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現存する阪東妻三郎プロダクション作品

阪東妻三郎、バンツマ。1953年7月7日にまだまだ若い51歳で亡くなってしまったから、その晩年の姿ですらリアルタイムで観た人はいまや高齢者なのだが、大正末期にわずか23歳にして自らのプロダクションを設立した大スターであった。その絶頂期の作品は現在どれだけ観られるのかを追ってみた。

更新日: 2017年01月31日

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kmrt_nさん

阪東妻三郎て誰?( ´ ▽ ` )

まずそこから行きます。

阪東妻三郎 ばんどう つまさぶろう
[生] 1901.11.14. 東京
[没] 1953.7.7. 京都
映画俳優。本名田村伝吉。 11世片岡仁左衛門の内弟子となり、舞台に出演したが、1922年映画俳優に転じ、『鮮血の手型』 (1923) で人気スターとなった。 1927年プロダクションを創立、1937年日活に入社、以後大映、松竹と転じ、阪妻の愛称でファンに親しまれた。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説。プロダクション設立の年号は「株式会社化」した年の間違いです。

監督 沼田紅緑
原作脚本 寿々喜多呂九平
1923年10月17日公開(前篇)
1923年10月26日公開(後篇)
製作 マキノ映画製作所等持院撮影所
配給 マキノキネマ

第一回主演作品。プリントは現存しない。

監督 東隆史
脚本 佐々清雄
1931年7月15日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション関東撮影所
配給 パラマウント映画

とにかくイケメンである。どれだけ人気があったかといえば、アメリカの映画会社であるパラマウントが配給したいと思うくらいなのである。

しかし本作のプリントは現存しない。したがって現在観ることはできない。

阪東妻三郎 ばんどう つまさぶろう
1901年12月14日生まれ。田村高広・田村正和の父。11代片岡仁左衛門の弟子。1923年マキノ映画にはいり、時代劇『雄呂血』などに出演。剣戟王阪妻の異名をとり、チャンバラ時代劇の大スターとなる。また『無法松の一生』『王将』などの名演技で知られた。1953年7月7日死去。51歳。東京出身。本名は田村伝吉。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説。元号を西暦に改めた。田村亮を含めた田村三兄弟の父でもあります。

「田村正和です。阪東妻三郎は僕のパパです」

さて前史は省いて、すでに若手ナンバーワンスターになった阪東妻三郎が独立してから、会社解散までの絶頂期の作品は現在見られるのか。

阪東妻三郎プロダクションとは?

阪東妻三郎プロダクション(1925年9月 設立 - 1936年12月 解散)は、かつて京都、のちに千葉の東京湾岸に存在した映画会社である。当時の若手人気俳優阪東妻三郎が設立した、日本初のスタープロダクションであり、また当時なにもなかった「太秦」の地に初めて撮影所を建設、130本以上の映画を製作した。1927年に株式会社化、1931年からの正式社名は大日本自由映画プロダクションであった。

とにかく「日本初のスタープロダクション」なのである。

プレ太秦時代

1925年6月、牧野省三の東亜キネマからの独立、マキノ・プロダクションの設立とともに、同年9月に阪東も独立、「阪東妻三郎プロダクション」を設立した。阪東妻三郎23歳のときのことである。

総指揮 牧野省三
監督 二川文太郎
原作脚本 寿々喜多呂九平
1925年11月20日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション
配給 マキノプロダクション

帝国キネマから独立した中川紫郎が奈良に設立した中川映画製作所をレンタル使用して撮影された。マツダ映画社が本篇74分を所蔵。

監督 志波西果
1926年2月20日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション
配給 松竹キネマ

浅草の映画館・大東京を経営する高松豊次郎率いるタカマツ・アズマプロダクションの吾嬬撮影所をレンタル使用して撮影された。本作から松竹キネマと配給契約を結んだ。おもちゃ映画ミュージアムが8分24秒の断片を所蔵。

太秦撮影所時代

現在の東映京都撮影所である。

1926年5月2日、映画の配給業者であった元東亜キネマ取締役営業部長立花良介の一立商店がスポンサーとなり、「合名会社一立商店阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設した。

これが太秦初の撮影所であり、昨年は設立90周年であった。

1926年9月、当時のスター俳優阪東妻三郎は、米国ユニヴァーサル社のために阪東妻三郎プロダクションが映画製作を行なう旨の契約を同社と交わした。

この契約により、ユニヴァーサル社からは撮影・照明等の機材、現像機材、特殊撮影機材等、当時の金額で20万ドルに相当する供与を受け、また半年交代で3-4名の技術スタッフ派遣を受け、阪妻プロからは毎年男女優1名ずつをユニヴァーサル・シティに派遣、見学および必要に応じては出演も可能、太秦撮影所製作の映画をユニヴァーサル社が世界配給も可能、という壮大な計画を立花は発表した。

アメリカの映画会社であるユニヴァーサルが配給したいと思うくらいの大スターである。

しかしなぜか配給は松竹キネマである。

監督脚本 安田憲邦
原作 青木緑園
1926年12月31日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

マツダ映画社が本篇の一部15分の16mmプリントを所蔵。

監督 小沢得二
原作脚本 宮本一八
撮影 高城泰策
主演 堀川浪之助/泉春子
1927年4月22日公開
製作 阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画
配給 ユニヴァーサル映画

阪東妻三郎プロダクションと米国ユニヴァーサル映画の合弁会社である「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」が製作した作品のなかで、奇蹟的に発見された1本。画像は主演の堀川浪之助。おもちゃ映画ミュージアムが断片を所蔵。

監督 安田憲邦
原作脚本 佐々清雄
1927年7月15日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

おもちゃ映画ミュージアムが50秒の断片を所蔵。

監督 枝正義郎
原作脚本 冬島泰三
撮影 友成達雄
1928年5月18日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

東京国立近代美術館フィルムセンターが本篇の一部21分、京都府京都文化博物館映像情報室が本篇の一部30分をそれぞれ所蔵。マツダ映画社が本篇の一部32分の16mmプリントを所蔵。

監督 犬塚稔
脚本 大須賀満
原作 玉田喬士
1928年10月20日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

マツダ映画社が本篇の一部25分の16mmプリントを所蔵。

監督 犬塚稔
1928年12月11日公開(第一篇)
1929年5月10日公開(第二篇)
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

おもちゃ映画ミュージアムが1分10秒の断片を所蔵。

監督 湊岩夫/横溝雅弥
1928年12月31日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

東京国立近代美術館フィルムセンターが本篇の一部29分を所蔵。

監督 沖博文
脚本 大国狂助
1929年12月31日公開
製作 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所
配給 松竹キネマ

神戸映画資料館が本篇の一部17分を所蔵。『次郎長外伝 森の石松』題で2008年NIPPON CONNECTION(フランクフルト)で上映、弁士片岡一郎が説明上演した。

この間の度重なる松竹の冷遇を糾弾する声明を発表するとともに、1930年6月26日付で阪東は松竹を脱退した。太秦撮影所を松竹に明け渡し、同撮影所は「松竹太秦撮影所」と改称された。

「明け渡し」とあるが、当時のキネマ旬報によれば従来の「阪東妻三郎プロダクション」は「太秦興業株式会社」と商号を変更、同撮影所は松竹キネマにレンタルしただけである。実際には火事で長瀬撮影所を焼け出された帝国キネマ演芸がすぐにこれを使用している。

谷津撮影所時代

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