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【忍者】伊賀甲賀だけではない・忍者の種類【流派】

忍者にはいろいろと組、流派、種類があるようです。甲賀、伊賀、風魔みたいなアレです。夏休みの自由研究にもどうぞ。

更新日: 2018年02月08日

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hogehogemanさん

伊賀

伊賀流(いがりゅう)は、伊賀国の地に伝わっていた忍術流派の総称。甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の一つである。
根拠地は、現在の三重県伊賀市と名張市にあった。普段は農業や行商をして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。

甲賀

甲賀流(こうかりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称。山を一つ隔てた場所に存在する伊賀流と並び、最も有名な忍術の一派として知られる。甲賀流伊賀流ともに伝系に関しては仮託の説が多く信用できるものはあまりない。しかし、民家で史料が発見されるなど研究も進み、少なくとも江戸時代には確実に存在したとされている。なお、「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれているにすぎない。
甲賀は「こうか」と読むが、「こうが」と誤った読み方をされることも多い。

風魔

風魔(ふうま)は、風魔小太郎を頭目とする相州乱波であり、足柄山中を縄張りとする忍者集団である。戦国時代後期の後北条氏勃興時に姿を現し、各大名に雇われていた伊賀者、甲賀者と戦いを繰り広げ、早雲から氏直まで北条五代の隆盛を影で支えたという。豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が没落し、徳川家康が天下を取った後は、盗賊として江戸の町を騒がせた。家康は懸賞金をかけて盗賊の長である五代目・風魔小太郎を捕らえ、処刑した。これにより風魔一族は滅亡した。
一説には、風魔一族の堕落に耐えられなかった一族の一部のものたちが家康に密告し反乱を引き起こしたため、五代目は徳川に囚われたとも言われている。信頼性の高い現存する文献がほとんどないため、風魔忍群の実態は明らかでない。そのため後世に多くの伝説が生まれ、小説、映画、漫画、アニメの題材となった。とりわけ忍者漫画にしばしば登場する。
北条五代記によると、乱破は盗人のようで盗人でもなく、謀略に優れる道を外れた集団であった。彼らは他国からの盗人はよく見つけ出して首を切り、自分たちは他国へ忍び入って略奪をするので戦国大名から召し抱えられていた。

北条の乱破は二百人雇われており、一の悪者が風摩といった。そしてこの二百人は山賊・海賊・強盗・窃盗の四集団からなっており、いずれも夜討を得意とした。彼らの名は後北条家が滅びる天正18年まで鳴り響いたが、泰平の世になってからはその噂は関東から消え失せたという。

雑賀衆(さいかしゅう)

雑賀衆(さいかしゅう)は、中世の日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。また海運や貿易も営んでいた。「さいが」と読むのは誤読である。

黒脛巾組(くろはばきぐみ)

黒脛巾組(くろはばきぐみ)とは、陸奥の戦国大名である伊達政宗が創設したと言われる忍者集団である。戦国時代や江戸初期の同時代史料では確認できない呼称であり、江戸中期以降の伊達家関係資料に突如登場することから、架空の可能性がある。

根来衆

根来衆は小牧・長久手の戦いに連動して雑賀衆らと共に大坂を攻撃し、羽柴秀吉の心胆を寒からしめた。紀州攻めによって根来寺が滅亡すると、根来衆頭目の根来大膳は伊勢に逃れ家康の配下となる。
天正13年(1585年)には、後の百人組の原型として最も早く設置され、50名が成瀬正成の組下に置かれた。また、鉄砲師範には後の牛久藩主、山口重政が任ぜられている。関東討入後は内藤新宿に配備され、四谷の成瀬正成の指揮下で甲州路の防衛に当たった。関ヶ原の戦いでは成瀬正成の指揮の下、最前線で活躍する。正成が尾張藩の附家老として犬山城に異動した後も成瀬氏の影響力が残ったといわれている。また、関ヶ原の戦い時には根来組はもうひと組あり、伊奈令成が組頭であったが合戦後に廃絶している。
当時鉄砲の技術は特殊技能であったことから、伊賀、甲賀、根来の鉄砲隊を忍者とみなすこともあり、根来忍術を駆使して諜報活動にも従事していたという説もあるが、根来衆はあくまで鉄砲隊であると思われる。

戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)

戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)は、忍術の流派のひとつ。伝説上の始祖は異勾という亡命中国人、歴史上の始祖は平安時代末期、戸隠山で修験道を学び、木曾義仲に仕えた仁科大助(戸隠大助)であるとされるが文献による裏付けはない。木曾義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、伊賀流忍術をも取り入れて完成させたとされる。

備前流

備前流(びぜんりゅう)は、香取忠宗により創始された伊賀流と神道流を抱合した流派であり、忍術ではあるが武術としての位置付けが強い。

鉢屋衆(はちやしゅう)

鉢屋衆(はちやしゅう)は祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団であり、兵役も務めた。鉢屋党とも。元は平将門の乱で反乱軍に加勢した飯母呂一族で、平将門の死後、全国に散った。この時飯母呂一族の多くは山陰へ逃れ鉢屋衆となった。筑波山へ逃れた一部の飯母呂一族は風魔衆になったと言われている。

文明18年(1486年)には、京極氏に月山富田城を追放された尼子経久の富田城奪還に従事した。月山山麓に住む鉢屋賀麻党は毎年元日に富田城で祝いの舞を演じることになっていた。経久はこれに目をつけ賀麻党の党首・鉢屋弥之三郎を味方につけた。
文明18年元日、午前3時ごろ、賀麻党七十余人は笛、太鼓でにぎやかに城の大手門をくぐった。みな烏帽子の中に兜をかむり、素襖の下に具足をつけ武器を隠し持っていた。城の中では武士も子供も舞の見物に集まった。その時にかねてより忍び込んでいた経久の一党は太鼓の合図に経ち城内各所で火を放ち乱入した。それにあわせ賀麻党も烏帽子を捨て見物に集まった人々に襲い掛かった。

黒鍬組

戦国大名に仕えた黒鍬は小荷駄隊に属して、陣地や橋などの築造や戦死者の収容・埋葬などを行った。後世の戦闘工兵の役割を担っていたと考えられている。
江戸幕府の組織としての黒鍬(組)も三河松平氏時代からの譜代の黒鍬から構成されており、若年寄支配で小者・中間として江戸城内の修築作業や幕府から出される諸令伝達や草履取り等の雑務に従事した。食禄は1人当たり12俵1人扶持が原則で役職に付くと、役高が加算された。

当初は苗字帯刀も許されず、例外的に護身用の脇差だけを持つ事が許されたが、三河譜代の黒鍬については、世襲が許され、後には御家人の最下層格の扱いを受けた。
黒鍬の長である黒鍬頭(くろくわかしら)は、役高100俵の待遇を受けた。定員は天和年間の定制は200名であったが、享保年間には430名となり、幕末には470名にまで増員された。こうした人数の拡大に対応するために、幕末には3組に分割され、黒鍬頭に任命された組頭(役高30俵1人扶持)が置かれた。
幕末期には新設された役職の補充として見廻組や撒兵へ移動となり、また彰義隊にも多くが参加した。

軒猿(のきざる)

軒猿(のきざる)とは、忍者の一種で、戦国期には、上杉謙信を中心に『けんえん』とも呼ばれていた。主に、今の新潟や富山の地方ではこう呼んでいたとされている。新潟・富山では他にも、郷導(きょうどう)、郷談(きょうだん)、間士(かんし)、聞者役(ききものやく)などと呼ばれていたとされている。
忍術の秘伝書『萬川集海』によれば、軒猿の名は、中国の神話伝説上の皇帝である黄帝軒轅が由来。
他の忍者を狩るのを得意としており、武田方の透破、北条方の風魔などを幾度も殺害したといわれる。

参考リンク

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