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黒澤明の生涯、作品解説、名言

1910~1998 日本の映画監督『羅生門』『七人の侍』

更新日: 2017年05月17日

ポケナイさん

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黒澤明とは

天の視点から、人間のやっていることを俯瞰の目で見て描きたい

黒澤明の言葉

高い山は、空を見る者が高い所へ登れば登るほど、高く見える

出典『蝦蟇の油』黒澤明

ご存知の通り、映画界の巨匠です。
アカデミー賞、世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)の全てで受賞する。
クリント・イーストウッド、フランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、北野武、宮崎駿などに多大な影響を与える。

ゲオやTSUTAYAに行けば、どの店舗でも必ず置いてあると思います。

黒澤明の生涯

はーい、よーいスタート

出典真夏の夜の淫夢

NSOKの台詞

1910年、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)に生まれる。
映画を観ることは教育上良いと考えた父に連れられて、よく映画を見に行っていた。
特に洋画を見ており、中でもウィリアム・S・ハートを見ていた。

1917年、森村学園尋常小学校に入学する。
翌年、黒田尋常小学校(文京区立第五中学校の前身)に転学する。
同じ学校の植草圭之助と親友になる。

この頃の黒澤明は、気が弱く泣き虫で、いじめられっ子であった。
だが3年生の時、授業で描いた絵が立川先生に褒められる。
絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、級長にもなる。
後に黒澤明は、立川先生を生涯の恩師であると語っている。
立川先生は他の学校に転勤し、再開するのは25年後のことである。

東京府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)を受験するが落ちる。
国語歴史図画は得意であったが、算数理科は不得意であったためである。

京華中学校に入学する。
樋口一葉、国木田独歩、夏目漱石、レフ・トルストイ、フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフなどを読む。
進路に悩むが、画家になろうと決め、美術学校に行こうとする。

美術学校(現東京藝術大学美術学部)を受験するが落ちる。
川端画学校に通って洋画を勉強し、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入る。
プロレタリア活動を行うが、『資本論』『唯物史観』はほとんどわからなかった。
「今のプロレタリア運動はインフルエンザだよ、すぐ熱は冷めるよ」と兄が言った通りに、すぐにプロレタリア運動は辞めた。

この頃の黒澤明は、外国文学、日本文学を古典現代問わず読み漁る。
演劇を見に行き、音楽を聴く。
絵画は、ポール・セザンヌやファン・ゴッホに傾倒する。
ルネッサンスの芸術家、特にミケランジェロ・ブオナローティやレオナルド・ダ・ヴィンチを研究する。
そして映画を見る。

1933年、当時27歳であった兄が自殺する。
職場でのストライキの板挟みに悩み、自殺した。
ロシア文学を愛好し、ミハイル・アルツィバーシェフの『最後の一線』を愛読書としていた。

P.C.L.は夢の工場にふさわしい場所であった

出典『蝦蟇の油』黒澤明

1936年、P.C.L.映画製作所の助監督募集、という新聞広告を見つける。
応募し面接を受け、口頭試験において、生涯の最も良き師山本嘉次郎と出会う。
試験の場では、俵屋宗達、富岡鉄斎、ファン・ゴッホ、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンについて話した。
そして、約100倍の難関を突破して入社する。
山本嘉次郎監督の下で助監督を務め、『藤十郎の恋』や『綴方教室』などを担当する。
また、山本の助言でシナリオを書くようになる。

1941年、『達磨寺のドイツ人』を書く。
このドイツ人とは、建築家ブルーノ・タウトのことである。
映画化はされなかったものの、伊丹万作から絶賛される。
1942年『雪』を書く。情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞する。
『静かなり』は、日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞する。
当時東宝映画の宣伝部におり、後に映画評論家となる淀川長治と出会う。

やっと、自分が登るべき山の裾へたどりつき、その山を見上げて立った

出典『蝦蟇の油』黒澤明

1943年、『姿三四郎』で監督デビューする。
作品は大ヒットし、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞する。

1944年、『一番美しく』を発表する。
翌年、その映画の主演であった矢口陽子と結婚する。
明治神宮で挙式を行い、晩酌人は山本嘉次郎夫妻であった。

1945年、『續姿三四郎』『虎の尾を踏む男達』を発表。
『續姿三四郎』は、『姿三四郎』の続編にあたる。
黒澤明は、続編を制作することに、否定的なコメントをしている。
『虎の尾を踏む男達』の撮影を一人のアメリカ人が見ていた。
それは、アメリカの映画監督ジョン・フォードであった。

1946年、『我が青春に悔なし』を発表する。
翌年、『素晴らしき日曜日』を発表する。
立川先生と、25年ぶりに再開する。

1948年、『酔いどれ天使』を発表。

1949年、『静かなる決闘』『野良犬』を発表。

1950年、『醜聞』『羅生門』を発表。
『羅生門』は人間不信のテーマを含む難解な作品であったため、国内では不評であった。
だが翌年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞する。
一転、国内で絶賛される。

1951年、『白痴』を発表。
フョードル・ドストエフスキーの小説を日本風にしたものである。
『羅生門』の受賞により注目が集まったが、失敗作の評価を受ける。
なお、黒澤明自身は、失敗作と考えていない。

1952年、『生きる』を発表。
ベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞する。

1954年、『七人の侍』を発表。
ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞する。
映画史上の名作として、国内外で高く評価される。

感動から涙が出てきて仕方がないもの、つまり心に響いているもので映画は勝負すべきだ

黒澤明の言葉

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