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【ヒストリア】豊臣家の終焉。わが子のために生きた淀殿の自刃(享年五十)

茶々。織田信長の姪。浅井長政・お市の方の娘であり浅井三姉妹の長女。豊臣秀吉の正室であり豊臣秀頼の母である淀殿。悲運の運命を遂げたドラマチックな彼女の最期はどのようなものであったのか。

更新日: 2018年01月14日

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orihoanさん

「茶々」「淀殿」で知られる歴史上のヒロイン

永禄十二年(1569年)近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)で、近江の大名・浅井長政と、織田信長の妹で長政の正室・お市の方との間に生まれる(生年には1567年、1566年生まれ説もある)。

淀殿・・・幼名を茶茶(ちゃちゃ)と言い、信長の妹、お市の方の長女として生を受けるも、悲運の戦国大名のもと数奇な運命をたどる。皮肉にも、父と母を死に追いやり、幼い弟を串刺しにした仇敵、秀吉の愛妾となるが、逆に秀頼を生んだ後は寵愛を一心に受け、秀吉亡き後は大坂城に君臨した。老獪な家康を向こうに回し、頑として屈することなく、智力を尽くして戦うも能わず、ついに燃え盛る大坂城の中で愛児秀頼とともに自刃した。

2016年11月。いよいよ大河ドラマ「真田丸」もクライマックスです!

彼女のドラマチックでドラスチックな生涯

父・浅井長政が義兄・織田信長を裏切って越前の朝倉義景に味方したために、浅井家と織田家は敵対関係となり、天正元年(1573年)に浅井家の小谷城は織田軍に攻められ、父・長政は切腹。幼少の茶々は母の市や妹の初・江とともに城から脱出し、織田家に引き取られる事となった。

天正十年(1582年)には叔父である織田信長が本能寺の変で横死。その後。母の市は織田家の宿老であった柴田勝家と再婚。茶々ら浅井三姉妹も市とともに勝家の居城であった越前・北の庄城へと移り住む。

しかし、織田家中の実力者である勝家と羽柴秀吉が対立、天正十一年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こる。賤ヶ岳で敗れた勝家は居城・北の庄城で自害。お市の方もともに自害する。三姉妹は城から助け出されて安土城で育ったと言われている。

天正十六年(1588年)頃に当時天下人としての地位を確実なものにしていた豊臣秀吉の側室として大坂城に入る。翌天正十七年(1589年)には秀吉の嫡男・鶴松(捨)を産むが、鶴松は3歳で病死。この時に秀吉から山城国の淀城を与えられたため、淀殿と呼ばれる事となる。文禄二年(1593年)には後の豊臣秀頼(拾丸)を出産。豊臣家の後継者を産んだ茶々は、豊臣家の実力者として大きな影響力を発揮していくこととなる。

慶長五年(1600年)には豊臣五大老の徳川家康と豊臣家五奉行の石田三成が東西両軍に別れて戦った「関ヶ原の戦い」が勃発。西軍総大将の毛利輝元は大坂城にあったが、淀殿は西軍に一方的に肩入れすることなく、表向きは中立の立場を貫いた。この戦に勝った家康は、毛利輝元に変わって大阪城へ入城。豊臣秀頼に忠誠を誓うが、家康は江戸に幕府を開き、実質上の武家社会のトップとなる。

実質一大名へと成り下がった豊臣家と徳川家の対立は激化し、慶長十九年(1614年)には徳川と豊臣の戦い、「大坂の陣」が起こる。一度は和睦した両者であったが、翌慶長二十年(1615年)に再び「大坂夏の陣」へと突入し、徳川軍の猛攻を受けた大坂城は炎上。淀殿は息子・豊臣秀頼らとともに自害して豊臣家は滅亡した。

大阪夏の陣は、開始以来、わずか3日間で幕を閉じたのであった。

冬の陣は「真田丸」のおかげで大阪城を難攻不落としましたが、それもまた過去の話。。

本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。(大阪城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り城に火を放ち逃亡を図った。しかし逃亡は叶わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている。

元和元年(慶長二十年・1615年)5月8日、昨日からの総攻撃により大坂城が炎上、豊臣秀頼とその母・淀殿らが自害し、大坂夏の陣が終結しました。

元和元年(慶長二十年・1615年)5月6日に、大坂城へと向かう徳川家康の軍を迎え撃った道明寺・誉田の合戦&若江・八尾の合戦から本格的な合戦が開始された大坂夏の陣。

翌・5月7日、大坂城を囲んだ徳川軍によって、正午頃から開始された総攻撃により、大坂城は炎上します。

城外から戻った大野治長は、豊臣秀頼とその母・淀殿の助命を願って、秀頼の妻となっていた家康の孫・千姫を脱出させ、秀頼・淀殿らは、天守閣の北に位置する山里曲輪の土蔵に身を隠しますが、その土蔵に銃弾が撃ち込まれた事で、助命が拒否された事を察します。

炎を逃れて、本丸下の蘆田曲輪(あしだくるわ)にある朱三櫓(しゅさんやぐら)の食糧貯蔵庫に逃げ込んだ秀頼は、
「もはやこれまで」
と覚悟を決め、
「甲斐守(かいのかみ)は母君を、氏家は我を、毛利は女・幼子を介錯せよ」
と命じ、豊国大明神を拝んだ後、淀殿の前に進み出て
「あの世にて…」
と挨拶し、母を頼んだ甲斐守=速水守久(はやみもりひさ)に目配せする・・・

と、速水が淀殿に向けて刀を振り下ろしますが、それと同時に、秀頼が懐から出した脇差を腹に当て、かの氏家行広(うじいえゆきひろ=卜伝)が介錯をしたと・・・

その後、秀頼の言葉通りに、毛利勝永(もうりかつなが)が女たちを介錯し、彼ら側近たちも、それに続きました。(『豊内記』『明良洪範』など)

ここに、大坂夏の陣が終結し、豊臣家はわずか2代で滅びる事となったのです。

秀頼は辞世の句がありません。(残っていない?作る時間がない?など諸説あり)
秀吉が読んだとおり夢に消えた豊臣家。

きりちゃんも大阪夏の陣まで付き添っていましたね。

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