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【軍事】第二次世界大戦時の各国主力爆撃機・攻撃機まとめ(単発機編)

第二次世界大戦時の単発爆撃機・攻撃機まとめ。この時代の爆撃機・攻撃機は種類が豊富なため、エンジンが1つだけの単発機とエンジンを2つ以上装備した大型の多発機にまとめを分けています。また、他国製の爆撃機や攻撃機を使った例も多く、必ずしも自国製のみで戦ったわけではありません。

更新日: 2020年01月13日

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holy777さん

爆撃機(ばくげきき)は、より多くの爆弾類を搭載し強力な破壊力を持たせた航空機であり、搭載量が小さいものは攻撃機と呼ばれる。

しかし爆撃機以上の搭載量を持つ攻撃機も存在するため、必ずしも区分は明確ではない。また、戦闘機に対地攻撃能力を付与した「戦闘爆撃機」も数多く使われた。

第2次世界大戦では爆撃機が戦争の行方を決定するのに大きな役割を果たした。

第2次大戦では前線での爆撃機・攻撃機による対地攻撃に加えて、大規模な都市爆撃も行われた。その結果、軍民共に多くの犠牲を出すこととなった。

海では航空母艦から発進した爆撃機や攻撃機が海上戦力として最も有効である事が明らかになり、更に地上攻撃にも柔軟に対応できた結果、制空権=制海権という状況になった。

爆撃機・攻撃機と空母の組み合わせは海の戦いも一変させた。

日本海軍

初飛行:1937年1月8日(B5N)
生産数:1,149機

 日本海軍初の単葉引き込み式の機体。艦上攻撃機として大戦前半の主力となった。
 採用コンペでは三菱の試作機と争い、性能に甲乙つけ難く、中島機は97式一号艦攻、三菱機は97式二号艦攻として共に採用された。
 三菱機は単葉機ながら固定脚だったのに対し、中島機は引き込み脚で先進性があり、海軍はこれの更なる改良を指示。エンジン換装した機体が97式三号艦攻として制式採用され、以後この機体が主力機となった。
 出現時は世界最高の艦攻であったが、対潜中盤以降は陳腐化。後継の天山に譲り一線を退いたが、哨戒任務などで終戦まで使用された。

初飛行:1938年1月
生産数:1,486機

 大戦初期、日本海軍の主力となった艦上急降下爆撃機。
 機体は固定脚の堅実な設計。武装は7.7mm固定機銃×2と7.7mm後部旋回機銃×1。250kg爆弾×1と60kg爆弾×2を搭載出来た。
 安定した飛行性能で、急降下爆撃では熟練搭乗員の技量と相まって驚異的な命中率を誇った。大戦初期には零戦、九七艦攻と共に海軍主力艦上機として各地で活躍した。
 反面低速と防弾装備の不足は大戦中期以降の被害増大に繋がった。損耗率が高くなると搭乗員からは「九九式棺桶」と蔑まされてしまい、最後は特攻機として使われた。

初飛行:1940年11月15日
生産数:2,253機

 海軍の航空機研究機関である海軍航空技術廠で開発され、先進的な機構を多く盛り込んだ爆撃機。
 日本軍機には珍しい水冷エンジンを搭載。最高速度は546km/hを発揮した。水冷エンジンの生産性や整備性に難があったため、
 後に空冷エンジンに付け替えたタイプも生産され、速度は多少落ちたが軽量で扱いやすい機体となった。
 高速と良好な飛行性能から一部の機体は夜間戦闘機としても使用された。

初飛行:1941年3月14日
生産数:1,266機

 九七式艦上攻撃機の後継となった艦上攻撃機。
 世界水準の性能を備えた機体ではあったが、実用化された戦争中盤以降、既に日本海軍は劣勢であったため当機も出撃の度に相当な損害を被った。
 強力なエンジンを装備して九七式とくらべて諸性能が向上したが、強力故のプロペラトルクの問題や整備性に悩まされることもあった。

