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(毎日更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

できるだけ毎日、マイナー~メジャーな戦国武将や武士を一人ずつ概略を追加いたします。できない日はごめんなさいm(_ _)m なお、時代的にはこだわらず、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代からご紹介。(本日の武将)

更新日: 2017年06月25日

hogehogemanさん

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大友義鎮(大友宗麟) 2017/6/25(日)

大友 義鎮 / 大友 宗麟は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。

(1530―1587)
戦国大名。
大友氏20代義鑑(よしあき)の長子として豊後府内(ぶんごふない)(大分市)に生まれる。
幼名塩法師丸(しおほうしまる)。
元服して義鎮(よししげ)。
1550年(天文19)家督を継ぐ。
62年(永禄5)怡雲(いうん)(宗悦(そうえつ))和尚(おしょう)について剃髪(ていはつ)し瑞峯(ずいほう)宗麟となり、以後三非斎(さんぴさい)、圓斎(えんさい)、府蘭(ふらん)、宗滴(そうてき)と称す。
この間、来日中のフランシスコ・ザビエルと接してキリスト教布教を保護し、自らも78年(天正6)受洗してドン・フランシスコの洗礼名を受けた。
領内にはポルトガル船の来航もあり、朝鮮貿易も行った。
82年には大村氏、有馬氏とともに天正遣欧使節をローマ法王のもとに送った(宗麟の発意であったかについては疑いがもたれている)。
一方、九州6か国(豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご))の守護職を手中に収めて大友氏の最盛期をもたらした。

しかし、1563年臼杵(うすき)の丹生島(にうじま)城に移り、府内に長子義統(よしむね)を置いて二頭政治となり、78年(天正6)薩摩(さつま)の島津氏と日向(ひゅうが)耳川(みみかわ)で合戦して大敗した。
これ以後家臣団の分裂、動揺が激化し、86年島津勢が豊後に進攻するに及んで、宗麟自ら大坂城に赴き豊臣(とよとみ)秀吉の救援を求めた。
翌87年秀吉の九州平定が行われ、その所領は義統に豊後を、宗麟に日向を与える旨伝えられた。
しかし宗麟はこれを辞退し、同年5月津久見(つくみ)で病死した。

大谷吉継(大谷刑部) 2017/6/24(土)

大谷 吉継は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部の通称でも知られる。

没年:慶長5.9.15(1600.10.21)
生年:永禄2(1559)
安土桃山時代の武将。
豊後の戦国大名大友宗麟の家臣大谷盛治の子といわれているが,近江の出身とする説もある。
通称紀之介。
刑部と称し,名は吉隆ともいった。
いつから豊臣秀吉に仕えるようになったかは不明で,はじめ小姓として秀吉の信任を受けたといわれている。
天正11(1583)年の賤ケ岳の戦では七本槍に次ぐ戦功をたて,同13年従五位下・刑部少輔に叙任されている。
しかし武功派タイプではなく吏僚派タイプで,九州攻めには石田三成と共に兵站奉行を務め,のち,やはり三成らと検地奉行などを務めた。
三成とは特に仲がよく,これが後年の伏線となっている。
同17年,越前敦賀城主となり,5万石の大名となった。
その後,小田原攻めとそれに続く奥羽の平定にも力を発揮し,また,文禄の役には石田三成と共に船奉行を務めた。
さらに督戦の奉行として渡海し,明軍との和平交渉にも当たっている。

秀吉死後,徳川家康の天下統一事業に協力する姿勢を示し,慶長5(1600)年7月には家康の会津攻めに従うため敦賀を発ち,途中使者を佐和山城の石田三成に遣わし,三成の子重家の同道を求めたが,三成はかえって吉継を佐和山城に招き,はじめて家康を討つ意思を伝えている。
吉継は思いとどまるよう説得したが,三成の意思の固いことを知り,長年の友誼から行動を共にすることを決意し,そのまま兵を敦賀にもどし,家康方の前田利長軍と戦ってこれを破った。
家康が下野小山で三成らの挙兵を知り,会津攻めを中止して西上すると知った吉継は,敦賀から関ケ原に向かい,かねてから疑いを抱いていた小早川秀秋に備えるため松尾山の北麓藤川台に自ら布陣している。
9月15日の戦闘のとき,一度は東軍藤堂高虎,京極高知らの攻撃を退けたが,東軍に内応した小早川秀秋軍に攻められ,奮闘の末,自刃して果てた。

病のため陣中でも面体を包んだと伝えられ,「関ケ原合戦図屏風」にも頭を白い頭巾でつつんだ姿で描かれている。

高山右近 2017/6/23(金)

高山 右近は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。カトリック教会の福者。 父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

ローマ法王が認める「福者」としても有名である。

1552?―1615)
安土(あづち)桃山時代の武将、キリシタン大名。
大和(やまと)国(奈良県)沢城主高山飛騨守(ひだのかみ)の長子。
摂津(大阪府)高山に生まれる。
幼名彦五郎。
友祥(ともなが)、長房と称し、右近允(うこんのじょう)を名のる。
飛騨守は初めキリシタン宗の撲滅を図ったが、かえって入信。右近も1564年(永禄7)受洗。
霊名(れいめい)ジュスト。
68年和田惟政(これまさ)に従い摂津国(大阪府)高槻(たかつき)を預ったが、71年(元亀2)荒木村重(むらしげ)が和田氏を討ち、73年(天正1)右近は村重の下に高槻城主となった。
78年村重が織田信長に叛(はん)した際、右近は和平工作を進めたが、信長はパードレ(伴天連(バテレン))らを軟禁、右近に帰順を迫った。
質を荒木氏に送っていた彼はキリシタン教会の危機を救うため、出家の決意で信長のもとに赴いたが、かえって高槻領を安堵(あんど)され、教会も平穏を保つことができた。

