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「真田丸」で描かれなかった大阪夏の陣終了後・・・あの人は?

真田丸では描かれなかった武将のラストをまとめてみました。

更新日: 2016年12月20日

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Pilgrimさん

城にいた人々や、生き残っていた大阪五人衆はその後どうなったのでしょうか?

戦国のさだめ・・・落城後に自害した人たち

しかし殺到する徳川方を防ぎきることは出来ません。大坂城内に進入されます。

すると、城内の浪人たちが略奪を始めました。内通者によって放火されます。
ルイス・フロイスの手記によるとこのとき放火したのは徳川に寝返ろうとする浪人で、秀頼につかまり石垣から落とされて死んだとあります。実際に裏切者を処刑したのは毛利勝永や大野治長だったかもしれませんがもはや城の混乱は収まりません。
味方のはずの浪人たちまで敵になり大坂城内は戦場の様なありさまでした。
秀頼と淀殿は毛利勝永に守られ蔵に避難します。蔵は徳川軍に包囲されます。

秀頼の正室・千姫を逃がします。保護された千姫は秀頼の助命を嘆願しますが無視されます。秀頼と淀殿は毛利勝永の介錯で自害しました。享年23。

茶々は、秀頼が天下の主と生まれたのに、政治的な
安堵のときもなく、自害させることが悲しいと嘆いた
とのこと。

秀頼は目覚めたあと、淀殿に念仏を唱えさせ、その
只中に淀殿を家来に斬らせ、そののち切腹したとのこと。

しかし淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては、島津氏を頼り薩摩国に落ち延びた説と上野国厩橋まで遁れてきたという説がある。

5月8日。大蔵卿の局は淀殿、秀頼と共に自害して果てました。

茶々の経験した三度の落城に立ち会ったのが大蔵卿の局でした。茶々を育て、ともに最期を迎えました。大蔵卿の局の半生は茶々のためにあったと言えるでしょう。

大坂夏の陣の最終決戦にも敗れると、将軍・徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室である千姫とお初(常高院)を城から脱出させて「今回の騒動は大野治長1人の責任」と、自分の切腹を条件に、豊臣秀頼と淀殿の助命嘆願を行った。
 しかし、聞き入れられず、豊臣秀頼・淀殿・大蔵卿局 (大蔵局)らとともに5月8日、大坂城の山里曲輪で自刃した。享年47。(45とも?)

勝永は大坂城が燃え盛る中、主君・秀頼の自害の介錯をし、父の代から仕えてきた豊臣家の終焉を、その目で見届けます。

そして長男と弟とともに大坂城内で自害し、その生涯を終えました。

大坂城に戻った大助は父の安否が気になり、城名に逃げ込んだ人々に聞いて回った所、天王寺で徳川方と戦って討死したことを知ります。涙を流して父の死を悲しんだ大助は、肌身離さず持っていた、故郷にいる母から貰った真珠の数珠を取り出し、念仏を唱えて静かに切腹を待ったと。

大助が自害する2日前、大助は大坂城からの脱出を勧められたといいますが、拒否。ひたすら念仏を唱えて返答すらせず、静かにその時を待ち、最期は鎧を脱ぎ捨てて切腹し果てたと。その勇ましい姿を見た周囲の人々は「さすがに武士の子」と真田家の男子として立派な最期に賛辞を贈ったと言います。

城からは出たけれど・・・

圧倒的兵力の差に不利とみた治房は敗残兵をまとめて大坂城に撤退します。しかし、大坂本丸城はすでに出荷して手が付けられませんでした。治房は秀頼の息子・国松をつれて大阪城を脱出しますが、幕府軍に捕らえられてしまいます。

その後については、京で捕縛され斬首された説、逃亡はせずに大坂城に飛び込み焼死した説、播磨国姫路に逃亡して池田家家臣の内田勘解由に匿われた説など諸説ありはっきりしない。

盛親は出家を条件に助命を嘆願しますが、家康はこれを許しませんでした。

家康は長宗我部氏の再興を諦めていない盛親の心情を読み取っており、生かしておけばいずれまた反乱にくみするだろうと、予測していたようです。

二条城の門前に晒された際に、折敷に盛った強飯と赤鰯を足軽からあてがわれ、「戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。早く首を刎ねよ」と怒った。これを聞いた井伊直孝は盛親を座敷に上げて、大名料理で供応した。盛親はこの心遣いに感激したという。

生死不明な人・・・

小倉行春らとともに徳川家康の陣に突撃しようと試みますが、真田信繁ら友軍が壊滅したことを知ると、戦場からの脱出を試みます。 

明石全登は藤堂高虎らの隊と交戦したあとに行方不明となったという。

その後の動向であるが、徳川実記、土屋知貞私記、石川家中留書など徳川側の家伝では、明石全登は水野勝成の家臣・汀三右衛門又は石川忠総に討ち取られたとあり、大坂御陣覚書、大坂記などでも討死したとある。
しかし、大村家譜、山本豊久私記などでは、嫡子・明石内記と共に九州に落ち延びたとあり、戸川家譜、武家事紀では南蛮(スペイン・ポルトガル)に逃れたとある。
備前・和気郡に潜伏したともされ、実際に江戸幕府は「明石狩り」をするほど、噂を恐れていたようだ。

また、明石全登のご子孫と言う一族の話では、大阪落城後に仙台の伊達政宗に保護され、その後、幕府の目が厳しくなると、津軽信枚の保護を受け弘前城内にて匿われ、1618年(元和4年)に病死したとされる。

生存説多数!

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