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47都道府県の歴史的偉人 4 「近畿編」

どこは誰なのか?それ以上に、誰はどこなのか?いろいろ悩みどころは多いですが、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。Think Globally,Act Locally!

更新日: 2017年07月01日

来栖崇良さん

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15歳の時に浅井軍の足軽として初陣を迎えると、次々に士官先を変えながらも、恵まれた体格と勇敢な性格からその先々で武功をあげた。

また、豊臣家では伊賀上野城を筆頭に生涯におよそ20の城を造り、築城の第一人者として不動の地位を獲得する。


そして「大阪夏の陣」の活躍により、疑り深い徳川家康から信頼を獲得すると、藤堂家は伊勢・伊賀32万石に加増された。

憧れの豊臣秀吉のもとで士官するも、当初は戦場でなんの武功も上げられず活躍の機会に恵まれなかった。

しかし、時代が戦乱から豊臣秀吉による天下統一へと転換する過程で、太閤検地をはじめ面積、長さ、体積などの基準を全国的に統一し、流通が円滑となって全国の商業を大きく発展させた。


豊臣秀吉の死後、次の天下を狙う徳川家康と「関ヶ原の戦い」で決戦するも敗れる。

13歳の時に立身出世を夢見て貧しい村を出た後、身分を問わずに実力を評価する織田信長との運命的な出会いをはたし、持ち前の知恵と工夫でメキメキと頭角を現す。


「本能寺の変」で織田信長が死去すると真っ先に仇を打ち、その後、織田信長の後継を争った柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で打ち倒すと、100年間難攻不落を誇った北条氏の小田原城を攻略して天下統一を果たす。

「赤穂事件」で主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に斬りかかったため、切腹のうえお家断絶となると、再三に渡って分かれる仲間達の意見を調整し、見事47人の赤穂浪士による吉良屋敷に討ち入りを成功させ主君の仇を取る。



忠義を果たした美談は「忠臣蔵」として、長く日本人に愛される物語となった。

緊迫する東アジア情勢のなかで、一流国である隋(中国)から文化・制度を学び、一族の地位や血縁に関係なく実力のある者に位を授ける「冠位十二階」や、理想国家実現への願いを込めて官僚がどのように行動するべきかの道徳を示す「憲法十七条」などを制定し、有力豪族の思惑だけで動いていた倭国に中央集権国家体制を確立した。


第二回遣隋使の結果、隋に外交可能な国家として認知されるまでにする。

紀州藩主として10万両(現代の貨幣価値でおよそ100億円)という莫大な借金を新田開発などの改革で完済し、江戸幕府第8代将軍に抜擢される。


将軍職に就いてからは、米価安からなる全国的な経済不況を通貨の増発で克服する。

破綻しかけていた財政の復興をしたことから中興の祖と呼ばれる名君。

藤原伊周との出世レースを制して政権トップに登りつめると、娘・彰子を一条天皇に嫁がせ、さらに後一条天皇となった孫に自分の娘・威子を嫁がせて甥と叔母の間柄という異例の結婚を成立させる。


その結果、後一条天皇から三代に渡って道長の孫が皇位を継承し、長いこと続いていた権力抗争は終わりを告げ、かつてない長期安定政権を迎えた朝廷では王朝文化が花開いた。

「保元の乱」の活躍で後白河天皇の信頼を得て「平治の乱」で源氏に勝利すると、武士として初めて太政大臣に任じられ政治的影響力を持つようになる。

瀬戸内海の航路を整備し、日宋貿易による財政基盤の開拓する。


貴族中心の世において、武力、権力、財力を背景に江戸時代まで600年以上続く武士の世の礎を築いた。

鎌倉幕府内で北条氏に次ぐ勢力を持つ足利家の当主であったが、武士の困窮をかえりみない幕府に見切りをつけて後醍醐天皇の倒幕令に応じる。

しかし、後醍醐天皇も武士を軽んじる政治を行ったため、独断で武士の立場を守る行動を取ると、天皇家が分裂する南北朝時代のキッカケを作る。

朝敵の汚名と武士達の期待の狭間で苦悩を重ねながらも、室町幕府を開いて京都を飛躍的に発展させた。

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歴史、歴史的なもの、伝説、それらから派生するテーマを作ってます。

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