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【軍事】第二次世界大戦時の各国主力爆撃機・攻撃機まとめ(大型機編)

第二次世界大戦時の多発爆撃機・攻撃機まとめ。この時代の爆撃機・攻撃機は種類が豊富なため、エンジンが1つだけの単発機とエンジンを2つ以上装備した多発機にまとめを分けています。また、他国製の爆撃機や攻撃機を使った例も多く、必ずしも自国製のみで戦ったわけではありません。

更新日: 2018年03月17日

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holy777さん

第2次世界大戦では爆撃機が戦争の行方を決定するのに大きな役割を果たした。

第2次大戦では前線での爆撃機・攻撃機による対地攻撃に加えて、大規模な都市爆撃も行われた。その結果、軍民共に多くの犠牲を出すこととなった。

爆撃機(ばくげきき)は、より多くの爆弾類を搭載し強力な破壊力を持たせた航空機であり、搭載量が小さいものは攻撃機と呼ばれる。

しかし爆撃機以上の搭載量を持つ攻撃機も存在するため、必ずしも区分は明確ではない。また、戦闘機に対地攻撃能力を付与した「戦闘爆撃機」も数多く使われた。

英米は大量の爆弾を搭載できる4発重爆撃機を次々に製作し、日独の都市や工場を爆撃して両国の継戦能力を奪った。また日本近海への空中投下機雷による海上封鎖で生じた国内航路船舶の被害は、潜水艦による通商破壊と共に日本の体力を奪った。

大戦末期には英米の重爆撃機によって日独の各都市は多くが焦土と化した。

日本海軍

初飛行:1935年7月
生産数:1,048機

 96式艦上戦闘機と共に日本の航空技術が世界水準に達したエポックメイキング的な機体。
 元は八試特殊偵察機という研究機で、高性能に注目した海軍がこれを爆撃機として改修、採用した。
 長大な航続距離を誇ったが貧弱な防御火力や防弾性能がネックだった。800kgまでの爆弾や魚雷を搭載可能。
 日中戦争では台湾や九州から発進して中国の都市を爆撃し、渡洋爆撃として注目を浴びた。
 大戦初期まで主力として活躍し、マレー沖海戦ではイギリス戦艦撃沈に一役買った。

初飛行:1939年10月23日
生産数:2,435機

 大戦中の海軍主力双発攻撃機。
 九六式陸攻は名機であったものの、爆弾倉が無いことや防御火力に不安があった。当機は胴体を太い葉巻型にすることで機首と尾部に機銃を装備し爆弾倉も備えた。防御火力は20mm機銃など計5丁。爆弾搭載量は最大800kg。
 翼内構造をそのまま燃料タンクとするインテグラルタンクによって長大な航続性能を得たが、一方で防弾性能の低い機体となってしまった。
 後継機の配備が遅れたことから大戦末期まで各地で戦った。後期には有人爆弾グライダー「桜花」を搭載して特攻作戦に参加する機体もあった。

初飛行:1942年6月
生産数:1,102機

 大戦末期に登場した高速陸上爆撃機。
 海軍の航空技術研究機関である空技廠で開発された機体で、最新技術が多く盛り込まれた。乗員を一式陸攻の7名から3名に減らすことで機体を細く仕上げ、一式陸攻と同等の航続力と爆装能力を持ちながら、零戦並の速度性能を発揮した。また防弾装備も日本軍機としてはかなり充実していた。雷撃の他、大型機ながら急降下爆撃も可能であった。
 大戦後半の主力爆撃機として重点生産されたが、搭載した小型大馬力エンジン誉の不具合に苦しめられた。それでも終戦間際の劣勢の中、一定の戦果を挙げている。
 夜間戦闘機型の極光などの派生型も存在する。

日本陸軍

初飛行:1937年
生産数:2,055機

 大戦全期を通じて戦った陸軍主力爆撃機。
 敵飛行場を攻撃することで、航空優勢を確保するための機体として開発された。開発当時としては高速な機体であったが、大戦が始まる頃には陳腐化していた。
 速度は後期型で478km/hで1000kgまでの爆弾を搭載可能。各国の重爆と比べ搭載量が少ないが、これは日本軍が搭載量よりも速度や操縦性、航続性能を優先したため。
 武装面で尾部銃座が無いなど欠点もあったが、防弾装備や操縦性にも優れたことから改良されながら終戦まで使われた。

初飛行:1939年
生産数:1,997機

 他の川崎機にも流用される優秀な設計の双発軽爆撃機。
 当初は高速を活かした前線での汎用機として重宝された。特に整備性や操縦性能の良さは好評だったが、最大500kgという爆弾搭載量は不足気味で、大戦中盤以降は速度も見劣りし被害が増大した。
 機体設計は優れており、キ45に当機の設計を流用することで二式双発戦闘機屠龍(キ45改)として採用された。この他いくつかの川崎機に当機の設計が流用されている。

