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大分の【ヤバい】心霊スポット・廃墟13ヶ所

大分の心霊スポット、廃墟についてまとめました。メインは心霊スポットで廃墟はおまけ程度にまとめてあります。

更新日: 2017年05月15日

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1968年に開園した本格的なレーシングコースと巨大迷路が目玉の遊園地。
2003年に閉演となりそれから廃墟となっている。1982年~84年にかけてロープウェイが船岡山・立石山などで結ばれていた。
巨大迷路でおじさんの幽霊が出ると言われている。
またお化け屋敷(幽霊屋敷という名前)の建物もありそちらも怪しい雰囲気となっている。

現在では釣りスポットとなっている池だがかなり昔に農業用に昔作られた人口のため池。以前から心霊スポットと呼ばれていたがどのような由来があるのかは不明な点が多い。
赤迫池という赤が迫ってくるという名前からもわかる通りため池を造る際、人柱(難工事完成を祈って神にいけにえとして生きた人を水や土に沈めること)を捧げ、血が流れたといわれており、そのためか霊を目撃する人がまれに出てくるようだ。。

大分の佐伯市と宮崎の延岡市にまたがる峠で名前の由来は江戸時代このエリアを管理していた洲本宗太郎に起因している。電車が一日に3本ほどしかないという秘境と言っていいレベルの場所だが白いワンピースの女性の霊がたびたび噂される。

江戸時代に罪人を処刑した場所で九州には多くのキリシタンの史跡があるがここは比較的小規模。
当時岡藩がこの地を収めておりキリシタンに対し改宗を拒んだ信者が処刑された。およそ40名の人が殺されたと言われている。
霊の噂はほとんどないが悲しい場所である。

JR別府駅からバスで30分ほどのところにある湖で6月~7月に訪れると1万株を超える花菖蒲(はなしょうぶ)が楽しめる場所だ。
昭和50年代にこの周辺の自然の家に参加していた少女が雑木林で遺体で見つかり、それ以後「迷子のこども(少女)を車に乗せると事故を起こしたり、子どもが消える」という奇妙なことが立て続けにあったようで、そのため実際に「子どもに話しかけないでください」という看板が立っていたという。。

大分県の史跡に指定されている場所で1735年諸国を旅していた禅海和尚という人物が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人がたびたび命を落とすのを不憫に思い、安全なトンネルを造ろうと托鉢で金を集めて30年かけて完成させた通路だ(日本最古の有料道路ともいわれている)
もともと難所で多くの人が死に、崖の下には白骨死体が何体もあったようで川から白い手が出る、洞門のなかで心霊写真が取れるなど言われている。

六ヶ迫温泉という有名な秘湯の近くにあるトンネル。臼杵坂ノ市有料道路が無料化されたことでこちらの道をを使う人はあまりいないようだ。素掘りのトンネルのため内部はごつごつしており、また水が滴っているため雰囲気がある。周辺も廃屋が多くあり怪しい場所となっている。
以前に白骨死体が見つかったと言われており、また子供の霊が目撃されている。。

日本夜景百選というものにも選ばれている緑の平原とゆけむりが美しい絶景スポットである。
しかし夜に展望台から写真を撮ると霊が写ると言われており周辺の墓地や営業停止になっているレストランもあったりしてデートスポットであると同時に心霊スポットなのかもしれない。

江戸時代に臼杵藩、岡藩、佐伯藩の3藩の境界になっていたことからこのような名前が付いている。西南戦争の際の激戦が行われた場所のひとつで、薩摩軍の陣地を示す標柱や兵士の墓碑が残され、戦死者を祀る三国神社(慰霊碑)が建立されている。
そのためか兵士の霊などの目撃が噂される。三国トンネルの入り口付近の電話ボックスなどで出るようだ。

「大野のナイアガラ」とも呼ばれるかなり幅広な沈堕の滝に1909年、大分~別府間を走る別大電車を中心に大分の産業や家庭に電気を届けるために建設された発電所。
1937年、より下流に新しい沈堕発電所ができたことによって現在の石造りの壁面だけが残ったこの廃墟が生まれたようだ。自由に入ることができ、夏には緑が生い茂る美しい遺構となっている。

佐伯市に九州の最も東の端にある鶴御崎自然公園がある。1926年(大正15年)から敵艦の侵入や攻撃に対抗するために豊予要塞として軍備が配備され砲台がいくつか残っている。
現在はミュージアムパーク丹賀として整備されており写真中央の螺旋階段は見学用に設置されたものであり、天井のドームも保護のため設置されている。
砲弾の暴発などにより16名の死者が過去に出ている。

JR豊後森駅からすぐ近くにある近代化産業遺産や登録有形文化財にも登録された円形の機関庫の鉄道遺構。
最盛期である昭和20年頃は200人以上が働いていていたが1971年には使われなくなったが2000年頃から地元の保存委員会の働きかけによって文化財となった。
祭りなども行われ、地元民に親しまれている廃墟である。

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