1. まとめトップ

(毎日更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

できるだけ毎日、戦国武将・武士を一人ずつ概略を追加いたします。できない日はごめんなさいm(_ _)m なお、時代的にはこだわらず、平安時代~戦国時代~安土桃山時代~江戸時代からご紹介。徐々に戦国武将一覧ができあがりますので応援して下さい♪(本日の武将・日替わり武将・夏休み自由研究)

更新日: 2018年01月17日

10 お気に入り 17745 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

できるだけ毎日更新したいと思いますが事情により更新できない日もございます。また、数日分をまとめて更新する場合もございます。m(_ _)m

hogehogemanさん

戦国武将を毎日一人ずつ紹介中

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、武田信玄、
上杉謙信、足利尊氏、毛利元就、斎藤道三、浅井長政、
真田信繁、石田三成、伊達政宗、井伊直政、島津義弘、
竹中半兵衛、山本勘助、松永久秀、片倉小十郎、長宗我部元親、
北条氏政、今川義元、朝倉義景、柴田勝家、黒田孝高、
六角承禎、三好長慶、前田利家、加藤清正、本多忠勝、
楠木正成、直江兼続、佐々成政、高山右近、大谷吉継、
大友義鎮、尼子晴久、武田勝頼、山中鹿之助、酒井忠次、
藤堂高虎、細川忠興、佐竹義重、秋山虎繁、小早川秀秋、
山内一豊、福島正則、佐久間信盛、平清盛、源義朝、

飯富虎昌、真田昌幸、荒木村重、宇喜多秀家、中川清秀、
滝川一益、丹羽長秀、大野治長、豊臣秀長、榊原康政、
太源雪斎、池田恒興、諏訪頼重、甘利昌忠、山県昌景、
豊臣秀頼、松平信康、本多正信、安国寺恵瓊、村上義清、
板垣信方、真田信之、小笠原長時、黒田長政、徳川秀忠、
井上之房、龍造寺隆信、森可成、大久保忠教、穴山梅雪、
北畠具教、島左近、九鬼嘉隆、源義仲、足利義政、
服部半蔵、後藤又兵衛、織田信行、前野長康、母里太兵衛、
足利義満、土井利勝、佐々木道誉、源範頼、太田道灌、
北条氏直、細川藤孝、柳生宗厳、足利義昭、高師直、

小西行長、織田有楽斎、吉川広家、筒井順慶、仙石秀久、
足利義詮、源行家、最上義光、池田輝政、古田織部、
宇喜多直家、斎藤利三、北条時政、平忠盛、織田信忠、
北条氏直、春日虎綱、蒲生氏郷、毛利良勝、上杉景勝、
北条高広、毛利勝永、織田信雄、吉川元春、本多作左衛門、
森蘭丸、別所長治、土岐頼遠、浅野長政、服部一忠、
森可隆、北条高広、鳥居強右衛門、小山田信茂、織田信孝、
渡辺半蔵、森坊丸、馬場信春、明石全登、上杉景虎、
長宗我部盛親、北条早雲、京極高次、内藤昌豊、塙団右衛門、
加藤嘉明、北条氏綱、来島通総、木村重成、織田信包、

森忠政、宗義智、陶晴賢、浅野幸長、今川氏真、
片桐且元、村井貞勝、林通勝、北条氏康、森力丸、
石川数正、津軽為信、平手政秀、南部信直、宗義智、
可児才蔵、九戸政実、菅屋長頼、板倉勝重、河尻秀隆、
斯波義銀、北条綱成、塙直政、金森長近、源経基、
平高望、溝口秀勝、兼松正吉、森長可、蜂須賀家政、
平正盛、源為義、毛利輝元、有馬晴信、秋田実季、
堀尾吉晴、中村一氏、足利貞氏、小早川隆景、長束正家、
松平広忠、武田信虎、足利直義、竹中重門、斎藤龍興、
成瀬正成、北条高時、斎藤義龍、結城秀康、武田信繁、
織田信広、徳川義直、源義経、増田長盛、蜂須賀小六、
源義光、大内義隆、戸田康光、内藤家長、落合左兵次、
大久保忠世、松平忠輝

松平忠輝 2018/1/17(水)追加

松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。

1592‐1683(文禄1‐天和3)
江戸前期の大名。幼名辰千代。上総介,越後少将。徳川家康の六男。母は茶阿方(朝覚院)。長沢松平家を継ぎ,1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1602年下総国佐倉5万石,03年信濃国川中島14万石に転じ,10年越後国福島城(1614年より高田城)61万石を与えられ,川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより16年(元和2)改易,伊勢朝熊(あさま)に配流された。

大久保忠世 2018/1/16(火)追加

大久保 忠世(おおくぼ ただよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松平氏(徳川氏)の家臣。三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保忠員の長男。蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。

1532‐94(天文1‐文禄3)
徳川家康の部将。大久保小田原藩祖。通称新十郎。大久保氏の宗家忠俊の弟忠員(ただかず)の嫡男。三河国上和田郷に生まれる。若年より家康の父広忠に仕え,織田氏との合戦に功があった。永禄末年,一手役(ひとてやく)(一軍団を預かる部将)となった。長篠の戦など武田氏との合戦にも戦功多く,遠州二俣城を与えられた。関東入部後,相州小田原で4万5000石の大名となる。

