤ人工場や土木作業に行かされた。

隔離され,外部とのヒト,モノ,カネの取引が大幅に制限されたゲットーでは,仕事が無く,生活物資に困窮した。僅かな配給を目当てに,いわれたまま働くしかなかった。

「勤労奉仕」ということになっていたが,ゲットーのユダヤ人に割り当てられた強制労働だった。

◆1940年11月ワルシャワ・ゲットー創設

1940年11月に隔離される指定地域に強制移住させられます。高さ3メートルを超え、上方には鉄条網が張り巡らされる壁の建設が始まります。ドイツ軍は、住人がゲットーとその他のワルシャワの地域との間を移動できないように、ゲットーの境界を厳しく監視します。

ポーランドでは破壊された都市復旧に,ユダヤ人が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。

各自が中古品の持ち物を手にして売買している。外界からの物資流入が断たれたゲットーでは,各人蓄えを売り介するしかなかった。

子供たちは、生き抜くために知恵を絞り、何かの役に立つ必要がありました。ワルシャワゲットーの小さな子供たちは、ゲットーの壁の狭い開口部から這い出して、家族や友達のために食料をひそかに持ち込みました。

ユダヤ人を匿ったり支援したりするポーランド人もいないわけではなかったが、多くの場合ポーランド人はドイツ当局に密告を行い、これによって多くのユダヤ人が捕まってしまった[3]。

ポーランド・ギャングもこの状況を利用してユダヤ人の居場所を血眼になって捜し、見つけ出すと「密告されたくなければ金を払え」といってユダヤ人を脅迫

◆ゲットーから絶滅収容所への移送

1942年7月22日から9月中旬にかけて、30万人を超える人々がワルシャワのゲットーから移送されます。そのうちの25万人以上は、トレブリンカ絶滅収容所に移送されます。

ニュルンベルク市内に限っても、移送されたユダヤ人1931名のうち、生き残ったのは72名、生還率は4.4%に過ぎなかった。

1942年3月頃から「ラインハルト作戦」によって東欧のゲットーで暮らすユダヤ人たちが続々と絶滅収容所へ移送されて殺害されるようになった。ワルシャワ・ゲットーでも1942年7月から9月にかけての第一次移送作戦で約30万人のユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害されている

◆ユダヤ人評議会

ゲットー内においては、警察業務・公衆衛生・福祉・食料調達・仕事の斡旋・福祉・水道・光熱といったサービスの提供を可能な限り行い、一定の政治権力を行使

住民の間の住まい,食料,仕事を巡る争いが頻繁にあったが,これはゲットーを作った者たちの意図するところでもあった。ゲットー生活が困窮するにつれて,住民の人間性は麻痺し始めた。

評議会が社会福祉事業を次第に行わなくなってきたことで、ゲットー内では様々な地下組織や相互援助組織が作られていくこととなった。

◆ユダヤ人評議会と議長

1940年4月、ウッチ・ゲットーが創設される。その日常的運営はルムコフスキ以下ユダヤ人評議会にゆだねられた。

ウッチ・ゲットーでは、他のゲットーと比べてユダヤ人評議会の権限が非常に大きかった。そのためルムコフスキには巨大な統率権があり、その下にウッチ・ゲットーでは統制経済が取られていた。

◆ゲットー警察

ゲットー内部では、ナチス親衛隊の下請けとして、ユダヤ人社会の公務員のように扱われていました。

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