本能寺の変には山崎合戦に先陣。
その後、豊臣(とよとみ)秀吉に従い各地に転戦、武功をたて、85年明石(あかし)6万石に封ぜられた。
その間、高槻はじめ安土、京都、大坂などの教会を援助。
領内にセミナリオ(神学校)や慈善事業をおこすなど、キリシタンの指導的人物として仰がれた。
小西行長(ゆきなが)、黒田孝高(よしたか)父子などキリシタン大名の過半は、直接間接彼が信仰に導いたものである。
1587年7月、伴天連追放令に伴い、キリシタンの代表的人物として除封されたが、行長ついで前田利家(としいえ)の保護を受け、加賀藩の客老となり藩政にも参与、また金沢城修築、高岡城築造にあたった。
千利休(せんのりきゅう)門下の茶人としても知られ、南坊(みなみのぼう)、等伯(とうはく)と号した。
1614年(慶長19)幕府の禁教発令に伴いマニラに追放されたが、40日ほどで熱病に冒され、15年2月3日(慶長20年正月6日)殉教の死を遂げた。
マニラは市をあげて信仰の勇者をたたえ、9日間にわたり盛大なミサを執行した。

出典vpoint.jp

式では、右近の遺品とされるチョッキの一部が入った銀色の容器が運び込まれ、国内外の信者ら約1万人が祈りをささげた。ローマ法王代理のアンジェロ・アマート枢機卿が「高山右近を福者の列に加える」とする法王書簡を朗読。長崎市の聖画家、三牧樺ず子さんが描いた右近の肖像画を会場で投影。

佐々成政 2017/6/22(木)

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。

没年:天正16.閏5.14(1588.7.7)
生年:天文5(1536)
安土桃山時代の武将。
天文8(1539)年生まれとする説もある。
成宗(盛政)の第5子。
通称は与左衛門,内蔵助,陸奥守。
尾張国(愛知県)出身,織田信長に仕える。
信長が弟信行を攻めた稲生合戦や桶狭間の戦,美濃経略などに戦功をあげ,永禄10(1567)年には黒母衣衆筆頭となる。

天正1(1573)年,朝倉義景攻めの先陣を務め,同3年5月の長篠合戦では鉄砲隊を指揮。
同8月,越前一向一揆平定の功により,越前府中上2郡を与えられる。
同8年,越中に入国して守山城に拠る。
翌9年越中新川・礪波両郡3万石を与えられ,10年,神保長住を追放して富山城に入り越中一国を支配。
そのころ越前の柴田勝家の与力にあったため本能寺の変後は反豊臣秀吉陣営にくみするが,同11年の賤ケ岳の戦後秀吉に降伏。
秀吉より越中一国を安堵され,同12月従五位下陸奥守に叙任。
しかしまもなく織田信雄・徳川家康に接近,同12年の小牧・長久手の戦に際しては,秀吉との和議を不満として,家康に会うため富山から立山連峰・更更越で浜松に赴いたことは有名。
その後,同13年8月に秀吉の征討を受けて降伏,臣従を誓う。
同14年従四位下侍従に叙任。
同15年秀吉の九州征討に従軍,戦後肥後一国を与えられて宇土城,次いで隈本城に入るが,国人一揆の蜂起により失政の咎を受け,翌年摂津尼崎で切腹した。

直江兼続 2017/6/21(水)

直江 兼続は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。

有名な「愛」の字の兜と具足

没年:元和5.12.19(1620.1.23)
生年:永禄3(1560)
安土桃山・江戸前期の武将。越後国与板城主樋口惣右衛門兼豊の子。
幼名は与六,名は重光ともいった。
はじめ上杉謙信に仕え,その死後,子の景勝に仕え,天正10(1582)年,名門直江の名跡を継いで直江兼続となり,景勝の側近として「執政」などと呼ばれた。
早くから豊臣秀吉に接近し,秀吉と景勝の間をとりもち,同16年,景勝が従三位に進んだとき,兼続も従五位下・山城守に叙任されている。
秀吉の側近たちとも交流があり,慶長3(1598)年の景勝の越後から会津への転封に際しては,石田三成と一緒になってこれを推進した。
主君景勝が会津120万石のとき,兼続は米沢城主として30万石を知行した。

楠木正成 2017/6/20(火)

楠木 正成とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた。

[没]延元1=建武3(1336).5.25. 湊川
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。
河内の土豪。
正成以前の楠木氏については不明。
元弘1=元徳3 (1331) 年,後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し,河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。
翌年千早城を築いて籠城し,幕府軍の猛攻に耐え,諸国の反幕勢力の挙兵を促した。
建武中興の際その功により,河内,和泉の守護,河内の国守に任命された。
建武2 (35) 年足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと,新田義貞らとともにこれを討ち,いったんは撃退した。
翌延元1=建武3 (36) 年尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際,摂津湊川にこれを迎撃して敗死。
明治になって湊川神社に祀られ,正一位を追贈された。

本多忠勝(本多平八郎) 2017/6/19(月)

生年月日: 1548年3月17日
生まれ: 三河国

徳川家康に仕えた武将。
松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。
代々平八郎を通称。
父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。ときに忠勝は2歳。
13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。
84年(天正12)長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。
「徳川四天王」の一人とされる。
88年従(じゅ)五位下中務大輔(なかつかさたゆう)。
90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。
1601年(慶長6)伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。
慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。

加藤清正 2017/6/18(日)

加藤 清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助。熊本では清正公さんと呼ばれて親しまれている。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。

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