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五輪の女神は微笑まなかった・最強ランナー瀬古利彦。

マラソン日本男子で最強だったとも言われる瀬古利彦選手。なぜかオリンピックとは相性が良くなかったようです。その辺のところをまとめました。

更新日: 2018年04月30日

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この記事は私がまとめました

瀬古利彦とはフルマラソンに15回出場してそのうち10回優勝した最強ランナー

マラソン 成績15戦10勝

78-80、83年 福岡国際マラソン 4勝
81、87年 ボストンマラソン 優勝
83年 東京国際マラソン 優勝
84年 ロサンゼルスオリンピック14位
86年 ロンドンマラソン 優勝
86年 シカゴマラソン 優勝
88年 びわ湖毎日マラソン 優勝
88年 ソウルオリンピック9位

(補足)
1977年 京都マラソン(デビュー戦)10位  福岡国際マラソン 5位
1979年 ボストンマラソン 2位

終盤スパート型ランナー、「ラスト400mでは世界に敵なし」

瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。

これは、コーチ中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。

宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。

自分が苦しい時は、ライバルもまた苦しいのです。(瀬古・談)

自分が苦しい時は、ライバルもまた苦しいのです。そう思うと、いたずらに苦しんで走ることの無意味さがわかります。自然のまま、静かに走ることで、闘志の燃焼をさらに深められるようになったのです。

大学時代に恩師と出会い、中距離からマラソンへと転向した

早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、中距離からマラソンへ転向。以後、恩師中村と二人三脚で鍛錬の日々を過ごすことになる。

その9年後に中村清氏が急死するまで2人の師弟関係は続いたそうです。

中村監督の教え 「いいフォームは走っていても作られないから、歩きながら作りなさい」

ただ、最初に教えられたのは、「いいフォームは走っていても作られないから、歩きながら作りなさい」。それで、握りこぶしぐらいの大きさの石を持って、歩きにくい革靴を履いて歩いていました。

意外ですね。まずたくさん歩くことが大事なんだそうです。

瀬古 ただ、距離も大事なんだけど、俺は練習の基本は歩きにあると思っている。中村先生にもまず「歩きなさい」と言われたから、大学時代は毎日、重たい安全靴を履いて、石を手に持って歩いて学校に通ったもんだよ。

ライバルは宋兄弟

マラソン界で双子といえば、真っ先に思い出されるのが1980年代に瀬古利彦氏とともに活躍し、日本のマラソン人気を押し上げた宗兄弟だ

福岡国際マラソン、宋兄弟とデットヒート

出典ameblo.jp

モスクワ五輪の代表選考をかけた1979年福岡国際マラソンで最後競技場内で宋兄弟とデットヒートを繰り広げた。
日本の陸上競技史上の名勝負となった。
ここでは瀬古が勝ち、モスクワ五輪への切符を手にしたがのちに日本はボイコット。
瀬古のモスクワ五輪出場はならなかった。

参照元
http://blog.livedoor.jp/konnnatv/archives/30459084.html

当時は宋兄弟(茂氏と猛氏)らに負ける夢を見たものでした。(瀬古・談)

勝てば勝つほどプレッシャーが強くなる。

 報道は増え、ますます負けてはならないと
 思い詰めてしまうようになりました。

 当時は宗兄弟(茂氏と猛氏)らに負ける夢を
 見たものでした。

全盛期、モスクワ五輪で代表に選ばれるも日本はボイコット

1980年、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国はモスクワ五輪をボイコットした。

モスクワオリンピック出場をかけた1979年福岡国際マラソン。
宗兄弟を抜き去り、2連覇となる優勝を果たす。
だが、日本はモスクワオリンピック不参加を決定。
瀬古のオリンピックデビューは、4年後まで先延ばしとなった。

この時期が瀬古の全盛期と見る人も多く、このモスクワオリンピック不参加は今も惜しまれ続けている。

80年モスクワ五輪の時は世界に瀬古の敵はいなかった。
ボイコットが生んだ悲しい運命だ。

当時は出れば金メダル確実と言われていた。

その後、2大会連続で五輪出場するも惨敗する

2大会連続で出場したオリンピックでは、金メダル確実と期待されていたにもかかわらず、1984年のロス五輪で14位、1988年のソウル五輪で9位と惨敗してしまった。

ロサンゼルス五輪では調整に失敗し14位

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