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「三猿」の顔が変わった?日光東照宮

世界遺産「日光東照宮」は、総工費約12億円、約4年の歳月をかけて輝きを取り戻した日光東照宮・陽明門(ようめいもん)が、ついに一般公開の時を迎えました!

更新日: 2017年10月07日

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Doragonflyさん

日光東照宮の「陽明門」や「三猿」が大規模な改修を終え、3月に新たな姿でお披露目された。鮮やかな色彩に蘇り、美しい姿を見せている。

現在は「文化財」として、現状の維持・保守を最重要に掲げているが、ある時には現場の監督者の意向で、従来とまったく違う色で塗り直したという記録も残っているという。「修復を続けていること自体が“ひとつの伝統”」だ。

日光を見ずして結構と言うなかれ。ということで、東照宮の写真。なんでも本当なら今日天皇陛下がいらっしゃる予定でしたが、体調を崩されて中止になったそうで。 雨が降って☔️傘をさしての写真になりますが少しだけ。三猿、陽明門、眠り猫。 pic.twitter.com/eb1fVOoVsV

日光東照宮、修復で「三猿」の顔が変わった…? 現場の職人、研究者の見解は buzzfeed.com/harunayamazaki… @hyamazaki26さんから

作業を担当した、日光社寺文化財保存協会の浅野和年技師長は、修復にあたっての指針をこう話す。

「現状を極力残すことが基本的な指針。『昭和の大修理』で作られた見取り図を参考に、過去の職人が残した姿に極力近づけ、彩色や修理をおこなっている」

色や輝きが落ちた装飾部分や、腐朽が進行する木部を改修・修理している。

ネット上では「これでいいの?」と疑問の声も。特に三猿の表情を指し、「顔が変わっているように見える」という声が上がっている。

三猿をはじめ、屋外に面した彫刻は外気にさらされ傷みやすく、下地があらわになっていく。そのため、彫刻部を建物から取り外し、一度現状の色をすべて落としてから塗り直す方法を取っている。

確かに素人目には変化があるように見える。今回の日光東照宮の修復はどんな裏付けでおこなわれたのだろうか?

「平成の大修理」(2013年~19年予定)は、「昭和の大修理」(1969~73年)以来、約半世紀ぶりの本格的な改修だ。

特に話題になっているのは「見ざる・言わざる・聞かざる」で有名な「三猿」の彫刻だ。国重要文化財「神厩舎」の全8面にわたって取り付けられている。

これまでも約10年ごとに修復作業を繰り返してきたが、8面すべてを塗り替えるのは65年ぶりという。

半世紀前に残された見取り図を見ながら、彫りの形に合わせ、猿の毛色や表情をゼロから描き上げる。今回の現場メンバーには、当時の職人の弟子にあたる人もいたそうだ。

寺社によって修復へのスタンスは異なり、塗り直しはせず、劣化防止に力を入れるケースもある。日光東照宮は、江戸時代の造営以来、常に時代に合わせて修復を続けてきた。

「一般の方が見られた時に違和感があるのは、ある意味自然な反応だと思います」

文化財の修復には、現場の職人だけでなく、考古学的な見地から研究者も多く関わっている。どのような姿勢で見ているのだろうか

「違和感があるのは自然」な理由のひとつは、色味の変化。

日光東照宮では「陽明門」の調査を担当し、平等院鳳凰堂などの修復にも関わる龍谷大学の北野信彦教授はこう話す。

最近の事例では、姫路城の漆喰を塗り直す大規模修復の後、その白さから“白鷺城”ならぬ「白すぎ城」と揶揄された――ということがあった。当時の彩色を再現すると、見慣れた色味からは離れてしまうのだ。

すべてが個人にまかされているわけではない。世界遺産や国宝、重要文化財の修復にあたっては、文化庁のチェックもあるため「現場が勝手に判断したり、修正することはまずできません」。

もうひとつは、職人の手作業であること。

先述のように、建築物や屋外の文化財は修復の際に一度すべて色を落とすことが多い。その分、職人それぞれの技量に頼るところも大きくなるため「変化が生じてしまうのは否めない」。

