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(毎日更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

できるだけ毎日、戦国武将・武士を一人ずつ概略を追加いたします。できない日はごめんなさいm(_ _)m なお、時代的にはこだわらず、平安時代~戦国時代~安土桃山時代~江戸時代からご紹介。徐々に戦国武将一覧ができあがりますので応援して下さい♪(本日の武将・日替わり武将・夏休み自由研究)

更新日: 2017年11月17日

hogehogemanさん

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戦国武将を毎日一人ずつ紹介中

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、武田信玄、
上杉謙信、足利尊氏、毛利元就、斎藤道三、浅井長政、
真田信繁、石田三成、伊達政宗、井伊直政、島津義弘、
竹中半兵衛、山本勘助、松永久秀、片倉小十郎、長宗我部元親、
北条氏政、今川義元、朝倉義景、柴田勝家、黒田孝高、
六角承禎、三好長慶、前田利家、加藤清正、本多忠勝、
楠木正成、直江兼続、佐々成政、高山右近、大谷吉継、
大友義鎮、尼子晴久、武田勝頼、山中鹿之助、酒井忠次、
藤堂高虎、細川忠興、佐竹義重、秋山虎繁、小早川秀秋、
山内一豊、福島正則、佐久間信盛、平清盛、源義朝、

飯富虎昌、真田昌幸、荒木村重、宇喜多秀家、中川清秀、
滝川一益、丹羽長秀、大野治長、豊臣秀長、榊原康政、
太源雪斎、池田恒興、諏訪頼重、甘利昌忠、山県昌景、
豊臣秀頼、松平信康、本多正信、安国寺恵瓊、村上義清、
板垣信方、真田信之、小笠原長時、黒田長政、徳川秀忠、
井上之房、龍造寺隆信、森可成、大久保忠教、穴山梅雪、
北畠具教、島左近、九鬼嘉隆、源義仲、足利義政、
服部半蔵、後藤又兵衛、織田信行、前野長康、母里太兵衛、
足利義満、土井利勝、佐々木道誉、源範頼、太田道灌、
北条氏直、細川藤孝、柳生宗厳、足利義昭、高師直、

小西行長、織田有楽斎、吉川広家、筒井順慶、仙石秀久、
足利義詮、源行家、最上義光、池田輝政、古田織部、
宇喜多直家、斎藤利三、北条時政、平忠盛、織田信忠、
北条氏直、春日虎綱、蒲生氏郷、毛利良勝、上杉景勝、
北条高広、毛利勝永、織田信雄、吉川元春、本多作左衛門、
森蘭丸、別所長治、土岐頼遠、浅野長政、服部一忠、
森可隆、北条高広、鳥居強右衛門、小山田信茂、織田信孝、
渡辺半蔵、森坊丸、馬場信春、明石全登、上杉景虎、
長宗我部盛親、北条早雲、京極高次、内藤昌豊、塙団右衛門、
加藤嘉明、北条氏綱、来島通総、木村重成、織田信包、

森忠政、宗義智、陶晴賢、浅野幸長、今川氏真、
片桐且元、村井貞勝、林通勝、北条氏康、森力丸、
石川数正、津軽為信、平手政秀、南部信直、宗義智、
可児才蔵、九戸政実、菅屋長頼、板倉勝重、河尻秀隆

河尻秀隆 2017/11/17(金)追加

河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び、美濃岩村城主や甲斐府中城(甲府城)城主も務めた。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。

没年:天正10.6(1582)
生年:大永7(1527)
戦国・安土桃山時代の武将。父は親重,母は織田信敏の娘。通称与兵衛。重遠,鎮吉とも称す。織田信長に仕えた。美濃攻略の諸戦,伊勢長島の一向一揆鎮圧などに功を立て,天正3(1575)年美濃国岩村城(岐阜県岩村町)の守備を命じられた。同10年の甲斐武田氏攻略では織田信忠の軍に属し,信長との連絡調整に当たった。戦後この功績により,穴山氏の所領を除く甲斐一国および信濃国諏訪郡を与えられ甲府に移るが,同年6月,本能寺の変以後の領国の混乱のなか,武田氏の旧臣により殺された。背後には追い落としを狙う徳川家康の策謀があったともいわれる。なお死没の日については15日,18日の両説がある。

板倉勝重 2017/11/16(木)追加

板倉 勝重(いたくら かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した。

[生]天文14(1545).三河,額田
[没]寛永1(1624).4.29. 京都
江戸時代初頭の幕臣。伊賀守。幼少の頃は僧であったが,肉親の戦死のため還俗して家を継いだ。天正 14 (1586) 年,徳川家康が駿府に入ってから駿府町奉行を命じられ,治績を認められて関東入部に際しては江戸町奉行になり,関東代官を兼ねた。また慶長6 (1601) 年には京都町奉行,さらに京都所司代に起用され,約 20年間その職をつとめた。裁判におけるその裁量にはみるべきものがあり,京都の人心を徳川氏にひきつけるのに役立った。その間,金地院崇伝とともに寺社関係の仕事も行い,家康の信頼は非常に高かった。同8年伊賀守,元和6 (20) 年辞職。

菅屋長頼 2017/11/15(水)追加

菅屋 長頼(すがや ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の側近として仕えた。姓は「菅谷」と書かれる事も。

