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黄巾の乱とは 【三国志】

三国志のはじまり「黄巾の乱」を詳しく解説。

更新日: 2017年05月26日

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goldsansoxさん

■黄巾の乱

黄巾の乱(こうきんのらん)は中国後漢末期の西暦184年に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。


三国志のあらすじ
https://matome.naver.jp/odai/2148612934787398001

■黄巾の乱のはじまり

1・「太平道」の教祖、張角

自ら大賢良師と称し、「太平道」とゆう新興宗教の信者を集め養っていた。符水を飲ませることで信者の病を癒したため、人心を掌握。10余年のうちに、数十万人の信者を8つの州で獲得する。

張角 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%A7%92

※小説『三国志演義』では、張角・張宝・張梁の3兄弟はある日、山に薬草を採集しに行ったところ南華老仙という人物に会い、「太平要術」3巻を授けられ「まさに天に代わりて宣化し、あまねく世人を救うべし。」との使命を与えられる。これにより風雨を呼ぶ能力を身につけ、「太平道人」と号すことになる。張角は符水をもって人々の病を癒し、その後、史実通りに黄巾の乱を起こす。

2・蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉

太平道は、数十万の信徒を三十六個に分け、一単位を「方」とし軍事組織化していった。 そして武装蜂起を計画した張角は、漢王朝の転覆を暗示した「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉」というスローガンを流布し、役所の門などに「甲子」の二文字を書いて呼びかけた。

「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」
(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)

蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であった。彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので黄巾の乱という。

3・張角捕縛の命

184年、先に荊・揚州で兵を集めさせていた馬元義を洛陽に送り込み、中常侍の封諝、徐奉等を内応させ内と外から蜂起するよう約束した。

しかし、張角の弟子の唐周が宦官達に密告した事で蜂起計画が発覚し、馬元義は車裂きにされた。

事を重く見た霊帝は三公や司隸に命じ、宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下した。

馬元義 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%85%83%E7%BE%A9

※小説『三国志演義』では、史実と同様に洛陽に潜伏しているが、工作の対象が十常侍に変更されている。

4・蜂起

184年2月、事がもれた張角は予定より早く諸方に命じ一斉に蜂起し、自らを天公将軍と称し、弟の張宝、張梁をそれぞれ地公、人公将軍とした。

張宝 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AE%9D

黄巾党の指導者の一人。兄は張角。弟は張梁。地公将軍と自称した。

張梁 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%A2%81

黄巾党の指導者の一人。兄は張角・張宝。人公将軍と自称した。

5・朝廷の対応

霊帝は何進を大将軍とし洛陽を守護させ、黄巾賊討伐の義勇軍を全土で募集する。

盧植を張角がいる冀州方面へ、皇甫嵩と朱儁に豫州潁川方面へと、それぞれ黄巾の勢力が強い所へ派遣した。

何進 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E9%80%B2

※後漢末期の大将軍。元は家畜の屠殺・販売業を営む普通の男性。しかし異母妹が皇帝に見初められ皇后になったお陰で皇帝付きの武官になる大出世を果たし、黄巾の乱の際には大将軍となる。

※三国志時代の地図

■黄巾の乱の推移(朝廷軍VS黄巾賊)

1・豫州・潁川黄巾軍

184年4月、朱儁は潁川にて波才と激突し敗走する。

184年5月、皇甫嵩、朱儁は長社に篭城し、それを波才は大軍を持って包囲した。劣勢のなか、皇甫嵩は軍を鼓舞し火計を用いて波才軍を混乱させ長社を討ってでて波才軍を敗走させた。

そこにちょうど援軍に来た曹操軍と合流しさらに戦い大いに打ち破り、追撃し陽翟において波才軍を壊滅。

2・荊州・南陽黄巾軍

184年6月、豫州を平定し終えた朱儁は趙弘の篭る宛城を包囲した。

8月、宛城を包囲中に何者かが朱儁更迭を進言しているという噂が流れる。この事態を受け、朱儁は急遽攻撃を開始し趙弘を斬った。趙弘を失った黄巾軍は韓忠を代わりに立て再び宛城に篭ったが、朱儁揮下の孫堅の活躍もあり宛城は落城した。南陽黄巾軍は新たに孫夏を立て抵抗を続けた。

10月、朱儁は激しく抵抗を続けた孫夏をついに破り南陽黄巾軍を壊滅した。

3・冀州・張角軍

184年6月、冀州にて黄巾軍に連戦連勝した盧植軍は、張角が広宗に篭城するとそれを包囲し攻め落とそうとした。盧植軍は終始優勢だったが派遣されてきた小黄門・左豊に賄賂を贈らなかったため、恨まれ讒言されて職を解かれてしまう。代わりに董卓が派遣されたが逆に黄巾軍に敗れた。

8月、霊帝は豫州を平定したあと兗州東郡において卜己軍を打ち破った皇甫嵩を冀州に派遣するよう命じた。

10月、皇甫嵩は広宗で黄巾軍を奇襲によって破り張梁を斬った。このときすでに張角は病死していたのでその遺体を引きずり出し晒した。さらに鉅鹿太守の郭典と共に、曲陽にて張宝を打ち破りこれを斬った。これにより指導者を失った黄巾族は瓦解し、黄巾の乱は収束に向かう。

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