初飛行:1939年8月
生産数:813機

 九七式重爆撃機の後継を狙ったが、エンジンに恵まれなかった爆撃機。
 戦闘機の護衛が不要な高速かつ重武装の機体として開発。しかし出来上がった機体は最大470km/hと物足りない出来であった。それでも旧式化の始まった九七式重爆に比べ、尾部20mm機銃追加による重武装化や性能向上の余地を加味して百式重爆撃機として採用された。
 その後のエンジン換装などにで速度は490km/hまで向上したが、実戦では護衛戦闘機が不可欠であった。またエンジンの信頼製が低く、大戦中は洋上飛行を避けて大陸側に多く配備されたため、九七式重爆に比して活躍は少なかった。

初飛行:1942年12月27日
生産数:635機

 三菱製双発爆撃機の集大成と言える優秀機。
 百式重爆撃機呑龍の後継として開発を開始。製作元の三菱は九七式重爆や海軍の一式陸行で培った経験を元に長大な航続距離と軽快な飛行性能を備えた爆撃機に仕上げた。
 幾度かの改修を経て本機は「大東亜決戦機」として重要生産機種に指定された。大型機ながら宙返りも可能なほどの飛行性能を持ち、最大速度は537km/hに達した。
 大戦末期の機体ながら対地爆撃の他、魚雷を装備して雷撃機としても運用された。他に桜弾装備の特攻型や対空砲搭載の迎撃機型、電子偵察機型など少数ながら様々なタイプが作られた。

アメリカ海軍

初飛行:1935年7月
生産数:3,028機

 ロッキード社製の民間旅客機ロードスターを元にした哨戒・爆撃機。
 イギリス海軍では同じくロッキード社の旅客機を転用したハドソン哨戒爆撃機を運用していた。この後継として、より強力な2000馬力級エンジンを搭載した機体として開発されたのが当機。乗員は5名で、最大速度518km/h、爆弾搭載量1400kg。
 米陸軍から英海空軍への貸与という形を取っていたが、陸上長距離哨戒機を欲していた米海軍の目に止まり、最終的に米海軍が最大の利用者となった。
 昼間爆撃機としては鈍重で力不足だったが、長距離哨戒機としては各国で高い評価を得た。

初飛行:1943年9月
生産数:739機

 陸軍のB-24を改造し、長距離哨戒爆撃機とした機体。
 海軍では長距離哨戒機として陸軍のB-24の装備を哨戒機用に載せ替えたシーリベレイターを使用していたが、より哨戒任務に特化した機体を必要としていた。そこでB-24を哨戒機に再設計した機体がPB4Y-2である。
 機体は原型から2.14m長くなり、垂直尾翼は大型の1枚尾翼に変更された。また哨戒任務に不要な高高度飛行の装備も排除された。
 主に太平洋戦域で使用され、米軍初の誘導爆弾BATの母機にもなった。使用期間は長く、1950年代後半まで現役であった。

初飛行:1943年11月
生産数:570機

 PV-1ベンチュラを改修した哨戒機。
 PV-1の航続距離延長を狙い主翼を延長し、燃料タンクも増設。また尾翼の再設計なども行いPV-2として完成した。
 後続距離がPV-1の2倍の4700km、爆弾搭載量も1800kgに増加している。一方で機体重量増によって最大速度は50km/hほど遅い453km/hまで低下した。
 延長した主翼の不具合などで運用は1944年春頃からと遅くなり、その頃には日本軍の活動も下火となったため活躍は少ない。

アメリカ陸軍

初飛行:1939年1月23日
生産数:7,478機

 大量の機銃を機首に積んだ対地攻撃機。
 双発攻撃機として開発され、当初米陸軍には採用されなかったが、フランス空軍の目に止まりDB-7として輸出される。その後イギリスでもボストン爆撃機として採用されると、ソ連、オランダ、オーストラリアでも使用された。各国で使用される中で改良も進み、1940年には本家米陸軍でも採用された。
 素直な操縦性で被弾にも強く、取扱い安い機体として人気であった。当初、機首はガラス張りお爆撃照準席だったが、後期型では12.7mm機銃×6を装備させ対地・対艦攻撃に特化した機体となった。

初飛行:1942年7月10日
生産数:2,642機

 戦後も長く使われた高速重武装の爆撃機。
 A-20の後継機として開発され、新技術を多く導入した。最大2700kgの大搭載量を持ち、機首には12.7mm機銃を最大8丁装備。B型では更に翼内に6丁加え、前方に14丁もの火力を集中した。防御用には背面、腹部に遠隔操作の12.7mm機銃を2丁ずつ装備。最高速度も570km/hを超える高速を発揮した。
 大戦後半から欧州・太平洋各地で対地攻撃に活躍。その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加し、1972年の退役まで戦い続けた。

