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(毎日更新)今日のお城・日本のお城を毎日一城ずつ御紹介

お城を毎日掲載。更新できない日はご勘弁を。名古屋城、大阪城、五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、清洲城、浜松城、駿府城、松本城、彦根城、松前城、松山城、金山城、高知城、鳥取城、古宮城、小牧山城、田中城、他多数。(本日のお城・日替わり・夏休み自由研究)

更新日: 2017年11月20日

hogehogemanさん

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お城・城跡の掲載リスト

江戸城、名古屋城、那古野城、勝幡城、大阪城(大坂城)、
五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、
丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、
清洲城、浜松城、駿府城、小田原城、弘前城、
松本城、彦根城、松前城、岡城、愛媛松山城、
新田金山城、高知城、鳥取城、弘前城、古宮城、
小牧山城、田中城、高根城、一乗谷朝倉氏遺跡、岐阜城、
鬼ノ城、安土城、高島城、讃岐高松城、大高城、
松代城、上田城、高知城、墨俣城、赤木城、
篠山城、備中松山城、根城、鹿児島城、盛岡城、
仙台城、沼田城、名胡桃城、石垣山城、備中高松城、
松江城、苗木城、和歌山城、宇和島城、岩櫃城、
龍岡城、波賀城、真弓山城(足助城)、丸亀城、
盛岡城、多賀城、近江坂本城、佐和山城、白河小峰城、
戸石城(砥石城)、鳥越城、久保田城、山形城、鞠智城、
二条城、能島城、二本松城、伊丹城(有岡城)、高槻城、
会津若松城(鶴ヶ城)、岸和田城、吉田城、甲府城、鉢形城、
小諸城、洲本城、中城城、長浜城、浪岡城、
高天神城、掛川城、七戸城、知覧城、九戸城、
志布志城、志波城、姫松館、佐土原城、大給城、

岩切城、都於郡城、檜山城、田丸城、佐伯城、
脇本城、臼杵城、畑谷城、八代城、長谷堂城、
猪苗代城、佐敷城、向羽黒山城、日野江城、久川城
原城、小幡城、勝尾城、広島城、笠間城、
牛久城、岸岳城、唐沢山城、久留米城、曳馬城、
烏山城、長野城、松井田城、岩崎城、萩城、
津城、上山城、福井城、柳川城、桑名城、
小浜城(福井)、淀城、杉山城、朝倉城(高知)、大和郡山城、
高崎城、古河城、宇都宮城、長岡城、新庄城、
西尾城、亀山城(丹波)、土佐中村城、肥前鹿島城、
諏訪原城、横須賀城、飯山城、沼津城、三田城、
大田原城、鳥羽城、杵築城、丹後田辺城、久留里城、
尼崎城、飛騨広瀬城、村松城、沓掛城、加納城、
秋月城、田原城、安中城

■このうち↑現存する天守をもつお城(12城)
弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、
松江城、備中松山城、丸亀城、愛媛松山城、宇和島城、高知城

■天守が国宝指定されているお城(5城)
松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城

安中城 2017/11/20(月)追加

安中城(あんなかじょう)は、現在の群馬県安中市安中にある戦国時代に築かれた日本の城である。

安土桃山時代になり徳川家康が関東の地に入封すると安中城も本格的に築城をしなおされ、井伊家がまず入封した。

1559年(永禄2年)、上野国碓氷郡安中に安中氏の安中越前守忠政によって築城された。
安土桃山時代になり徳川家康が関東の地に入封すると安中城も本格的に築城をしなおされ、井伊家がまず入封した。
安中藩主としては井伊家2代(3万石)、水野家2代(2万石)、堀田家1代(2万石→4万石)、板倉家2代(2万石)、内藤家2代(2万石)、再び板倉家6代(2万石→3万石)で板倉主計守勝殷の時に明治維新を迎えている。 歴代藩主の中で著名なのは堀田正俊と板倉勝清であり老中を勤めている。 遺構としては専門家の検証はなされていないが、市内熊野神社に城門が1棟、民家に城門が都合それぞれ2棟、そして市内民家に武器庫が現存している。

田原城 2017/11/17(金)追加

田原城(たはらじょう)は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の日本の城。

江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁であった。

文明12年(1480年)ころに戸田宗光(全久)によって築城され、戸田氏の三河湾支配の拠点となった。 16世紀になると近隣の戦国大名の拡大に伴って、はじめは松平氏に属し、さらに今川氏に転じた。天文16年(1547年)、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康。康光は義母の父に当たる)を護送する任を受けるも、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送ってしまったため今川義元の怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城、城主康光も戦死した。
その後今川氏に属する城代が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入った。さらに天正18年(1590年)、家康が関東へと移封すると代わって吉田城に入封した池田輝政の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に在城した。輝政の統治期に、石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられる。

江戸時代になると、田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成した。はじめ田原戸田家の支族、戸田尊次が入り、その後寛文4年(1664年)に三宅氏が1万2千石で入封、そのまま明治維新を迎えるまで200年強支配した。三宅氏は、現在、最高裁判所の別名の三宅坂で名を残す。 廃藩置県後の明治5年(1872年)、他の多くの城と同様に田原城の建築物も取り壊された。

