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(毎日更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

できるだけ毎日、戦国武将・武士を一人ずつ概略を追加いたします。できない日はごめんなさいm(_ _)m なお、時代的にはこだわらず、平安時代~戦国時代~安土桃山時代~江戸時代からご紹介。徐々に戦国武将一覧ができあがりますので応援して下さい♪(本日の武将・日替わり武将・夏休み自由研究)

更新日: 2017年07月26日

hogehogemanさん

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戦国武将を毎日一人ずつ紹介中

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、武田信玄、
上杉謙信、足利尊氏、毛利元就、斎藤道三、浅井長政、
真田信繁、石田三成、伊達政宗、井伊直政、島津義弘、
竹中半兵衛、山本勘助、松永久秀、片倉小十郎、長宗我部元親、
北条氏政、今川義元、朝倉義景、柴田勝家、黒田孝高、

六角承禎、三好長慶、前田利家、加藤清正、本多忠勝、
楠木正成、直江兼続、佐々成政、高山右近、大谷吉継、
大友義鎮、尼子晴久、武田勝頼、山中鹿之助、酒井忠次、
藤堂高虎、細川忠興、佐竹義重、秋山虎繁、小早川秀秋、
山内一豊、福島正則、佐久間信盛、平清盛、源義朝、

飯富虎昌、真田昌幸、荒木村重、宇喜多秀家、中川清秀、
滝川一益、丹羽長秀、大野治長、豊臣秀長、榊原康政、
太源雪斎、池田恒興、諏訪頼重、甘利昌忠、山県昌景、
豊臣秀頼、松平信康

松平信康 2017/7/26(水)追加

松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。

没年:天正7.9.15(1579.10.5)
生年:永禄2.3.6(1559.4.13)
戦国時代の武将。
徳川家康の長男として駿府で生まれる。
母は築山殿。
幼名竹千代,通称は次郎三郎。
永禄3(1560)年の桶狭間の戦ののち,家康が今川氏から自立する動きをしてからも築山殿と共に駿府に抑留され,ようやく同5年,人質交換で岡崎に引き取られた。
同10年織田信長の娘五徳(徳姫)と結婚し,元亀1(1570)年,元服して岡崎次郎三郎信康と称し,家康が浜松城に移ったあとをうけて岡崎城主となっている。
永禄9年末以降家康が徳川姓を称したあとも,岡崎信康,あるいは松平信康と呼ばれた。
岡崎城に残った母築山殿と妻徳姫との折り合いが悪く,また,家臣の中から武田勝頼に通謀する者が出るなどして,徳姫からの手紙でそのことを知った信長は家康に信康の処分を命じ,天正7(1579)年8月4日,岡崎城を出された信康は遠江堀川城,さらに二俣城へと移され,同城で切腹させられた。

豊臣秀頼 2017/7/25(火)追加

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体: 豐臣秀賴)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。

安土桃山時代の武将。
秀吉の次男。
母は浅井氏の長女,淀殿。
幼名,お拾。
秀吉 57歳のときの子。
秀吉は文禄4 (1595) 年養子秀次を自刃させたのち諸将から秀頼に対し異心なき旨の誓書を出させ,秀頼が相続人であることを天下に公示した。
慶長1 (96) 年 12月 17日元服。秀吉の死後,大坂城に入り,徳川家康は伏見城で政務をとった。
同5年関ヶ原の戦い後,家康の権力が確立すると,秀頼は摂津,河内,和泉の3ヵ国六十余万石の一大名格に落された。
同8年家康の孫娘千姫と結婚。
その間同6年権大納言,同8年内大臣,正二位,同 10年右大臣と官位は進んだが,権力は徳川氏の手中にあった。
これに不満をもつ秀頼の周辺は反徳川勢力を結集した。
家康のすすめにより,地震で崩壊した秀吉創建の方広寺を再建して同 19年供養法会を行うにあたり,梵鐘の銘文「国家安康」の文字は家康を呪詛するものと家康に言いがかりをつけられて大坂冬の陣が起った 。
いったんは和睦が成立して大坂城の堀を埋めさせられ,翌年再び家康に攻められ (夏の陣) ,母淀殿とともに自殺した。

[生]文禄2(1593).8.3. 大坂
[没]慶長20(1615).5.8. 大坂

山県昌景 2017/7/24(月)追加

山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。

?-1575 戦国-織豊時代の武将。
武田信玄,武田勝頼につかえ,譜代家老衆にすすむ。
兄の飯富虎昌(おぶ-とらまさ)が武田義信の謀反に連座したため,飯富から山県に改姓。
駿河(するが)(静岡県)江尻城代となり,天正(てんしょう)3年5月21日長篠(ながしの)の戦いで戦死した。
初名は源四郎。

西上野侵攻における箕輪城攻略戦、駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)、甲相同盟の破綻後の相模後北条氏の戦いなどに参加したとされるが、文書上では主に信玄側近として諸役免許や参陣命令、自社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されるほか、美濃国の遠山氏、陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏、室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めている。永禄12年(1569年)には駿河江尻城代に任じられた。

