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(毎日更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

できるだけ毎日、戦国武将・武士を一人ずつ概略を追加いたします。できない日はごめんなさいm(_ _)m なお、時代的にはこだわらず、平安時代~戦国時代~安土桃山時代~江戸時代からご紹介。徐々に戦国武将一覧ができあがりますので応援して下さい♪(本日の武将・日替わり武将・夏休み自由研究)

更新日: 2017年08月17日

hogehogemanさん

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戦国武将を毎日一人ずつ紹介中

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、武田信玄、
上杉謙信、足利尊氏、毛利元就、斎藤道三、浅井長政、
真田信繁、石田三成、伊達政宗、井伊直政、島津義弘、
竹中半兵衛、山本勘助、松永久秀、片倉小十郎、長宗我部元親、
北条氏政、今川義元、朝倉義景、柴田勝家、黒田孝高、

六角承禎、三好長慶、前田利家、加藤清正、本多忠勝、
楠木正成、直江兼続、佐々成政、高山右近、大谷吉継、
大友義鎮、尼子晴久、武田勝頼、山中鹿之助、酒井忠次、
藤堂高虎、細川忠興、佐竹義重、秋山虎繁、小早川秀秋、
山内一豊、福島正則、佐久間信盛、平清盛、源義朝、

飯富虎昌、真田昌幸、荒木村重、宇喜多秀家、中川清秀、
滝川一益、丹羽長秀、大野治長、豊臣秀長、榊原康政、
太源雪斎、池田恒興、諏訪頼重、甘利昌忠、山県昌景、
豊臣秀頼、松平信康、本多正信、安国寺恵瓊、村上義清、
板垣信方、真田信之、小笠原長時、黒田長政、徳川秀忠、

井上之房、龍造寺隆信、森可成、大久保忠教、穴山梅雪、
北畠具教、島左近、九鬼嘉隆、源義仲、足利義政、
服部半蔵、後藤又兵衛、織田信行、前野長康

前野長康 2017/8/17(木)追加

前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。

1528-1595 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。
前野宗康の次男。
前野雄吉(かつよし)の弟。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)につかえる。
墨俣(すのまた)築城,四国攻め,小田原攻めなどでの功により,天正(てんしょう)13年但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)6万石の城主となった。
謀反の罪にとわれた豊臣秀次の事件に連座し,文禄(ぶんろく)4年10月19日子の景定とともに切腹。
68歳。
尾張(おわり)(愛知県)出身。
通称は将右衛門,但馬。

織田信行 2017/8/16(水)追加

織田 信行(おだ のぶゆき)は、戦国時代の武将。名は一般に信行と流布しているが(『織田系図』)、自己発給文書では信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)しか確認できていない。なお信行の名以外では信勝で呼ばれる方が多い。通称は勘重郎(勘十郎)。尾張末森城主。
父は織田信秀、母は土田御前で織田信長の同母弟にあたる。妻には春日刑部の娘と和田備前守の娘がいる。子には津田信澄、織田信兼などがいる。

?-1557/58 
戦国時代の武将。
織田信秀の子。
織田信長の弟。
尾張(おわり)(愛知県)末森城主。
弘治(こうじ)2年信長の家老林秀貞,柴田勝家らにかつがれて信長とたたかうが大敗し,降伏する。
弘治3年(一説に永禄(えいろく)元年)11月2日清洲城にさそいだされ殺された。
初名は信勝。
通称は勘十郎。

後藤又兵衛 2017/8/15(火)追加

後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。

没年:元和1.5.6(1615.6.2)
生年:永禄3(1560)
戦国末・江戸前期の武将。
名は基次,通称は隠岐守。
播磨国の在地領主別所氏の家臣後藤新左衛門の子。
黒田孝高,長政父子に仕え,文禄1(1592)年の豊臣秀吉の朝鮮出兵や慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際しては長政に従って出陣。
関ケ原の戦の行賞で長政が筑前に移封されるや,基次も1万6000石の知行を給されたが,のち長政と不和となり謀反の嫌疑をかけられ牢人となる。
19年の大坂冬の陣では豊臣秀頼に招かれて大坂城に入り,籠城軍の大将として活躍したが,翌年夏の陣に河内道明寺で戦死した。

服部半蔵 2017/8/14(月)追加

服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。

[生]天文11(1542).伊賀
[没]慶長1(1596).11.4. 江戸?
江戸時代初期の幕臣。
名,正成。
父保長に次いで徳川家康に仕え,16歳で三河宇土城の夜討に功を立てた。
天正 10 (1582) 年6月本能寺の変に際し,明智軍に退路を断たれた家康を伊賀者,甲賀者を使って無事岡崎城へ送り届けた。
家康はこの時の伊賀者 300人を召しかかえ,「伊賀同心」として半蔵に所属させた。
以来戦功多く,同 18 (90) 年小田原の陣後,遠江に 8000石の領地を得たが,家康の関東移封とともに江戸に移り,与力 30騎,伊賀同心 200人を支配,禄高 8000石の旗本となった。

