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47都道府県の歴史的偉人 5 「中国編」

どこは誰なのか?それ以上に、誰はどこなのか?いろいろ悩みどころは多いですが、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。Think Globally,Act Locally!

更新日: 2017年07月01日

来栖崇良さん

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鎌倉幕府によって流罪となった後醍醐天皇が隠岐島を脱出すると、それを真っ先に迎い入れ「船上山の戦い」に勝利する。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称され、帆掛け船の家紋を与えられた。

しかし、後醍醐天皇を京都から追い出して室町幕府を開いた足利尊氏から京都奪回を新田義貞らとともに試みるも失敗し、戦死する。

主君・京極政経が力を失うと出雲の事実上の支配者となり、中国地方で一大勢力を築いていた大内氏との微妙な関係に競り負けず1537年には経済的に重要な拠点である大内氏の石見銀山を奪取し、尼子氏の全盛期を作った。


しかし、大内氏と中国地方での派遣をかけて、大内氏側の毛利氏の吉田郡山城を3万の大軍で包囲するも攻めあぐねて、陶隆房率いる大内軍2万の到着を許して大敗を喫すると安芸での基盤を失い、尼子氏は落日に向かうことになる。

「関ヶ原の戦い」で功を挙げて出世を夢見るも叶わず、武芸者との決闘によって名を上げようと考え、29歳までに60余回の勝負を経験して全てに勝利した。

一乗寺下り松では数十人とも百人を超すともいわれる武門の誉れ高い吉岡一門をたった一人で破り、細川藩で剣術指南役を務める天下に並ぶ者のない剣の使い手といわれる佐々木小次郎に「巌流島の決闘」で勝利する。

そして晩年の1640年、熊本城主・細川忠利に、7人扶持18石に合力米300石で客分として招かれた。

主家の大内氏が主力を京都に展開していた最中に、西国の桶狭間と呼ばれる「有田中井手の戦い」で安芸武田氏の武田元繁に勝利し、勢力拡大のキッカケを掴む。

そして、安芸・石見に勢力を持つ吉川氏に次男・吉川元春を、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏に三男・小早川隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やして勢力を取り込むと、絶妙なタイミングで大内氏からの独立をはたし、石見銀山を巡って対立した尼子氏を滅ぼし、安芸国の小領主に過ぎなかった毛利氏を中国地方8ヶ国を支配する大大名に押し上げた。

西洋のことを知るために黒船に乗り込んでアメリカに渡ることを考えるも失敗し、1854年、密航を企てた罪に問われ、長州藩内の牢獄に入れられる。

出獄後、叔父から引き継いだ松下村塾で、牢獄での経験を活かした教育を行い、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿などなど幕末を代表するスターを輩出する。

しかし、この時点では、あまりに過激で早急過ぎる倒幕という発想を持ったことで、29歳で斬首刑に処された。

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