甘利昌忠 2017/7/23(日)追加

甘利 信忠(あまり のぶただ)は、戦国時代の武将。
甲斐国武田氏の譜代家臣、家老。
後年には武田二十四将に数えられる。

父は武田氏の譜代家老の甘利虎泰。
『甲陽軍鑑』に拠れば虎泰は板垣信方と共に武田家の最高職位とされる「両職」を務めたとされる。
なお、武田家中では甘利氏の一族として甘利信康がおり、信忠の弟もしくは子であると考えられている。
また、兄に天文11年(1542年)の瀬沢の戦いで戦死した甘利信益(のぶます)もいたとされ、これを受けて嫡男となった可能性もある。
信忠も含め「信」の字は武田晴信から賜った偏諱と考えられる。
他方で異説としては、初名を藤蔵とし、晴信から「晴」の字の偏諱を受けて晴吉と名乗ったとするもある。
晴信期の信濃侵攻において、天文17年(1548年)の上田原の戦いで虎泰・信方両名は戦死し、信忠は家督を継承して甘利衆を率い、板垣信憲と共に「両職」になったといわれる。

逸話
米倉重継の子・彦二郎の鉄砲傷を治すために芦毛の馬の馬糞汁を飲ませようとし、彦二郎が嫌がると、自ら馬糞汁を飲んでみせたという。

諏訪頼重 2017/7/22(土)追加

永正13年(1516年)、諏訪頼隆の嫡男として生まれる。
諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた(『神使御頭之日記』)。
天文11年(1542年)には嫡男寅王が生まれている。
天文10年(1541年)5月13日には信虎・村上義清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い、5月23日には海野平の戦いで海野棟綱を破り上野国へ追放している。
同年6月に甲斐では武田信虎が駿河へ追放され嫡男武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ諏訪郡への侵攻を開始する。
晴信は6月、諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃する。
頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。

池田恒興 2017/7/21(金)追加

池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の1人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。

没年:天正12.4.9(1584.5.18)
生年:天文5(1536)
戦国・安土桃山時代の武将。
通称は勝三郎,紀伊守。
勝入と号す。
池田恒利と織田信長の乳母養徳院の子。
信秀・信長父子に仕え,信秀から諱の1字を与えられ信輝と名乗ったとされる。
ただし,信輝という名は確認されていない。
天正8(1580)年荒木村重の属城花熊城(神戸市)を攻略し,摂津に所領を与えられた。
このころ明智光秀の与力となる。
同10年本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉と共に光秀を討ち,柴田勝家,秀吉,丹羽長秀と並んで織田家宿老に列す。
同11年賤ケ岳の戦には秀吉に味方する。
戦後,美濃大垣13万石を与えられる。
同12年小牧・長久手の戦では,秀吉方として緒戦に犬山城を攻略。
その後,膠着状態の打開策に三河を衝くことを進言。
先陣として三河へ向かうが,徳川家康に見破られ,子の元助らと共に長久手で戦死した。

太源雪斎 2017/7/20(木)追加

太原 雪斎/太原 崇孚は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶で今川家の家臣。諱は崇孚。 父は庵原城主・庵原政盛。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。

没年:弘治1.閏10.10(1555.11.23)
生年:明応5(1496)
戦国時代の臨済宗妙心寺派の僧。
戦国大名今川義元の軍師。
今川氏の重臣庵原左衛門尉の子。
母も今川氏重臣興津氏の娘。
9歳ごろ出家,駿河国富士郡善得寺の琴渓舜につき九英承菊と称し,今川氏親の5男梅岳承芳の養育を依頼され,承芳を伴って上洛,建仁寺の常庵竜崇,次いで妙心寺の大休宗休の教えを受けた。
妙心寺修行時代,太原崇孚と名を改めている。
天文5(1536)年,承芳が今川家の家督を継ぐことになり還俗して義元と名乗るとともに,その補佐役となった。
義元の兄氏輝の菩提寺として駿府(静岡県)に臨済寺を建ててその住持となった。
今川軍の三河侵攻に当たっては自ら采配をとり,また武田氏・北条氏との講和交渉にも手腕を発揮している。
天文19年には勅を奉じて妙心寺第35世に出世し,帰国後は臨済寺のほか,興津の清見寺,富士の善得寺の住持も兼ねた。
死後,宝珠護国禅師と諡された。

榊原康政 2017/7/19(水)追加

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。

永禄3(1560)年,徳川家康の小姓として仕え,同6年の三河一向一揆との戦いが初陣で,家康から諱の1字を与えられた。
永禄末年には本多忠勝と共に旗本先手役に取り立てられ,姉川の戦,三方ケ原の戦で戦功をあげている。
康政の武名を高めたのは天正12(1584)年の小牧・長久手の戦で,このとき康政は豊臣秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけ,怒り狂った秀吉が冷静さを失うという一幕を作り出している。
そのため秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れたといわれる。
戦後,妥協によって家康は秀吉に臣従,家康が関東に移封されたとき上野国館林で10万石を与えられ,文禄1(1592)年からは家康の3男秀忠付となった。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦のとき,秀忠に従って東山道軍に属し,信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めあぐみ,関ケ原の決戦に遅参する失態を演じた。
このとき,補佐役としての康政がすべての責任をとる形で家康と秀忠の仲直りにもちこんだ。
その後,本多正信・正純父子らとの対立もあって館林に引き籠もり,そのまま同所で没した。

没年:慶長11.5.14(1606.6.19)
生年:天文17(1548)

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