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一体なぜ?瀬古利彦がオリンピックで勝てなかった理由とは

フルマラソンの戦績は15戦10勝。勝てなかったのは最初の2回、79年のボストン、2度のオリンピックだけだった。

更新日: 2020年01月26日

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wappameshiさん

マラソン選手・瀬古利彦さんの戦歴

【プロフィール】
誕生日 1956年7月15日
出身地 三重県桑名市
身長  170㎝
体重  62㎏
学歴  早稲田大学教育学部卒業

1970年代後半から1980年代にかけて宗茂・宗猛兄弟、伊藤国光、中山竹通、新宅雅也らとともに日本長距離界をリードした。
現役引退後はヱスビー食品スポーツ推進局局長を経て、2013年4月よりDeNAランニングクラブ総監督。

【高校時代の主な戦歴】
高校1年で山形インターハイ800mで3位。
高校2年で三枝インターハイ800m・1500mで優勝。
千葉国体1500m、5000mで優勝。
茨城国体では前年度に続き2年連続で1500m・5000mの二冠を達成。
全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した!

【早稲田大学時代の主な戦歴】
早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、中距離からマラソンへ転向。

大学1年で京都マラソン(旧)で初マラソン。10位となり新人賞を受賞。
大学2年で福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞。
大学3年で福岡国際マラソンで初優勝を果たす
大学4年で海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、ビル・ロジャース(アメリカ合衆国)に次いで2位となる。
大学4年で福岡国際マラソンで宗兄弟との接戦を制して連覇。

中村監督の厳しいルール。
早朝から20キロ走り、大学の授業が終わってからは40キロを毎日走っていた。
夜は中村監督の講義がある。「努力する天才になれ」と指導されたという。

モスクワ五輪でマラソン代表に選ばれる→ボイコットで中止

オリンピック開催年の1980年、大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社したが、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。

【エスビー食品時代の主な戦歴】
1980年12月の福岡国際マラソンでモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。

1981年2月の青梅マラソンで優勝。同年4月にボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝。
1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場し優勝。
1983年12月福岡国際マラソンでも優勝し、ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれる。

ロサンゼルス五輪で14位に終わる

8月12日(日本時間13日)のオリンピック本番では、予定通り先頭集団につけていたものの、35km手前でずるずると後退し始め、優勝したカルロス・ロペスから5分近く遅れた14位という結果に終わる。日本勢最高位は宗猛の4位。

瀬古自身は20kmまでは体が軽くいけると思ったが、25kmぐらいから足にきた感じになり、35kmから40kmで集団のペースが一気に上がりついていけなくなった、と述べている。

ロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。

北海道合宿中には中村監督から「癌になった」と打ち明けられ、休ませてほしいと頼むタイミングを失ってしまった。

本番2週間前にはストレスから血尿が出てしまい、ドーピング回避のため漢方薬を飲んだが、下痢による脱水症状に悩まされた。

瀬古陣営はロサンゼルスの酷暑対策として、グアムやニュージーランドで合宿を続けていた。瀬古は本番直前の8月9日まで渡米を遅らせ、東京で最終調整を行ったが、むしろ東京よりもロサンゼルスの方が涼しく感じ、「こんなことならもっと早くロスに来ておきゃよかった」と思ったいう。

瀬古は初めて経験する夏マラソンにいつもの経験とリズムがつかめなかったのが最大の敗因と見ている。

ロサンゼルス五輪後に結婚

瀬古さんの結婚に関して、中村監督主導で公募すると、前代未聞の行動をとろうとした。
さすがにそれには反発し、それ以前から独り立ちしたいとしていた瀬古さんは、お見合いで結婚を決めたのです。

【結婚後の主な戦歴】
1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝する。
同年10月のシカゴマラソンでは2時間8分27秒の自己ベスト(当時日本歴代4位、世界歴代10位)で優勝。

1987年4月、ボストンマラソンに3度目の出場。2度目の優勝を果たす。当時世界最強とみなされていたジョーンズは「瀬古はグレート。世界ナンバーワンだ。」とコメントした。

五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンを負傷のため欠場している。翌年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となるも、優勝タイムは平凡な記録に終わる。

ソウル五輪で9位に終わる

ついに五輪では入賞することなく終わる。ソウルオリンピック後、第1回国際千葉駅伝で日本チームのアンカーを務め、これを最後に現役を引退した。

彼にとって悲運だったのは、絶好調だったモスクワオリンピックをボイコットで出場できなかったことだ。調整ミスだった次のロサンゼルスオリンピックまではともかく、もうピークを過ぎていたソウルオリンピックまで(出場させたのは)酷だった。

日本陸連理事・高橋進は陸上競技マガジンの中で瀬古についてこのように語っている。

瀬古利彦さん現役時代のトレーニングを語る

「いいフォームは走っていても作られないから、歩きながら作りなさい」。それで、握りこぶしぐらいの大きさの石を持って、歩きにくい革靴を履いて歩いていました。

石を持ちながら道路の白線をまっすぐ歩く練習をしました。そうして体幹をトレーニングしていたんです。

お寺へ行って座禅を何度かやりましたね。中村監督が禅を勉強されてたので、有名なお坊さんが書いた本があるんだけど、その本を読み聞かせてもらったりしました。

中村監督からも「瀬古、マラソンをやるんでしょ。なら、座りなさい」と言われて、メンタルを鍛えるために座禅をやった。

当時は心理学的にとか、科学的にどうだとか、そういうのは全然ありませんでした。もう「巨人の星」の世界ですよね(笑) 科学的に見れば無駄かもしれないけど、そういうものが35㎞から40㎞になってくると甦ってくる。

自分で経験した苦労というものがないと身につかないんです。それが自信につながって精神的にも絶対負けないぞということにつながっていくと思っています。

昔は栄養学も今ほど進んでいなかったので、奥さんが作ってくれた食事をすべて食べれば大丈夫と思っていました。だからサプリメントみたいなものは一切摂らなかったです。色々なビタミンのサプリメントが80年代に出てきましたが、そういうのは摂らないでおこうと決めていました。

走るまでの間にお腹がすいたときは、消化がいい羊かんを食べていた。

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