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【オウム真理教】麻原彰晃こと松本智津夫の生い立ち

オウム真理教の教祖であり、一連のオウム事件を起こし、現在は確定死刑囚の麻原彰晃こと松本智津夫。日本史上最悪の犯罪組織を作り上げた麻原の生い立ちまとめ。

更新日: 2018年09月29日

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firk12さん

一連のオウム事件を起こし、現在は確定死刑囚の麻原彰晃こと松本智津夫。

一連の事件で29人が死亡し負傷者は6000人を超えた。

◼︎生まれてから高校卒業まで

1955年3月2日、熊本県八代市高植本町の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1.0程度だった。

父親は敗戦で朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った。

先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1.0程度だった。

12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった。

おとなしくて、女の子とままごとばかりしている子どもだった。どうしても目を細めがちだったので、女の子からもいじめられることもあったという。

・就学奨励費の受給を目当てに盲学校へ転学

小学校に入学した年の秋、麻原の人生に最初の転機が訪れた。家から40キロ離れた、盲学校へ行くことになった。

子だくさんで貧しい家庭の先行きを案じた両親が、就学奨励費の受給を目当てに、転校を決めた。

20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。

他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。

盲学校では、強い権力欲を見せ、暴力で支配していた。

全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていた。
生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」とうそぶくこともあった。金への執着も強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。

小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している。

昔から選挙にはめっぽう弱かったらしい。

成績は中程度であったにもかかわらず、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望。

高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。

1975年、盲学校の生徒としては異例の柔道二段を取得。政治家の毛沢東などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。1975年、熊本県立盲学校を卒業。

◼︎成人後、宗教団体設立まで

東京大学文科1類受験を目指すため、1975年3月末に東京都江東区、8月に品川区に移住。

しかし9月には八代市の実家に戻る。

1976年、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける。

1月熊本市春日に移住し長兄の漢方薬店の助手を務め、3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝っていた。

1977年再上京し、代々木ゼミナール渋谷校に入学。

東大受験は3度諦めている。

1978年、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子と結婚。

千葉県船橋市湊町に新居を構えた。

鍼灸院「松本鍼灸院」を開院、同年9月を廃院。同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業。

1980年、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。

1981年、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」を開局。

翌82年7月にニセ薬を売った薬事法違反容疑で逮捕された。

煎じたミカンの皮などから取り出したエキスを「万能薬」と称し、「リューマチ、神経痛、腰痛が30分で消える」などという謳い文句で都内の高級ホテルの一室に人を集めて10万円近く販売。売上は1千万円以上に膨らんだ。

◼︎オウム真理教設立

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