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台湾の「日本」統治時代を、現地アニメで振り返る

台湾の歴史を楽しく描いたアニメ動画は、Youtubeでの日本語訳も加わり、十分理解できる内容になっている。現地の観点がふんだんに盛り込まれているので、グローバルな観点(相手の立場)に立つという疑似体験もできる。さあ学んでみよう、日本と関係の深い、それでいて日本人の知らない世界を。

更新日: 2017年01月10日

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まず、日本語の字幕を開いてください(Youtube)

【台湾バー】
かつてはタブーだったかもしれない時代の歴史に焦点を当て、冗談っぽく、ユーモアを交え、しかも速いテンポでその歴史を語っていきます。その立場は非常に中立的な視点なので、「統治者」であった日本人になっても大いに参考になるでしょう。繰り返しになりますが、冗談がたくさん挟まるので、理解できなくても気にしないように。

劉銘傳(台湾近代化に着手した清の官僚)と、蔣經國(台湾を統治した蒋介石の息子で、経済重視に転じた)との間の歴史を、ひと言で語るにはなかなか難しいです。なぜならそこには、日本の植民地時代があり、そして大陸と全面対立していた蒋介石(反共・冷戦期)の時代もあり、今日的には肯定も否定もしにくい歴史でもあるからです。

二つの港が開かれ、その後の台湾の経済発展の礎となりました。

当時の日本は、清國由来の三大悪習(纏足、辮髪、アヘン)を一掃しました。

日本が治安強化に努めたこともあり、夜は戸締まりせずとも安全な生活になったと言われます。

この他、衛生面や伝染病への対策も盛り込まれ、インフラ建設と合わせて、日本時代を尊ぶ声が多いです。しかし、その一方、日本には日本の目的があり、現地人に対する明確な差別もありました。この愛着と恨みの双方をとりあえずは脇に置いて、その歴史を振り返ってみることは有意義でしょう。

日本の台湾統治が始まってしばらくすると、台湾の山間部にいた原住民の扱いについて踏み込むことになりました。そこでトラブルが発生します。一番有名なのは、「霧社事件」ですね。そこで激しい衝突が起き、殺戮にまで発展しました。当時、文字のない原住民からすると、日本が自分たちの領地に入ってきたわけで、反日などというものではなく、本能的に反発し、トラブってしまったと考えられます。

日本軍が山の中までやってきたことで、原住民との衝突に至ってしまいました。

日本が植民地・台湾を獲得したばかりの頃は、戦闘の日々が続いていました。しかも、日本人の戦死者160人に対して、疫病のために死んだ人数が4,600人にのぼったとも言われます。また、台湾は決して「儲かる」土地でもなく、日本本土には財政負担ばかりが増していきました。そして出てきた議論が、台湾をフランスに「売っちゃえ」でした。

国会で議論されたのは、台湾売却論でした。はてさて、台湾がフランスに売却されていたとしたら、今の台湾はどうなっていたのでしょう?

当時の台湾総督(第4代)児玉源太郎が台湾の売却を拒み、台湾問題の解決に本腰を入れたのが、後藤新平です。児玉は軍政の要職を務めていたため、台湾に駐在はしておらず、実務一切を取り仕切ったのは後藤です。後藤はその豪腕ぶりを発揮し、不満分子の徹底弾圧だけでなく、現地調査、そして政府専売を始め、財政収入を安定させました。

第4代総督児玉源太郎の下で明治31(1898))年に第3代総務長官(初代民政長官)に就任した後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通・情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという"硬軟"の両政策を有効に用いることで統治体制を確立した。

当時の台湾総督府、事実上のトップだった後藤新平が採用した政策は、アヘンの専売でした。彼は医者であったために、アヘン吸引という悪習の撲滅は理解していたようです。しかし、急進的な政策は反発や暴動を起こしかねなかったため、政府がコントロールし、徐々にその脱却を図ろうとしました。また、アヘンを専売することで、台湾の無茶苦茶だった財政を立て直すことにも利用したようです。

