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必読。ひたすら「面白さ」にだけこだわって哲学書を厳選。徹底的哲学宣言。

チャレンジして損はない!そんな本を集めてみました。

更新日: 2017年07月16日

哲学な夜さん

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とにかく読み始める!

どーせ分からなくてストレスを溜め込むのだろう…。そこかしこで理解できない文章に出くわすことを予感して、哲学思想に興味を持ちながらも入門書から一歩踏み出すのを躊躇している方々へ。

その気持ち、よーく分かります。理解できなさ加減がハンパでないときの、あとからジンワリ来る痛みにも似た衝撃は、たとえようがありません。
〈現代思想PTSD〉という言葉を創出した内田樹は、できれば触れられたくないこの〈傷〉を的確に拾いあげています。

本格的読書の手前で足踏みするのは、心的衝撃をあらかじめ予見した無意識が防衛本能をはたらかせているからなのかもしれません。

しかし、専門家でさえ細部にいたるすべてを理解しているわけではなく、たとえばドゥルーズ研究者は「この箇所でドゥルーズがなにを言いたいのかさっぱり分からない…」と悩みながら本を読むのですから、理解できなくてなにが悪いと開き直るのが、じつは〈理解〉への近道なのだと思います。

そんなのは寝っ転がりながら読むものだ、こう言い放ち、背筋を伸ばし正座で拝読するものとそれまで考えられていた『資本論』をポップな書物へ引き下ろした浅田彰の読書観が、今更ながら参考になります。

本格的読書へ飛び込んでみませんか?

『千のプラトー』

ジル・ドゥルーズ + フェリックス・ガタリ|河出文庫

とにかく本の中へ飛び込んでしまうこと。ほんの三行、いや、たった一行の言葉の「これは!」に遭遇できただけでも、その本との付き合いに成功したと評してよいのではないでしょうか。

「これは!」との遭遇を、ドゥルーズ + ガタリなら〈アレンジメント〉とよぶでしょう。
あるいは、遭遇以降の思考に沁み透った「たった一行の言葉」が、思考の成分として〈思考 - と - 共に〉思考することこそを〈アレンジメント〉とよぶでしょう。

そのとき思考は〈生成変化〉を通過しています。思考ばかりか、「たった一行の言葉」のほうも〈生成変化〉を通過しており、いわば相互に相手の生成変化を促す関係に入っています。

「たった一行の言葉」が思考へ移行し、思考へと生成する一方、思考は沁み透られるというかたちで「たった一行の言葉」へ移行し、「たった一行の言葉」へと生成する。
「たった一行の言葉」が、「たった一行の言葉」にとって〈他なるもの〉である思考へと生成変化するのと同時に、思考は、思考にとって〈他なるもの〉である「たった一行の言葉」へと生成変化する。

しかも思考とは、他なるものへの移行、〈他なるもの=他者〉への生成変化でなければそもそも〈思考〉ではありえない。たまたま他者へ移行したのではない。〈移行〉による他者への〈生成変化〉においてしか思考は「思考できない」のだ。

移行する前が〈思考の「本当の」姿〉なのではないし、移行した後が〈思考の「仮象の」姿〉なのでもない。「本物/偽物」という二項対立図式の外部でこそ生成変化は起こるのだし、二項対立図式を脱臼させるのが生成変化なのである。
このようなものとして生成変化は、〈出来事〉とよばれるにふさわしい。

言葉と思考に限った話ではない。人は、動物にも、植物にも、女性や子どもにも生成変化するし、いまこの瞬間も生成変化を繰り返している。世界のすべてが移行しており、というか「世界とは移行のことであり」、それゆえ世界は生成変化を決してやめないだろう。


…かくも面白い哲学が『千のプラトー』には溢れかえっています。本が待っています。もったいないですから今すぐ行動開始です!

フーコーまとめに匹敵するぐらい詳細に立ち入ったドゥルーズ論になりかけていますが、『千のプラトー』紹介はこれでおしまい。

『アンチ・オイディプス』

ジル・ドゥルーズ + フェリックス・ガタリ|河出文庫

家族、といえば決まって「お父さん、お母さん、わたし」を標準にして考えるのが社会常識で、それはわたしたちの無意識に強く刷り込まれた、家族を思い浮かべるときの起点であり、一種の規範にさえなっています。

本書『アンチ・オイディプス』が言葉を尽くして批判するのはまさにこの〈パパ - ママ - わたし〉三角形家族。それが、人びとの〈生〉を締めつけ、ファシズム的欲望に形を与えるからです。

精神分析の創始者フロイトは、〈パパ - ママ - わたし〉三角形家族が普遍性を持つと考え、過去現在未来、いつでも三角形家族の中でこそ人は正常な〈人間〉に育つと信じていました。
ママとの近親相姦を欲望し、そして、壁として立ちはだかるパパの殺害を欲望する、無意識レベルでの穏やかでない葛藤を抱え込む場としての、三角形家族。古代ギリシャの〈オイディプス〉神話がそのことを証明しているではないか、というわけです。