秋月城 2017/11/16(木)追加

秋月城(あきづきじょう)は、福岡県朝倉市野鳥にあった日本の城である。

概要
中世・戦国時代の古処山城の麓にあった秋月氏の館跡を利用して築かれた平城で、福岡藩の支藩秋月藩の藩庁であり、黒田氏が居城していた。一筋に掘られた堀と石垣を築き二重櫓や平櫓を5基建て並べていた。
明治期に廃城となり払い下げられた後、現在跡地には黒田長興を祀った垂裕神社が建てられている。堀、石垣、裏門であった長屋門、旧大手門である黒門が垂裕神社の神門として移築され現存する。
1203年(建仁3年) - 秋月種雄が秋月城を築城。
秋月氏16代種実の時代、大友宗麟に何度か攻められるも、毛利元就の援軍もあり撃退、秋月氏は最盛期を迎える。しかし1587年の九州征伐に乗り出した豊臣秀吉に敗れ、秋月氏は日向国高鍋に移封される。これにより、秋月城は廃城となる。
1624年(寛永元年) - 福岡藩主黒田長政の三男、黒田長興が福岡藩2代忠之より夜須・下座・嘉麻の範囲で5万石を分封され、長興は、九州征伐以降廃城となっていた秋月城を大幅に改修し、陣屋を置く。以後、黒田氏12代が明治まで治める。

加納城 2017/11/15(水)追加

加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内にあった日本の城である。

徳川家康による天下普請によって築かれた平城で、江戸時代には加納藩藩主家の居城となった。城跡は加納城跡(かのうじょうあと)として国の史跡に指定されている。

加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約550メートル、東西約400メートル)であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、少なくとも北堀は障子堀であった。外堀は東側が荒田川、北側が清水川、西側が長刀堀であり、南側の外堀は加納中学校付近にあった。主要な部分は本丸を中心に、東に二ノ丸、北に厩曲輪・三ノ丸、南に大藪曲輪があった。この城の石垣には加工するにはあまり適さないチャートが使われている。
城下町・加納は、東に配置された武家地と、北側にある中山道53番目の宿場である加納宿。

沓掛城 2017/11/14(火)追加

沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛(現・愛知県豊明市沓掛町)にあった日本の城。

旧記には沓懸城とも書かれている。

沓掛の地は、北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する場所にあり、交通の要衝といってよく、その抑えとして古くから城館があったとしてもおかしくはない地形である。沓掛城の存在がおぼろげながら現れるのは、正中2年(1325年)、正中の変を経た後醍醐天皇が、沓掛の住人近藤宗光を召しだしたという記録である。また、応永年間(1394年 - 1428年)には城が築かれ、築城者は藤原義行との説もある。近藤宗光と藤原義行との関係は定かではないが、室町時代を通じ、近藤氏が沓掛城主となっていたことは確かである。戦国時代に入り、9代目の近藤景春は松平広忠の家臣となっていた。天文10年(1541年)頃より尾張国中に織田信秀の勢力が強くなり、しばしば三河へ出兵するようになると、近隣の土豪とともに信秀に追従した。しかし、天文20年(1551年)の信秀死後は二転して、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川義元の傘下に入った。

永禄3年(1560年)、駿河・遠江・三河の兵約2万5千の大軍を率いた今川義元は、5月18日(新暦6月11日)、池鯉鮒を出立して沓掛城に入った。この時の城主は近藤景春であった。ここで義元は軍評定を開き、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったものと思われる。翌19日朝、義元は本隊を従え沓掛城を出発した。一説にはこの時、義元は落馬し、側近があわてて輿に乗り換えさせたという。その後、義元は大高道を通って桶狭間に入り、運命の桶狭間の戦いに遭遇するのである。
城主近藤景春は沓掛城に戻り、刈谷城攻めを行ったりしたが、5月21日、織田勢により城攻めを受け落城、景春は討死して近藤氏による支配は終わった。
変わって城主になったのは、桶狭間の戦いで勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた簗田政綱(簗田出羽守)であった。天正3年(1575年)、簗田政綱は加賀天神山城主となって去り、その後は織田信照、川口宗勝が城主を勤めた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて川口宗勝は西軍に参陣、敗戦後捕らえられて伊達政宗にお預けとなった。ここで沓掛城は収公され廃城となった。

村松城 2017/11/13(月)追加

村松城(むらまつじょう)は、かつて新潟県五泉市にあった日本の城。

上杉氏が越後国を統治していた時代に館があったと伝えられる。

上杉氏が越後国を統治していた時代に館があったと伝えられる。寛永16年(1639年)に村上藩主(村上城主)だった堀直竒の次男・堀直時が蒲原郡3万石を分封され、その後の正保元年(1644年)に堀直吉によって陣屋が築かれた上で城下町が形成された。嘉永3年(1850年)九代藩主の堀直央が城主格拝命したことにより大改築が行われた。東西約240メートル、南北約330メートル。
1868年の戊辰戦争で奥羽列藩同盟に加盟した村上藩によって自ら火をかけられた。1872年の廃藩置県で村松県庁舎が置かれたが、県が新潟県に吸収合併された後に土地は払下げされた。1979年から1984年にかけて村松町によって土地が買収されたのちに郷土資料館と民具資料館がつくられ1987年から村松城跡公園となっている。公園には蒲原鉄道の実際の車両も展示されている。 近年発見された城郭絵図『御普請方絵図』、『山田岩蔵覚書絵図』、『御目付方御用手控』、『御次勤向覚』などの資料により百分の一の本丸御書院、二の丸南御殿の模型が制作された。

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ミツカンの「かんたん黒酢」がおいしいことがわかりました(^◇^)