「見た目の印象を見て違和感や異論があっても、学術的には裏付けがありますし、研究者も現場の職人も真摯に取り組んでいます」と北野教授は話している。

「東照宮」とは、”東照大権現”たる徳川家康を祀る神社を主に東照宮といいます。後水尾天皇から追贈された神号の東照大権現に由来するそうです。そのため御三家はもちろん多くの大名も領内に祀ったので、全国に500社を超えるほど東照宮が造られたそうです。現存するものは、約130社あるそうです。

なぜ”日光東照宮”が造られたのでしょうか?その理由は、徳川家康が下記のような遺言を残したからでした。

徳川家康は、金際の際に金地院祟伝、南光坊天海、本多正純を呼び次のように遺言したとされる。

「久能山に納め、御法会を江戸増上寺、霊牌は三州大樹寺、御周忌終えて下野国日光山へ小堂を営造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし。

日光を選んだ理由は諸説ありますが、[日光霊山には神が宿る]と思ったからだといわれています。

1616(元和2)年4月17日、75歳の生涯を閉じた徳川家康は、静岡県久能山に葬られました。
1617(元和3)年、天海大僧正が日光へ改葬しました。ところが二代将軍徳川秀忠が創建した家康の霊廟は、質素な社殿でした。

1634(寛永11)年、3代将軍家光による「寛永の大造替」を開始します。わずか1年5ヶ月(徳川家康公の21回忌にあたる1636(寛永13)年)に完成しました。

・狩野探幽(デザイン/彫刻・色彩)
・中井大和守政清(1617年・大棟梁)
・甲良豊後守宗弘(1636年・大棟梁)

日光東照宮・陽明門の彫刻は何個ある?

日光東照宮・陽明門は、唐派風二重造の門で高さが11.1m、幅7m、奥行き4.4mの巨大な門です。しかも、白・黒・金・朱・群青・緑青・黄土の7色が調和よく配されている彫刻の数は、なんと”508体”もあります。そのうち人物の彫刻は156体です。508体の彫刻は、霊獣と呼ばれている不思議な形をした動物や中国の仙人、唐子など様々です。

日光東照宮・陽明門で注目の彫刻は?

①麒麟(きりん)
門の上の方に後水尾天皇筆の「東照大権現」の額の後ろにあります。

②龍と息(りゅうといきまたはそく)
「東照大権現」の額の下にあります。

③龍馬と目抜きの龍(りゅうばとめぬきのりゅう)
「龍と息」の下の白い彫刻が「龍馬とめぬきの龍」です。

④唐子遊び(からこあそび)
日光東照宮・陽明門を見上げると、高欄の部分に「唐子遊び」があります。

⑤八方睨みの昇龍・四方睨みの降龍
陽明門内部の天井に、狩野探幽筆の「八方睨みの昇龍・四方睨みの降龍」の絵があります。

日光東照宮・陽明門に逆さ柱がある?

日光東照宮・陽明門は、12本の白い柱で支えられており、すべての柱に”グリ紋”と呼ばれている渦巻状を2つつなげた形の文様が刻まれています。ところがその中に1本だけ逆さに建てられた「逆さ柱」があります。陽明門をくぐった先の左手2番目の柱にあります。この柱だけ文様が下向きになっていますから、すぐにわかります。

たぶん当時はもっと派手だったんじゃないかな。日本のわびさびの文化なんて後付だし、そこまで歴史はない / “日光東照宮、修復で「三猿」の顔が変わった? 現場の職人、研究者の見解は” htn.to/7iyUD4R

日光東照宮、修復で「三猿」の顔が変わった…? 現場の職人、研究者の見解は buzzfeed.com/harunayamazaki… @hyamazaki26から

日光東照宮・陽明門の真上に北極星?

日光東照宮は、江戸城の真北に位置しています。陽明門から本殿まで直線で結ぶとちょうど北極星を背にして建っているのです。あえてこの位置関係に造営した理由は、諸説あります。北極星は、高天原の主であり、「天帝」を意味します。高天原の天帝は、「天照大神(あまてらすおおみおかみ)」を意味するともいわれています。

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