生まれてすぐ両親に棄てられた主人公オイディプスは、道すがら諍いが原因で、それが自分の実父であることを知らずテーバイ王を殺害。その後、ギリシャのテーバイを治める王となったオイディプスは、それが自分の実母であることを知らずにテーバイ王妃を妻にする。

〈人間〉の無意識には母に対する性的欲望、父に対する殺害欲望があって、〈オイディプス〉神話はそれら無意識の欲望を濃縮した物語だ、こうフロイトは結論した。
精神分析によるこの結論を背景に、三角形家族モデルが浸透した近代社会は、人びとを三角形家族の中へ閉じ込めてしまう。

なんでもいい、なにか些細な感情(欲望)でさえ、無意識レベルの〈近親相姦欲望 - 殺害欲望〉を〈表現〉していると、精神分析家が人びとに言い聞かせる。たとえばあなたが会社の上司のことを嫌いなのは、あなたの無意識が、父親と上司の「同一視」によって、父親に対する殺害欲望を上司に投影しているからだ、となる。
そしてついには、人びとが進んでこう語るようになった。「そうだ、私は私の母を欲望し、私の父を殺そうとした」。本書『アンチ・オイディプス』の隠れキーワードともいうべき《欲望の置き換え》である。
かくして殺意に対する〈良心の疚しさ〉が芽生え、罪悪感をバネに〈父〉の権威がそれまでとは逆に高められることになる。

家庭の中だけにとどまらない。精神分析は、社会各層のリーダーたちを〈父〉と同一視し、人びとの欲望をそこへ回路づける。人びとに与えられた欲望の選択肢は二つ。ひとつは、〈父〉たるリーダーに隷属すること。いまひとつは、〈父〉を超えて、自分がリーダーの地位に就くことである。
隷属を選択した場合、〈父〉の権威のもと、父に倣い、「父のように」生きる欲望になる。〈父〉を超え、自分が父にとって代わることを選択した場合は、〈父〉を象徴的にではあれ殺害したことの「良心の疚しさ」から、かえって「父離れ」できなくなる欲望となる。

かくして隷属も象徴的殺害も、帰着するところは同じ、すなわち、〈父〉への従属と、それを通じての、既存社会秩序の維持、である。そればかりか「〈父〉なる指導者を待望する」ファシズムの形式を与えるのも、この〈父〉なのである。

或る欲望(感情なり関心なり)を、父の殺害(そして母との近親相姦)に対する欲望の《表現》と見なすことで、自由な欲望に「充足」を禁じ、「そこにないもの」を欲望するのが欲望の本性であるというフィクションを人びとに信じさせるに至った。《欲望の置き換え》によって、欲望に《欠如》を割り当てたのだ。
人びとが現に抱いている欲望を、別のところに存在する「ほんとうの欲望」の《代理》と見なし、欲望とその充足の間に埋められない《隔たり》をこのようにつくり出す精神分析は、決してゴールできない無限のサーキットに人びとを投げ込む。
欲望充足の飽くなき追求よって人びとは、固い〈主体〉を内面に築くのだが、本書『アンチ・オイディプス』が精神分析を批判するのはまさしく精神分析が人びとをゴールなき無限サーキットに投げ込み、固い〈主体〉を築くよう人びとに仕向けるからだ。

なお、不可能な欲望充足の飽くなき追求という〈過程〉においてのみ築くことができる固い〈主体〉を生きる者を、本書は〈神経症者〉とよぶ。

自由な欲望には、精神分析が教えるような「目的」も「意味」もない。直接的に顕在化しない別の欲望を《表現》しているのでもなければ《代理》しているのでもない。つまりは、《欠如》などない。欲望(感情)の対象である上司はそこに欠けた《父の代理》などではないのだ。
「欲望には何も欠けていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ」(『アンチ・オイディプス』上、58頁)。

…いかがでしょう。一箇所でも「引っかかる」ワードがあれば、ぜひ本書を手にとってみては?