?-1582 織豊時代の武将。
織田信房の子。織田信長の側近。天正(てんしょう)2年(1574)東大寺正倉院御物の名香蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りの奉行,7年安土(あづち)宗論(浄土宗と日蓮(にちれん)宗の論争)の監督などをつとめ,9年能登(のと)(石川県)七尾城代となる。10年6月2日本能寺の変のとき二条城で討ち死にした。通称は九右衛門。姓は菅谷ともかく。

九戸政実 2017/11/14(火)追加

九戸 政実(くのへ まさざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。九戸城主。九戸信仲の子。

没年:天正19(1591)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。信仲の子,左近将監。南部氏の支族で陸奥国九戸地方を領有し,九戸城(岩手県二戸市)に居城。当時,南部家の統制はゆるく九戸家は同族の八戸家や津軽大浦氏と共に半独立状況にあった。しかも,南部家では晴政,晴継が相次いで死去したため,政実はそのあとを継ごうとしたが同族の石川家から信直が入嗣して南部家(三戸氏)の当主となり,両者は対立。天正19(1591)年3月政実は公然と信直に反乱(九戸の乱)。これに対し豊臣秀吉は浅野,蒲生各氏らを向かわせ,信直軍と九戸城を包囲した結果,9月に落城。政実は二本松の豊臣秀次の本陣に送られて斬首された。

可児才蔵 2017/11/13(月)追加

可児 吉長(かに よしなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。通称の才蔵(さいぞう)でよく知られており、以下本稿でも才蔵名で記す。

笹の才蔵
サムライたちが戦いの時に「背旗」の代わりに「笹」を指物として使ったと言われている可児才蔵のニックネームだ。
彼の本名は、可児吉長。
13歳のころ、斎藤龍興に仕えた後は、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と渡り歩くこととなる。

「関ヶ原の合戦」の時には、才蔵は福島正則軍の先鋒隊長をつとめ、もちろん、このときも「背旗」の代わりに「笹」を使用していた。
普通サムライたちは、敵の首をとったら、腰にぶら下げて戦いを続けるか自分の陣へ持ち帰るのだが、才蔵は、ここで必殺技の「笹」を使う。
とった首の切り口や耳の穴、鼻の穴、口の中に、目印として「笹」を入れておき、時間の無駄を省いて、すぐに次の敵へと挑むのだ。
そのおかげもあってか、才蔵は17の首をとり(実際には、22の首をとったが見つからなかったという話もある)、関ヶ原の合戦で一番、敵の首をとった武将となる。

宗義智 2017/11/12(日)追加

宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主。

1568-1615 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)11年生まれ。宗将盛(まさもり)の5男。天正(てんしょう)7年12歳で兄宗義純(よしずみ)の跡をつぎ対馬(つしま)(長崎県)の守護となる。宗義調(よししげ)が後見。16年守護に復帰していた義調の死により再任。豊臣秀吉の朝鮮出兵には小西行長軍の先陣をつとめた。戦後は,徳川家康の命により朝鮮との国交修復につとめ,慶長10年講和を成立させた。対馬府中藩主宗家初代。慶長20年1月3日死去。48歳。初名は昭景。通称は彦三。

南部信直 2017/11/10(金)追加

南部 信直(なんぶ のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将、戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。

1546‐99(天文15‐慶長4)
戦国末期の武将。陸奥国三戸(さんのへ)城主(現,青森県三戸町)。南部氏一族高信の子。1582年(天正10)本家をつぎ三戸城主となる。90年豊臣秀吉より南部の内7郡を安堵される。翌年,九戸政実の乱平定にさいして和賀,稗貫(ひえぬき),志和3郡を加増され,都合10郡,10万石を領す。その後盛岡城(現,岩手県盛岡市)築城に着手するなど近世における盛岡藩の基礎を築く。

平手政秀 2017/11/9(木)追加

平手 政秀(ひらて まさひで)は、戦国時代の武将。織田信秀、信長の2代に仕える。尾張国春日井郡にあった志賀城の城主。

織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。
天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。また三河の安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。
信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃した。享年62。

津軽為信 2017/11/8(水)追加

津軽 為信(つがる ためのぶ、旧字体: 津輕爲信)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。陸奥国弘前藩初代藩主。

没年:慶長12.12.5(1608.1.22)
生年:天文19.1.1(1550.1.18)
戦国末・近世初頭の武将。堀越城主(青森県弘前市)武田守信の子。右京大夫。南部の一族大浦氏が光信のとき大浦城(青森県岩木町)を築き津軽中央進出の足がかりとした。為信は18歳のとき,この伯父大浦城主為則の養子となって就封という。南部氏は郡代を置いて津軽を統治,その郡代補佐であった為信が天正16(1588)年までに南部氏内紛に乗じて津軽を統一。18年小田原に参陣し,豊臣秀吉より津軽領有の承認を得て南部氏より独立。九戸政実の討伐にも参陣。朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた秀吉のもとへ軍勢を派遣。文禄2(1593)年上洛し,正式に津軽4万石の安堵状を得,また近衛家からも牡丹の家紋と藤原姓を名乗ることを許可された。3年大浦城より堀越城へ移る。慶長5(1600)年関ケ原の戦の功により上州大館に2000石を加増,総高4万7000石となる。12年病気で京都滞留中の長男信建を見舞おうとしたが到着前に信建は死去。自らも京都で死没。弘前市華秀寺に葬る。

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