日本陸軍

初飛行:1937年2月28日
生産数:686機

 日本陸軍初の単葉単発軽爆撃機。
 三菱は97式司令部偵察機の基本設計を流用し、胴体に爆弾倉を備える2人乗りの軽爆撃機に仕上げた。急降下爆撃も可能で高い信頼製が持ち味。やや鈍重なことと搭乗員の席が離れていて意思疎通しづらいのが欠点であった。
 最大400kgの爆弾を搭載可能で、日中戦争やノモンハン事変で活躍。太平洋戦争開戦時も南方戦線で出撃したが、この頃には最大425km/h程度の速度では被害も大きく、後方任務に下げられた。
 大戦末期には特攻に使われる機体もあった。

初飛行:1937年3月
生産数:854機

 陸軍爆撃機としては唯一の液冷エンジン機。
 九七式軽爆撃機との競争試作で敗れ、そのまま不採用となるはずだった当機だが、日中戦争の泥沼化による航空機不足に対応するため急遽採用が決まった。
 諸性能は優れていたものの、高い技術力が求められる水冷エンジンに不具合が多発し、稼働率は低かった。
 太平洋戦争緒戦までは一線で活躍し、その後は練習機として使われた。

初飛行:1938年4月
生産数:約1,334機

 地上部隊と連携して偵察や弾着観測、近接航空支援を行うための機体。
 地上の視界を確保するため、キャノピーは大型の物を装備し、翼は前縁に後退角が付いている。偵察や連絡を主な任務としたが、最大250kgの爆弾を装備して前線部隊の支援も行った。
 この機体の後部座席に操縦装置を追加した機体が九九式高等練習機として採用されている。

初飛行:1939年6月
生産数:2,385機(偵察機型を含む)

 低空から敵地上施設や軍を攻撃することを目的とした近接支援用の軽爆撃機。
 通常の軽爆撃機よりも低空での軽快な運動性を重視。また地上からの攻撃に備え防弾装備も充実していた。代わりに爆弾搭載量は200kg程度に抑えられている。
 前線での使い勝手の良さから重宝され、偵察機型も生産された。大戦中期以降は陳腐化し、最後は特攻にも使用された。

アメリカ海軍

初飛行:1940年5月1日
生産数:5,936機

 太平洋戦争の転機となったミッドウェー海戦で日本空母4隻を沈めた急降下爆撃機。
 大戦中期までアメリカ海軍主力爆撃機として活躍。同時期の九九式艦上爆撃に比べて速度や爆弾搭載量などで上回っていた。穴の空いたフラップをダイブブレーキとして使うのが特徴。
 珊瑚海海戦での祥鳳撃沈を皮切りにミッドウェー海戦や第二次ソロモン海戦でも空母を撃沈し米軍勝利に大きく貢献した。
 高い信頼性や操縦性、爆弾搭載量から大戦の全期間を通じて第一線で活躍。陸軍でも艦上機用の装備を外し、A-24バンシーの名称で使用された。

初飛行:1940年12月18日
生産数:7,140機

 海軍の無理な要求とカーチス社の繊細を欠く設計で搭乗員からは失敗作の烙印を押された急降下爆撃機。
 大馬力エンジンを搭載しながら空母に搭載するため、機体は酷く寸詰まりとなってしまい、結果的に安定性や離着陸性能が低下した。
 しかし爆弾搭載量の多さや魚雷攻撃も出来る汎用性は高く評価された。搭乗員からは「Son of a Bitch 2nd Class(二流の酷い奴)」と蔑まさながら、運用者からは好まれ、結果的に7000機以上が生産された。大戦後半の米海軍主力艦上爆撃機として日本軍壊滅の立役者となっていった。

初飛行:1941年8月7日
生産数:9,836機

 ミッドウェー海戦以降の米海軍主力雷撃機。
 高馬力エンジンと堅牢さ、汎用性の高さが特徴。大戦初期の雷撃機TBDデバステーターが時代遅れになると、1942年後期ごろから本機が主力の座についた。3人乗りの機体だが後部旋回機銃の下には後下方機銃の席も付いている。魚雷、又は爆弾900kgを装備出来る他、翼下にロケット弾の装備も可能。
 大戦中は日本海軍の多くの主力艦撃沈に貢献。終戦まで太平洋のあらゆる戦域で対艦・対地攻撃に従事した。
 雷撃機の他にも対潜哨戒機としても活躍。戦後もしばらくの間、各国で使用され続けた。