『哲学とは何か』

ジル・ドゥルーズ + フェリックス・ガタリ|河出文庫

本書のタイトルは、『哲学とは何か』です。
哲学とは、《力》を正確につかみ、それを哲学のうちへ引き込むことを任務とする。こうドゥルーズ + ガタリは哲学を定義しています。

それには哲学自体が伝統哲学から〈脱領土化〉する必要があり、そうして哲学は脱領土化そのものへ〈移行〉し、脱領土化の《力》へ〈生成変化〉を遂げるわけですが、それは〈中途半端に脱領土化=不平等で悲惨な再領土化〉段階で運動を停止してしまっている現代世界の硬直性を突き破り、世界の脱領土化を大規模に再開するためにそうするのです。
《力》を哲学に引き入れること、あるいは哲学が《力》へ生成変化すること。

〈領土 - 脱領土化 - 再領土化〉は、世界へ乗り出した近代ヨーロッパ人の行動にこそ十全に現れている。
そもそもヨーロッパ人が、おのれの文明文化を、キリスト教を、とりわけ「人間」を布教するべく、それぞれ独自の「歴史文化伝統という〈領土〉」のなかに生きていた人類を〈脱領土化〉し根無し草化して、そうして人類全体をおのれのうえに〈再領土化〉してきたのである。人類のヨーロッパ人化、「人間」化である。非西洋圏の膨大な人びとがこれを通じて多かれ少なかれ〈移行〉先のヨーロッパ人へ〈生成変化〉し、とりわけ〈移行〉先の「人間」へ〈生成変化〉した。

その一方で、ヨーロッパ人の世界進出とぴったり重なるように、世界的資本主義は文字どおり世界を資本主義に巻き込み、世界各国(の膨大な人びと)を、「歴史文化伝統という〈領土〉」から引き剥がし、すべてを資本主義的〈流動〉の渦中へ投げ込んだ。〈脱領土化〉である。だが、そのようにして世界各国(の膨大な人びと)をおのれの一部と化した世界的資本主義は、近代民族国家のうえでおのれ自身を〈再領土化〉し、「国家としての資本主義」という姿へ〈生成変化〉した。

人間化されるわ資本主義化されるわで、非西洋文化圏にとっては踏んだり蹴ったりである…と言いたいところだが、事はそれほど単純ではない。
どういうことか?

わたしたち自身の成長にも「領土を脱領土化する《力》」および「脱領土化を再領土化する《力》」がはたらいているからだ。ヒト科は、地面という〈領土〉から引き離すことで「前足」を〈脱領土化〉し、そうして、それを「手」に仕立てあげ、棒や道具のうえで、手になった前足を〈再領土化〉する。前足の、手への〈生成変化〉である。
見落としがちだが、一本の棒もまた、樹木という〈領土〉から〈脱領土化〉した木の枝、一本の棒へ〈再領土化〉した木の枝だ。

このように生態系の水準ですら、脱領土化 - 再領土化という《力》で満たされている。「〈流動〉する大地」が、世界をまるごとおのれのうちに引き込もうとするかのようにすべてを脱領土化し〈流動〉的〈根無し草〉にすると「同時に」、それまでとは異なる〈他なるもの〉へすべてを再領土化する〈生成変化〉の連続。

〈脱領土化 - 再領土化〉は、ヨーロッパ人が発明したのでもなければ世界的資本主義が発明したのでもなく、ヨーロッパ人と世界的資本主義は、ヒト科の成長においてさえ作動している〈脱領土化と再領土化〉の運動をわがものとして横領し、それを自らの《力》にしてきたのだ。まさにそのことが、ヨーロッパ人と世界的資本主義が「強い」理由なのである。

本書『哲学とは何か』は、ヨーロッパ人と世界資本主義が地球を脱領土化に引き込んだことを非難しているのではない。むしろ逆である。中途半端で不徹底極まる脱領土化しかできない〈自己保身〉の臆病を非難しているのだ。

〈脱領土化 - 再領土化〉の反復、それは、《自己という領土》からの絶えざる〈脱領土化〉の繰り返しを通じて《自己でない何ものか》への再領土化=生成変化を次つぎと生産し、世界の多様化を加速させる運動あるいは力である。そのようにして世界はただただ生成変化を増幅し、多様性を膨張させていく。

…いまこうして書いているあいだも思い出しては知的興奮がよみがえる、ダイナミックな常識破りで読者にめまいをもたらす哲学書、それが『哲学とは何か』なのです。
迷っている暇はありません、いますぐ読みはじめてみませんか?

本書は思考について、哲学の思考、芸術の思考、科学の思考にタイプ分けし、それぞれの特性を詳しく説明していますが、芸術の思考でとりあげる小説『白鯨』の〈鯨 - に - 成る〉場面描写のワクワク感は、みなさんが『哲学とは何か』を手にとって是非味わってみてください。

『差異と反復』

ジル・ドゥルーズ|河出文庫

プラトン哲学は、2000年にわたる伝統哲学の中心を貫いてきた。本書『差異と反復』が企てるのは、プラトン哲学の転倒である。
イデアとその影。本物とその偽物。本質とその現象。…プラトン哲学の牙城である二項対立図式を脱臼させ、蒸発させてしまうこと。

そもそも本書『差異と反復』は…以下、検討中。

『他者の記号学』

ツヴェタン・トドロフ |法政大学出版局

『ピエール・リヴィエール』

ミシェル・フーコー(編著)|河出文庫

『イェルサレムのアイヒマン』

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