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ネストリウス派とは?

「キリスト教は、西洋の宗教。」と思っている人は多いのではないだろうか。

実は、キリスト教発祥の地はアジアの西端、イスラエルである。
日本では、そこからラテン語圏を経由して到達した「西回りのキリスト教」のイメージが根強い。

しかし、イスラエルからシリア語圏へと広がり、古代にアジア大陸に伝播した「東回りのキリスト教」を忘れてはいけない。

東に伝播したキリスト教の中でも重要な一派が、ネストリウス派・東シリア教会である。シリアからペルシア・中央アジア・インド・中国・モンゴルまで多くの信徒を獲得したこの教会は、ある時代においてはキリスト教のうちで最も広く分布した宗派であったと思われる。

アジアの隅々までキリスト教を届けた「ネストリウス派」は、どんな宗派なのだろうか?

エフェソス公会議

ネストリウス派は、エフェソス公会議(AD 431)でエフェソス派(ギリシア正教会、ローマ・カトリック教会、プロテスタント諸教会、非カルケドン派諸教会)と分離した。

「東シリア教会」「アッシリア派」「カルデア派」などと呼ばれる。

コンスタンティノープル主教ネストリウスがイエスの神性と人性の分離を主張し、マリアを「神の母」と呼ぶことに反対した。これに対し、アレクサンドリアのキュリロスなどが中心となって反論した。結局ネストリウスの教説は公会議において弾劾されることとなり、ネストリウス派は東へ拡大していくことになる。

アンティオケア

エデッサ

東シリア教会の源流を築いたもう一つの地として、エデッサがある。

エデッサ教会について初期キリスト教において有名な伝説として、エデッサ王アブガル5世がイエス=キリストと往復書簡を交わしたというものがある。イエスの昇天後に派遣された聖アッダイ(十二使徒ユダ・タダイあるいは七十門徒のことと思われている)がアブガル5世と家臣たちに洗礼を授けたとされる。
エデッサ王家の改宗が1世紀にあったという証拠はこの物語以外に存在しないが、2世紀のアブガル8世がキリスト教徒であったことはユリウス・アフリカヌスも証言している。

4世紀にはローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオケアと並ぶキリスト教神学の中心地として興隆し、シリアの聖エフレム(AD c.305-73)などが活躍した。エデッサはシリア語文書とシリア神学の中心となった。

エフェソス公会議(AD 431)のころのエデッサ司教ラブラ(-AD 435)は公会議を支持したが、ラブラを継いだイーバスはネストリウス派寄りの立場であった。公会議ののちもシリア地域では東西シリアの神学がせめぎあっていたが、エフェソス強盗会議(AD 449)で破門されたネストリウス派の指導者バル・サウマーがペルシアのニシビスに逃れたころからネストリウス派は西シリア教会から分離し東シリア教会として東に中心地を移していった。

ニシビス

景教

景教と古代日本の関わりを指摘する説があり、特に渡来系で木嶋坐天照御魂神社や広隆寺を創建した秦氏や、唐朝に留学した真言宗の開祖・空海と結びつける説が多いが、確固たる証拠はまだない。

カルデア帰一教会

ネストリウス派の会堂が中国で「波斯寺」と呼ばれたように、ネストリウス派の牙城はペルシア地域(イラク〜イラン)であった。

ペルシアではエフェソス公会議より以前の1世紀から3世紀の間に既に教会が設立されていた。

ユーラシア大陸の隅々までキリスト教を届けたペルシアのキリスト教は、ティムール朝(AD c.1400)の破壊的征服を一つの契機として16世紀までに大きく衰退した。
西方教会による布教が始まると、ネストリウス派教会の一部がカトリックの庇護下に入った。これがカルデア帰一教会である。

典礼は東シリア典礼を継承している。

シロ・マラバール教会

4世紀から16世紀まで、ペルシアのネストリウス派教会から派遣された司教が立てられていた。現在も東シリア典礼と似た典礼を保持している。

ポルトガルの来航後、カトリック教会に編入された。

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