アメリカ陸軍

初飛行:1942年10月
生産数:500機

 第2次大戦最強の戦闘機と言われるP-51。その初期型に対地攻撃、急降下爆撃能力を付与したタイプ。
 優れた急降下爆撃能力と共にP-51譲りの空戦性能を誇り、多数の敵戦闘機を撃墜している。大戦終盤ごろにはP-47に任務を託して一線を退いた。
 ちなみに公式愛称はアパッチだが、現場ではインベーダーやムスタングと呼ばれることが多かった。

初飛行:1939年3月30日
生産数:1,931機

 英国用に生産されたアメリカ製急降下爆撃機。
 元々はフランスが発注した機体だが、フランスがドイツに敗れると英国が代わりにこの機体を購入した。英軍ではアジア方面部隊で使用。他にはオーストラリア軍やインド軍で使用された。
 爆弾倉に452kg、翼下に226kgの爆弾を搭載し、7.62mm機銃×6(主翼内×4、後方旋回×2)という武装で対地攻撃に活躍。機体の頑丈さも特徴だった。主翼を再設計し、12.7mm機銃装備としたA-35も開発された。
 2,000機近く生産されたが、アメリカ国内では訓練機等としてしか使用されなかった。

イギリス空軍

初飛行:1936年5月10日
生産数:2,185機

 イギリス空軍最初の低翼単葉引き込み脚の爆撃機。
 イギリス空軍近代化の吹き矢となった存在だが、大戦勃発時には旧式化。緒戦で大損害を受けたが、それでも一定数が揃っている貴重な戦力として損害覚悟で使用され続けた。
 航空戦力が整い始めると沿岸警備や練習機など後方任務に回され、終戦まで使い続けられた。

イギリス海軍

初飛行:1934年4月17日
生産数:2,391機

 羽布張り複葉の旧式機ながら、大戦のほぼ全期間に渡って活躍した艦上雷撃機。
 旧式ながら雷撃以外にも急降下爆撃なども可能で、高い信頼性も相まって搭乗員からの評価は高かった。ドイツ軍が有力な海上航空戦力を持たなかったこともあり、大西洋で対艦・対潜攻撃に活躍した。特にドイツ戦艦ビスマルク撃沈に一役買ったことなどが有名。
 しかし海上航空戦力が強力な日本軍相手にはあまりに無力で、太平洋戦域では早々に壊滅してしまっている。
 後継機が出た後も対潜哨戒任務などで終戦まで使用された。

初飛行:1938年12月12日
生産数:800機

 ソードフィッシュの後継として作られながら機体に応えられなかった雷撃機。
 着艦性能確保のため機体は複葉となったが、1938年当時でも既に旧式であることは否めなかった。それでいて運動性能などでソードフィッシュに劣り、現場では当機よりソードフィッシュを好む搭乗員も多かった。
 結局ソードフィッシュよりも早く1942年ごろには一線を退くこととなってしまった。

初飛行:1940年12月7日
生産数:2,607機

 特異な形状の艦上攻撃機。
 新しい艦上攻撃機としてアルバコアを導入した英海軍だが、複葉の機体が時代遅れであることは明らかで、後継の単葉機として開発されたのが本機である。
 艦上での短距離離着陸に有利な高翼形式で特徴的な見た目となっている。急降下爆撃も出来る汎用機だったが、重量過多に悩まされた。またエンジン選定に手こずったこともあり、実戦参加は1943年半ばを過ぎてからだった。

ドイツ空軍

初飛行:1935年9月17日
生産数:5,752機

 ドイツ軍の電撃戦を支えた急降下爆撃機。
 翼がV字に折れ曲がった逆ガル翼が特徴。設計は古いにも関わらず、後継機に恵まれなかったため大戦終盤まで使い続けられた。
 大戦序盤は地上軍と連携した急降下爆撃で名を馳せたが、バトルオブブリテンでは低速のため被害が増大。以降は対戦車攻撃機として使用されるようになる。特にG型は37mm砲×2を装備し、タンクキラーとして東部戦線で活躍した。
 対戦中盤以降、ドイツ空軍が制空権を喪失すると本機も活躍の場を失くすこととなっていった。

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