柿崎景家 2018/1/14(日)追加

柿崎 景家(かきざき かげいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後国の戦国大名・長尾氏(上杉氏)の家臣。柿崎城、猿毛城城主。七手組大将の一人。

永正10年(1513年)、越後の国人である柿崎利家の子として生まれたといわれる(生年には異説もある)。

はじめ長尾為景に仕え、為景死後はその子・晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持している。

謙信の下では先手組300騎の大将として重用され、永禄元年(1558年)に春日山城の留守居役を務めている。永禄4年(1561年)の小田原の北条氏攻めにも参加し、直後の甲斐武田氏との第四次川中島の戦いでは先鋒を務め、八幡原の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込んだ。

また、斎藤朝信と共に奉行に任命されて上杉領内の諸役免除などの重要な施策に携わり、元亀元年(1570年)の北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、子の晴家を人質として小田原城へ送るなど、内政や外交面でも活躍している。謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた。

天正2年(1574年)11月22日、病死。

内藤家長 2018/1/12(金)追加

内藤 家長(ないとう いえなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。

1546-1600 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年生まれ。内藤清長(きよなが)の長男。徳川氏の家臣。天正(てんしょう)18年徳川家康の関東入部の際,上総(かずさ)(千葉県)佐貫(さぬき)城主となる。2万石。慶長5年関ケ原の戦いで鳥居元忠(とりい-もとただ)らと山城(京都府)伏見城をまもったが,西軍に敗れて同年8月1日自刃(じじん)。55歳。幼名は金一郎。通称は弥次右衛門。

戸田康光 2018/1/11(木)追加

戸田 康光(とだ やすみつ、? - 天文16年(1547年))は、戦国時代の三河国の武将。渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった。初名は宗光で、松平清康の偏諱を受けて康光と改める。弾正少弼を称する。子に戸田尭光、戸田宣光、戸田重真。

没年:天文16.9(1547)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。三河田原城主戸田政光の子。通称孫四郎,官途名は弾正少弼。名は宗光ともいった。祖父に当たる憲光のとき,戸田氏は今川氏に仕え,また康光の娘真喜姫が松平広忠の後妻に迎えられるなど,松平氏とは近い関係にあった。しかし次第に尾張の織田信秀に接近しはじめ,天文16(1547)年8月には,今川義元のもとに送られるはずだった松平竹千代(家康)一行をあざむいて織田信秀のもとに届け,織田方としての旗幟を鮮明にした。その結果,同年今川の大軍に田原城を攻められ,子尭光と共に討死した。

酒井忠勝 2018/1/10(水)追加

酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第3代将軍・徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。

[生]天正15(1587).三河
[没]寛文2(1662).7.12. 江戸
江戸時代初期の大老。忠利の子。幼名は鍋之助,与七郎。入道して空印と号した。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに徳川秀忠に従って出陣。同 14年讃岐守となり,同 19年下総国で 3000石を領し,元和8 (22) 年 7000石を加増されて深谷城主となった。寛永1 (24) 年老中となり,2万石を加え,同3年武蔵国忍 (おし) 5万石に封じられた。翌4年同国川越で8万石,同9年 10万石を領し,従四位下侍従となり,同 11年には若狭国小浜 (おばま) 12万 3000石に封じられた。同 15年大老となり,翌年左少将に昇任,明暦2 (56) 年致仕した。

大内義隆 2018/1/9(火)追加

大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。

周防国の在庁官人・大内氏の第31代当主 。第30代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟して大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。

1507-1551 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)4年11月15日生まれ。大内義興の長男。周防(すおう),長門(ながと),安芸(あき),石見(いわみ),筑前(ちくぜん),豊前(ぶぜん)の守護。大友氏,少弐(しょうに)氏とたたかい九州北部を掌握する。文学・芸能をこのみ,明(みん)(中国)・朝鮮と交易し,またザビエルに布教の許可をあたえる。天文(てんぶん)20年重臣陶晴賢(すえ-はるかた)の謀反にあい,9月1日長門(山口県)大寧寺で自刃(じじん)。45歳。幼名は亀童丸。

源義光(新羅三郎) 2018/1/7(日)追加

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。

没年:大治2.10.20(1127.11.25)
生年:寛徳2(1045)
平安後期の武将。頼義と平直方の娘の子。義家,義綱の同母弟。新羅明神で元服し新羅三郎と号す。後三年の役で寛治1(1087)年,義家の救援に無断で下向,左兵衛尉を解官される。以後,中央での目立った活躍はなく官職も刑部丞にとどまるが,『尊卑分脈』は天仁2(1109)年に発生した源義忠暗殺事件を義光の陰謀とする。一方,嘉承2(1107)年,常陸国で平重幹と共に甥の源義国と争い,長男義業は同国の豪族佐竹氏の祖となる。このほか,武田,小笠原氏など各地の有力豪族も子孫。園城寺とも関係が深く,近江に所領を有す。義光は弓馬とともに笙にも優れ,後三年の役の東下に際し,秘曲の伝授にまつわる逸話を残している。

蜂須賀小六 2018/1/6(土)追加

1 2 3 4 5 ... 22 23