初飛行:1935年7月28日
生産数:12,731機

 ドイツを降伏に追いやった重武装・重装甲の4発爆撃機。
 1934年にアメリカの沿岸を警備する哨戒用爆撃機として開発。当初から高性能が注目されたが、予算の都合から安価な双発のB-18が採用された。しかし当機も改良を続け、大戦勃発による予算増もあり、B-17爆撃機として採用された。
 高空性能を高めるターボチャージャや堅牢な機体設計、高い防弾性能に加えて、G型では13丁にも及ぶ防御火器を装備。迎撃する枢軸国戦闘機を悩ませた。
 特に欧州戦線では対独爆撃の主力として活躍。ドイツ各地を焦土とし、空から降伏へと追いやった。

初飛行:1939年12月29日
生産数:18,431機

 B-17と共にドイツを追い込んだ重爆撃機。
 B-17は高性能であったが原型は古く、より高性能の最新機が求められた。特に太平洋戦線でも使用可能な長い後続距離を持った機体として作られたのがB-24である。
 デヴィスウィングと呼ばれる細長い主翼に大きな爆弾倉の太い胴体を持つ。操縦の難しさや被弾時の頑丈さはB-17に劣ったが、その他の性能では凌駕し、高価な機体にも関わらず生産量はB-17の1.5倍に達した。
 欧州・太平洋の各地域で爆撃任務に活躍し、輸送機や哨戒機へも派生した。

初飛行:1940年8月19日
生産数:9,984機

 イギリスやソ連でも使われた重武装の対地・対艦攻撃機。
 2基の空冷1700馬力エンジンを装備した6名乗りの機体で1362kgまでの爆弾を搭載。12.7mm機銃4丁を前方固定、8丁を旋回機銃として装備。最大速度は400km/h半ばとやや物足りないが、堅牢で操縦性にも優れた名機であった。75mm砲を搭載した対艦攻撃型や英国への供与型なども存在する。
1942年4月の日本空襲(ドーリットル空襲)では本機を空母から発進させて使用した。また1945年7月28日、濃霧のNYでエンパイア・ステート・ビルディングに衝突する事故を起こしたことでも有名。

初飛行:1940年11月25日
生産数:5,288機

 高速・高性能と引き換えに操縦が難しく、事故が多発した爆撃機。
 1939年設計の本機は異例の試作機無しでの1,000機以上の大量発注を受けた。
 完成した機体は低翼面荷重が功を奏し500km/h超えの高速爆撃機となった。しかし前線の要望を次々取り入れた結果、重量増加によって低速性能が悪化。着陸速度が200km/hを超え事故が多発し「未亡人製造機」の汚名を負うこととなった。
 一時は生産中止となるも、B型では見事に欠点を改善し、主に欧州戦線での低空爆撃に活躍した。また少数は太平洋にも配備され、ミッドウェー海戦にも参加している。

初飛行:1942年9月21日
生産数:3,970機

 日本の各都市を焦土にした超高性能戦略爆撃機。
 強力なエンジンと排気タービンの組み合わせにより、1万メートルの高高度を戦闘機並の高速で飛行可能だった。遠隔操作式の12.7mm機銃を12門、20mm機銃を1門備え、防御火力も強力だった。
 一方で強力なエンジンは整備が難しく、不具合も多かったがアメリカの高い工業力でカバーした。
主に日本への戦略爆撃に使用され、各都市を焼け野原とした。また広島、長崎への原爆投下にも使用された。
 朝鮮戦争にも参加したが、MiG15などのジェット戦闘機に対しては流石に力不足で早々に後方任務に下げられている。

イギリス空軍

初飛行:1935年4月
生産数:4,422機

 大戦初期には重戦闘機、夜間戦闘機としても使用された汎用軽爆撃機。
 原型はデイリーメイル新聞社オーナーのローザミア教が発注したブリストル142。原型機は500km/h近い高速を発揮し、当時の主力戦闘機グラディエーターより80km/hも優速であった。これに注目した英空軍は小改造を加えてブレニム軽爆撃機として採用した。
 爆装や防御兵装の追加で速度は420km/h程度に低下したが1940年頃までは一線級の性能であった。
 欧州、地中海、アジアなど各方面で爆撃や偵察、艦艇攻撃に使用され、汎用性の高さから重宝されたが大戦初期には一線から退いた。

初飛行:1936年6月15日
生産数:11,464機

 特徴的な大圏構造という機体構造を持つ双発爆撃機。
 大圏構造とは籠状に細い金属構造を重ねる構造で、軽量且つ強いという特徴があったが、一方で製造は煩雑となった。
 初期には主力爆撃機として多くが使われた。性能的に陳腐化した中期以降も、長距離飛行が可能なことと、汎用性の高さから対潜哨戒や偵察、練習機として重宝された。

初飛行:1938年8月
生産数:1,821機

 重戦闘機ボーファイターの原型となった雷撃機。
 ブレニムを元に再設計され、乗員が1名増えた他、エンジンや機体各部が強化され、爆弾搭載量は680kgに増えている。爆弾倉には魚雷も装備出来た。防御火力には7.7mm機銃×4〜7を装備。
 性能的には決して優秀とは言えなかったが、大西洋の他に北海や地中海域でも活動し、雷撃や対潜哨戒任務などで重宝された。オーストラリアでもライセンス生産され、太平洋戦域で使用された。

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