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サザン・ロック(英: Southern Rock)は、カントリーやブギー(ブギウギ)、ブルース、R&Bなど、アメリカ南部の土(泥)臭い音楽を前面に押し出したロック。60年代から80年代にかけて、ロック・ミュージックが様々に細分化していく過程で出来たカテゴリーの一つ。ジョン・フォガティのCCRなどは、別にスワンプ・ロックと呼ばれることもある。

ウェストコースト・ロック (West Coast rock) は、ロックのサブカテゴリのひとつであり、ウェストコースト・サウンド (West Coast sound) とも称する。アメリカ合衆国西海岸を拠点とするアーティストや、同地のレコード産業が手がけた音楽などを指すが、アメリカ本国ではあまり使用されず、音楽ジャンルを指すフレーズとしても一般的なものではない。

「ウェストコースト・ロック」という日本での音楽用語は、1960年代後半の、サマー・オブ・ラブの時代にドラッグ、ヒッピー文化の担い手として活躍した一群(ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドなど)と、1970年代以降に音楽業界で大成功を収めたアーティスト(イーグルス、リンダ・ロンシュタット、ドゥービー・ブラザーズなど)の両方を意味している

27.Creedence Clearwater Revival

カリフォルニア州サンフランシスコ出身であるが、アメリカ南部のサザン・ロック、スワンプ・ロックの先駆者的存在だった。「近年では、オルタナティブ・ロックの開祖とも」。活動期間は短いながらも足跡を残し、1993年にはロックの殿堂入りを果たした。

28.Derek & The Dominos

クラプトンはブラインド・フェイス解散後、デラニー&ボニー&フレンズと活動を共にする。ここで、アメリカ南部のブルースロックやサザンロックに強い影響を受けたクラプトンは、フレンズからボビー・ウィットロックとカール・レイドル、ジム・ゴードンを迎え、デレク・アンド・ザ・ドミノスを70年に結成する。トム・ダウドをプロデューサーに迎え、アルバム『いとしのレイラ(Layla and Other Assorted Love Songs)』を発表した。

アルバムのハイライトとなる「いとしのレイラ」は、クラプトンの私生活に基づく物で、親友のジョージ・ハリスンの妻であるパティ・ボイドに夢中になった。ヘロインを使用するようになったが、それでさえ心の痛みを癒やすことはできなかった。アルバムには、オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンもゲスト参加し、そのスライドギターは、クラプトンと対等の存在感を示した。1971年、2枚目のアルバムのレコーディング中にクラプトンとゴードンが激しい口論となったことで製作は中止され、バンドは解散した。

29. Nitty Gritty Dirt Band

1966年頃カリフォルニア州ロング・ビーチにおいてJeff Hanna とBruce Kunkelの二人によってJugバンドとして結成された。デビュー・アルバムとなる『The Nitty Gritty Dirt Band』は1967年に発売されそこからファースト・シングルとして『Buy for Me the Rain』がシングル・カットされTop 40入り成功を収めた。2枚目のアルバムとして『Ricochet』 がその年に続けて発売されたがデビュー作程の成功は納められず、エレクトリック化に向かった3枚目のアルバム『Rare Junk』、ライヴ・アルバムである『Alive』も同様に売れずバンドは半ば解散状態に陥る事になる。5枚目のアルバム『Uncle Charlie & His Dog Teddy』を1970年に発売した。『Mr. Bojangles』はバンドのキャリアの中で最大級のヒットとなった。

30.The Allman Brothers Band

1969年、地元のキャプリコーン・レコードと契約、同年、ファースト・アルバム『The Allman Brothers Band』をリリース。翌年には2作目『Idlewild South』をリリースするが、2作とも大きな成功を収めるには到らなかった。彼らの存在を不動のものとしたのは、続いてリリースした1971年のライヴ盤『At Fillmore East』であった。デュアンの豪快なスライド・ギターをフィーチャーした"Statesboro Blues"などを収録した2枚組はビルボードのアルバム・チャートの13位を記録するヒットとなり、ライブ盤の金字塔として知られるようになった。『At Fillmore East』の成功から間もない1971年10月29日、デュアンがメイコンにてオートバイでトラックに追突し、僅か24歳の若さで他界する。

31.Little Feat

1969年、フランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションのメンバーだったローウェル・ジョージ、ロイ・エストラーダを中心にLAで結成。2枚のアルバムを発表したが、商業的成功には結びつかず、エストラーダにより解散寸前の危機的状況に陥る。しかし、初期の2枚には、ロード・ソングの名曲「ウィリン」が録音されている。これはアメリカ南部とメキシコを密輸のトレイラーを走らせる酔いどれトラック野郎の唄である。新たなラインナップで、1973年にアルバム「Dixie Chicken」を発表。タイトル曲に見られるようにニューオーリンズ、南部色をより強めた。この後、ファンキーな路線を推し進め、ジャズ、フュージョン的な色彩も織り込んでいくが、ローウェル・ジョージはバンドの方向性に違和感を覚え、1979年にリトル・フィートの解散を宣言した。しかし、その直後心臓発作で死亡。

32.Leon Russell

1968年から現在に至るまで数多くのアルバムを発表、アメリカ南部のルーツ・ミュージック色が濃い泥臭い音楽性は高い評価を受けている。ラッセルのロック・ミュージックはロサンゼルス産でありながら、”スワンプ・ロック”という呼称が与えられ、彼こそが、スワンプ・ロックのカリスマである。1972年にリリースされたレオン・ラッセル最大のヒット作『Carney』の頭に収録された「タイト・ロープ」もチャートインした。ねちっこい節回し、シンプルなバックの中に光るスライド・ギターとピアノなど、軽快な南部の泥臭い臭いが聴ける。この頃、ラッセルのスワンプ・ロックは、エリック・クラプトンにも大きな影響を与えた。

33.Jackson Browne

1960年代後半から、イーグルスやニッティ・グリティ・ダート・バンドなどに楽曲を提供しており、デビュー前からその名は広く知られていた。1972年、アルバム『ジャクソン・ブラウン・ファースト』でメジャー・デビューを果たす。同アルバムに収録されている「ドクター・マイ・アイズ」は、全米シングル・チャート第8位のヒットとなった。以後、1974年『レイト・フォー・ザ・スカイ』1976年『プリテンダー』1978年『孤独なランナー』を次々とチャートインさせ、1980年にリリースしたアルバム『ホールド・アウト』で初の全米チャート1位を獲得する。

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