足利義政 2017/8/13(日)追加

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

1435-1490 室町幕府8代将軍。在職1449-74。
永享7年1月2日生まれ。足利義教(よしのり)の子。母は日野重子(しげこ)。文安6年将軍職につくが,畠山(はたけやま)持国,細川勝元ら宿老中心の政治をきらい遊興にふける。寛正(かんしよう)5年弟義視(よしみ)を後嗣にさだめたが,妻日野富子が義尚(よしひさ)を生んだため,後継者争いがおこり,応仁(おうにん)の乱に発展。乱中の文明5年義尚に将軍職をゆずり,のち京都東山にうつって東山殿とよばれる。銀閣寺,水墨画,能楽,生け花などに代表される東山文化をうみだした。延徳2年1月7日死去。56歳。幼名は三春。初名は義成。法号は慈照院。

源義仲(木曽義仲) 2017/8/12(土)追加

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。

[生]久寿1(1154)
[没]寿永3(1184).1.20. 近江,粟津
平安時代末期の武将。義賢の次男。母は遊女某。幼名,駒王丸。2歳のとき父が源義平に殺されたのち,乳母の夫中原兼遠に木曾で育てられ,木曾次郎と称した。勇猛で射に長じた。治承4 (1180) 年以仁王 (もちひとおう) の令旨に応じて挙兵し,信濃を制して上野に進出したが,源頼朝との衝突を避けて信濃に帰り,越後の豪族城氏を破って北陸地方に進出。寿永2 (83) 年越中礪波山に平維盛の率いる追討軍を破り,追撃して京都を占領,左馬頭兼越後守,さらに伊予守に任じられたが,軍隊に統制がなく京都の人心を失い,後白河法皇に平家追討を命じられて西下。その間,頼朝に義仲追討の命が下った。これを知った義仲は急ぎ帰京し,朝廷を改造するとともに,法皇に頼朝追討の院宣を強要し,同3年征夷大将軍となったが,源義経,範頼の率いる追討軍のため近江粟津で敗死。このときの巴御前の奮戦は有名で,彼女はのち尼となり,越後友松に住んだという。

九鬼嘉隆 2017/8/11(金)追加

九鬼 嘉隆(くき よしたか、旧字体: 九鬼嘉隆)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5,000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。

[生]天文11(1542).志摩
[没]慶長5(1600).10.12. 紀伊
安土桃山時代の武将。
定隆の次男。
甥澄隆の死後,家を継いだ。
右馬允,大隅守。
代々志摩国内田城に住し,初めは北畠氏に仕えたが,永禄 12 (1569) 年,織田信長が北畠具教を攻めるや,信長に款を通じ,以来信長の麾下となり,水軍を率いてこれに従った。
天正2 (74) 年伊勢長島の一向一揆,同5年紀伊雑賀の一向一揆を海上から攻撃し,また翌6年の石山本願寺との合戦に際しては,本願寺側の援軍である毛利の水軍と対戦してこれを打ち破った。
信長の死後,豊臣秀吉に仕え,四国,九州の両役,文禄・慶長の役に際しても水軍の将として軍功があり,鳥羽城主となり,3万 5000石を領した。
秀吉の死後,徳川家康と和せず,関ヶ原の戦いには,その子守隆が東軍に属したが,嘉隆は西軍に属して敗れた。
戦後家康に許されたが,紀伊で自殺した。

島左近(島清興) 2017/8/10(木)追加

島清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
筒井氏、石田三成の家臣。
通称は左近で、一般には島左近の名で広く知られる。

?‐1600(慶長5)
織豊政権期の武将。
名は清興。
勝猛,友之とする書もある。
筒井氏に属していたが,のち,石田三成の股肱(ここう)の臣となる。
治部少に過ぎたるものが二つあり,島の左近と佐和山の城の落首は著名である。
1592年(文禄1)朝鮮に出兵。
1600年9月の関ヶ原の戦には,14日の徳川家康到着に動揺する西軍を鼓舞するため先鋒中村一栄,有馬豊氏の軍をさんざんに破った。
翌15日の決戦には,三成の前衛の指揮をとり勇戦力闘のうちに戦死した。

石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。
これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であった。
もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説も有力であるが、それでも破格の待遇であったことには違いがない。

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ミツカンの「かんたん黒酢」がおいしいことがわかりました(^◇^)