元和元年(慶長二十年・1615年)5月6日に、大坂城へと向かう徳川家康の軍を迎え撃った道明寺・誉田の合戦&若江・八尾の合戦から本格的な合戦が開始された大坂夏の陣。

翌・5月7日、大坂城を囲んだ徳川軍によって、正午頃から開始された総攻撃により、大坂城は炎上します。

城外から戻った大野治長は、豊臣秀頼とその母・淀殿の助命を願って、秀頼の妻となっていた家康の孫・千姫を脱出させ、秀頼・淀殿らは、天守閣の北に位置する山里曲輪の土蔵に身を隠しますが、その土蔵に銃弾が撃ち込まれた事で、助命が拒否された事を察します。

炎を逃れて、本丸下の蘆田曲輪(あしだくるわ)にある朱三櫓(しゅさんやぐら)の食糧貯蔵庫に逃げ込んだ秀頼は、
「もはやこれまで」
と覚悟を決め、
「甲斐守(かいのかみ)は母君を、氏家は我を、毛利は女・幼子を介錯せよ」
と命じ、豊国大明神を拝んだ後、淀殿の前に進み出て
「あの世にて…」
と挨拶し、母を頼んだ甲斐守=速水守久(はやみもりひさ)に目配せする・・・

と、速水が淀殿に向けて刀を振り下ろしますが、それと同時に、秀頼が懐から出した脇差を腹に当て、かの氏家行広(うじいえゆきひろ=卜伝)が介錯をしたと・・・

その後、秀頼の言葉通りに、毛利勝永(もうりかつなが)が女たちを介錯し、彼ら側近たちも、それに続きました。(『豊内記』『明良洪範』など)

ここに、大坂夏の陣が終結し、豊臣家はわずか2代で滅びる事となったのです。

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