徐々に禁止を強めていく政策は、それなりの効果を上げました。しかし、アヘンからの脱却が完了するのは、日本統治が終わった後のことです。

▼台湾の日本統治あるいは敗戦その後の詳細については、下記のリンクも合わせて参照してください

▼では、再び戻って、台湾バーが表現する日本統治時代のお話

すなわち、日本の植民地政策とは、台湾を、同じ日本の領地領民として扱ったのか、それとも単に、「植民地」として経営したのか、という問いです。その答えですが、当初はまさに植民地統治でした。しかし第一次世界大戦後、民族自決が世界の新たな趨勢になった時、日本にも再考が迫られました。そこで出てきた新しい政策が、日本本土(内地)と同じ権利を付与する方式です。多くの台湾人が、日本に留学したりできるようにもなりました。差別は、制度的にも意識的にも残ったようですが、それでも両者の関係は徐々に改善されてきました。

日本本土との平等が唱えられるようになると、教育重視が大きな課題となり、皇民化教育のもと、学校建設や日本留学なども盛んになりました。

陳澄波は日本で教育を受け、画家としての才能を発揮させた。その作品はもちろん、台湾の美術界の発展にも力を注いだとされる。

周婉窈《台灣歷史圖說 増訂本》(聯經出版、2009年)(邦語訳では初版が『図説 台湾の歴史』[平凡社、2007年]として刊行):中文原書の増補改訂版のカバー表1に陳澄波の作品「嘉義公園」が使われている。

陳澄波は1895年、台湾中部の都市・嘉義に生まれた。公費で通える国語学校師範科に入学、ここで美術教師の石川欽一郎に出会って絵画の世界に目覚める。卒業後、30歳にして東京美術学校に入学し、帝展にも入選した。その後、とにかく家族を養わなければならないため上海の美術学校で教員となる。ここで中国画のスタイルに関心を持ち、影響を受けたが、1932年の第1次上海事変に伴って台湾へ帰郷。台湾で後進を育てるべく様々な活動を展開。1945年、日本の敗戦後は嘉義市の役職に就く。1947年に二二八事件で捕まってしまい、銃殺された。

日本統治時代の台湾の作曲家。唐崎夜雨のペンネームでも活動し、後に東田暁雨という日本名に改名した。

錄音製作:台北凡雅三重奏 (Recording producer by Taipei Fine Arts Trio)
改編:王怡雯 (arr. by I-Uen Wang)

纏足とは、女性が子どもの頃に足を縛られ、足が大きくならないようにされた風習のことを指します。しかし、日本統治時代になると、中国大陸(清朝)由来の風習は強制撤廃となり、また女性の教育、そして社会進出も徐々に整備されていきました。纏足によって歩きにくかった女性を見れば気の毒なのでしょうが、今日の女性が好んでハイヒールを履き歩きにくそうにしているのは、若干「皮肉」な光景に感じる人もいるでしょう。

纏足時代の女性は、歩行困難で、厄介な田畑の仕事はせずにすんだようです。(特権??)

1920年代、台湾の「内地延長」が認められ、台湾人にも徐々に知識が身についてくると、台湾に置かれた現状に疑問を覚える人間も現れ始めました。平等を求め、そして自治を求め、台湾人の気持ちに火がつきかけたのです。ところが、これは韓国のように激しい反日運動には至りませんでした。どこまでも穏健に、穏健にと進むのですが、それらの力が結局まとまることはありませんでした。

台湾は台湾人のための台湾だと言います。具体的には議会の設置運動でした。当時の総督府(台湾を統治した日本の執政機関)はこれを認めず、対立は深まり、一時は日本本土にまでこの運動が広がるかに見えました。

板垣退助の呼びかけに応じた林献堂の奔走により、1914年(大正3年)に発足した「台湾同化会」が、台湾人による合法的な反日本統治活動の最初である。その後、蒋渭水が提唱し、林献堂が先頭に立って青年学生を結集し、「台湾文化協会」が1921年に設立された。最後に、林献堂、蔡培火、蒋渭水らが結集し台湾最初の合法政党「台湾民衆党」の結成までには至った(1927年)ものの、内部での分裂や対立を繰り返して弱体化。そして総統府の命令によって強制解散させられる(1931年)。《Wikipedia参照》

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