1. まとめトップ

徳川家康と井伊直政の関係。

「おんな城主 直虎」でクローズアップされている井伊直政。家康の小姓として取り立てられてから、徳川四天王と呼ばれ、近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石に出世した。家康にとって直政がどの様な存在であったのかを調べてみました。

更新日: 2018年10月29日

5 お気に入り 102565 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

釣り丸さん

「おんな城主 直虎」 徳川家康役 阿部サダヲ

戦国の世において、男ばかりの戦場に、女性を連れて行くのはなかなか大変なことでした。
また、命がけで日々戦いに臨む主従としては、関係の強化という意味でも、必要だったことがあるんです…。つまり、男色関係ってやつですね。
というと、織田信長と森蘭丸などが思い浮かぶかもしれません。他にも、武田信玄とか、伊達政宗とか…とにかく、珍しいことではありませんでした。

豊臣秀吉にはとんとそうした噂がありませんでしたが、それでは、残る徳川家康はどうでしょう?
彼の側には、噂があった人物が1人いるのです。
それが、「井伊の赤鬼」こと井伊直政だと言われているのですが…

「おんな城主 直虎」 井伊直政役 菅田 将暉

天正18(1590)年に誕生した井伊直政ですが、直後に父・直親が殺されてしまいます。そこで父の元許婚であり井伊家の当主となった叔母・直虎を養母とし、いったん寺に入ることになりました。
断絶の危機にあった井伊家を再興するために直虎は奮闘し、やがて直政は徳川家康に見出されます。家康の鷹狩りの帰りに出会ったとも言われていますが、小姓となった直政は旧領の井伊谷も取戻し、順調に出世していきました。

【稚児小姓(ちごこしょう)】とは?

稚児小姓の歴史は古く、奈良時代の僧侶に拠って「宗教的な意味合いで男児(少年)と交わった事が最初である」とされている。

それが平安時代には、公家や僧侶とやがては武士と言った氏族全般に一種のステータスとして稚児小姓の愛玩風習が広がり、鎌倉時代から明治維新まで習慣として残っていた。

少年を「神霊の化身」とし、稚児を「尸童(よりまし)または依憑(よりわら)」と言う神が降りる状態にする為の肉体的交わり自体を神聖視する信仰が日本の男色の風習の背後に存在した。

稚児小姓上がりで最も有名なのは織田信長の側近・森欄丸である。

稚児小姓とは閨で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。

つまり、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から大出世している。

直政といえば、徳川四天王のひとりで「鬼」とまで評された勇将。井伊家はもともと今川家に属していたが、桶狭間合戦で直政の父が戦死。一時は所領も没収されたが、嫡男の直政が家康に見出され小姓として仕えるようになる。

また、徳川家康における井伊直政との間柄も有名な話で、徳川譜代大名・井伊家の藩祖・井伊直政は、家康に見出され小姓(児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。

「容顔美麗にして、心優にやさしき」と記録が残るほどの美少年で、それまで男色にまったく興味のなかった家康がメロメロになってしまったほど。その寵愛ぶりはすさまじく、直政は22歳になるまで、前髪を落とすことを許されなかった。

これは現代の感覚でいえば、好きになった女性があまりにもカワイイので、大学卒業をするまでセーラー服を着るように強制するようなもの。言ってしまえは変態の所業である。理性的な家康を狂わせるほど、直政が美少年であったのだろう。

1