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自殺した小説家・詩人まとめ―文豪たちの数々の苦悩【「私と小鳥と鈴と」のあの人も…】

明治から平成にかけての日本文学を代表する作家達のなかには、自殺を選んだ人物も少なくありません。卓越した技巧と名声を得た彼らはどうして死を選んだのでしょうか。人物概要と自殺についての記録を一覧という形でまとめました。※サムネイルは金子みすゞです。

更新日: 2016年11月11日

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わせやさん

紹介する人物一覧(命日順)

小説で著名な人物
川上 眉山 1869年4月16日(明治2年3月5日)- 1908年(明治41年)6月15日
有島 武郎 1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)
芥川 龍之介 1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日
牧野 信一 1896年(明治29年)11月12日 - 1936年(昭和11年)3月24日
太宰治 1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日
田中 英光 1913年(大正2年)1月10日 - 1949年(昭和24年)11月3
原 民喜 1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日
火野 葦平 1907年(明治40年)1月25日 - 1960年(昭和35年)1月24日
三島 由紀夫 1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日
川端 康成 1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日
半田義之 1911年7月2日 - 1970年8月2日)

詩で著名な人物
金子 みすゞ 1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日
岡 真史 1962年9月30日 - 1975年7月17日)

川上 眉山

1869年4月16日(明治2年3月5日)- 1908年(明治41年)6月15日
明治時代の小説家。大阪生まれ。本名亮、別号に煙波山人。

1895年に父が死去した後は、兄弟の生活などで苦労があったとされる。1905年に『観音岩』を『国民新聞』に連載、厭世観の強い『ゆふだすき』(1906年)などを発表。1908年(明治41年)6月15日未明、文学的行きづまりにより剃刀で喉を切って自殺した。享年40歳。前日は幼い息子が遊ぶ様子を眺め、自殺の予兆はなかったという。数年前から、夢の中でバイロンの詩集の一部を翻訳したら翌朝机上のノートに書いてあったりと、不思議なことが起きていた。

有島 武郎

1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)
学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年(明治36年)渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。

1923年(大正12年)、『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く(有島は妻・安子と死別後は再婚せず独身を通した)。しかし、秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして6月9日、2人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死を遂げた。7月7日に発見されるが、梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた。2009年(平成21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が札幌市にある「北海道立文学館」で一般公開された。

芥川 龍之介

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。
その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。

7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している[9]。同日朝、文夫人が「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある[要出典]。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。

牧野 信一

決して大作家とはいえない一詩人的な作家ではあるが、その「内発的な自我破り、想像力の開放、分裂に処するパロディの方法の発見」などは文学史的には重要な意味があると磯貝英夫は考察し、その後継者的な作家として、井伏鱒二、坂口安吾、石川淳、太宰治らの名を挙げている。

妻子(日本橋区富沢町のせつの実弟・鈴木民平方に在った)との同居を願うが、容認されない。3月24日の夕頃、小田原町新玉町の実家(大正8年からの家)の納戸で縊死自殺を遂げる。享年39歳。

死の当日、海岸へ散歩に出かけようとする母に突然縋り付いて、「どうか出かけないでくれ、俺を一人にしないでくれ」と牧野は懇願していた。その2時間ほど前に、牧野はピンポン台に紐を張り、首を入れて自殺の真似をしていたという。また、死の前日には梅焼酎を一升飲んでいたという。3月26日、菩提寺である小田原市の清光寺で葬儀。法号は「大光院法船日信居士」。

太宰治

1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日
本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。

太宰治は自殺未遂を少なくとも4回し、5回目についに死んでしまったのですが、未遂の4回は完全にポーズだったという説もあります。たとえば21歳の時には人妻と服薬・投身心中未遂をし、相手の女性だけが亡くなっていますが、この時に太宰治の飲んだ薬はたいした量ではなく、投身も実際にはしていないというかなり信頼できる研究があります。

田中英光

1913年(大正2年)1月10日 - 1949年(昭和24年)11月3日)
無頼派として知られる。
「出方名 英光(でかたな ひでみつ)」という筆名もある。名前の英光を「えいこう」と音読みされる場合もある。
息子は作家の田中光二。
高知県出身の歴史家岩崎鏡川(英重)の息子として東京府東京市赤坂区榎坂町(現・東京都港区赤坂)に生まれ、岩崎家から母の実家田中家に入籍。鎌倉市に育つ。神奈川県立湘南中学(現神奈川県立湘南高等学校)、早稲田高等学院卒業。

1948年(昭和23年)6月13日、太宰が自殺。大きな衝撃を受けた英光は睡眠薬中毒と化す。
1949年(昭和24年)5月、同棲相手を薬物中毒による妄想のため刺す。同年11月3日、三鷹市の禅林寺の太宰の墓前で自殺をはかり、搬送先の病院で死去する。36歳没。

原 民喜

1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日
広島で被爆した体験を、詩「原爆小景」や小説「夏の花」等の作品に残した。

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