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(毎日更新)今日のお城・日本のお城を毎日一城ずつ御紹介

お城を毎日掲載。更新できない日はご勘弁を。名古屋城、大阪城、五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、清洲城、浜松城、駿府城、松本城、彦根城、松前城、松山城、金山城、高知城、鳥取城、古宮城、小牧山城、田中城、他多数。(本日のお城・日替わり・夏休み自由研究)

更新日: 2017年07月25日

hogehogemanさん

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お城・城跡の掲載リスト

江戸城、名古屋城、那古野城、勝幡城、大阪城(大坂城)、
五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、
丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、
清洲城、浜松城、駿府城、小田原城、弘前城、
松本城、彦根城、松前城、岡城、愛媛松山城、

新田金山城、高知城、鳥取城、弘前城、古宮城、
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篠山城、備中松山城、根城、鹿児島城、盛岡城、

仙台城、沼田城、名胡桃城、石垣山城、備中高松城、
松江城、苗木城、和歌山城、宇和島城、岩櫃城、
龍岡城、波賀城、真弓山城(足助城)

真弓山城(足助城) 2017/7/25(火)追加

真弓山城(まゆみやまじょう)は三河国加茂郡足助庄(現・愛知県豊田市足助町)の真弓山(標高301m)にあった日本の城。

現在では「城跡公園足助城」として整備・公開されている。

「足助城」「松山城」「足助松山の城」などと呼ばれ、かつては足助氏の築いた足助七屋敷の1つと推測されていたが、後述の発掘調査で足助氏の時代の遺構が検出されなかったことなどから、現在では戦国時代にこの地を治めた足助鈴木家の本城であったと考えられている。
築城時期は不明。
大永5年(1525年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹・久を2代鈴木重政の嫡子・重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っている。
その後は離反帰服を経て、永禄7年(1564年)に松平家康に攻められたのちは完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦った。
天正18年(1590年)、家康の関東入国に従って鈴木氏も足助を離れ、真弓山城は廃城となった。

波賀城 2017/7/24(月)追加

波賀城史跡公園 (はがじょうしせきこうえん)は、兵庫県宍粟市波賀町上野にある公園(日本の城跡)。

波賀城は弘長年間(1261年 - 1263年)に芳賀七郎が築城し13世紀中頃から戦国時代末期まで播磨国の中村氏が城主として拡張した山城で、因幡街道と千種を結ぶ街道を眼下に望む独立峰の城山(標高458m)の山頂に位置する。
当史跡公園は、宍粟郡波賀町が波賀城跡を1990年(平成2年)から開始した発掘調査と史跡公園としての整備事業により、誕生した。山麓から山頂の城郭に至る遊歩道が造られ、城郭内には二層櫓、冠木門などが復元された。二層櫓は内部を歴史資料館「波賀城学習資料館」として公開しており、夜間にはライトアップされる。

龍岡城(龍岡五稜郭) 2017/7/23(日)追加

龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市田口にある日本の城跡。
幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。

日本に二つある五芒星形の西洋式城郭のうちの一つであり、もう一つの西洋式城郭である函館の五稜郭との対比から龍岡五稜郭、あるいは桔梗城とも呼ばれている。
国指定の史跡。

長野県佐久市にあった西洋式の城郭。
江戸時代末期に龍岡藩の藩庁が置かれていた城。
国指定史跡。
五稜郭(北海道函館市)とともに日本に残る五芒星型の西洋式城郭の一つだが、五稜郭よりも小ぶりの城である。
この城は、幕末の動乱期に龍岡を飛び地として領有していた三河奥殿藩(愛知県岡崎市)の藩主の松平乗謨(大給恒)が同地に藩の拠点を移すために幕府の許可を得て1863年(文久3)に築城を開始し、1867年(慶応3)に完成した。
開明派であった乗謨は、築城に際してフランスの稜堡の技術を取り入れて城を築いたが、同藩は陣屋格で城を持つ資格を有していなかったため、天守閣ほか防御施設をつくることができず、内郭の中央に藩主宅と政庁を設け、五芒星の凹部に正門、通用門、非常口の門を設けた。
現在、同城は市立田口小学校の敷地などになっているが、稜堡式の石垣や水堀のほか、同小学校の校庭脇に櫓(やぐら)(御台所)が残っている。

岩櫃城 2017/7/22(土)追加

岩櫃城(いわびつじょう)は、現在の群馬県吾妻郡東吾妻町にあった日本の城(山城)。岩櫃山の東側に位置した。

真田昌幸は武田勝頼に岩櫃城で再起を果たすよう勧めたが受け入れられなかった

群馬県吾妻郡東吾妻町にあった山城(やまじろ)。
断崖絶壁の岩櫃山(標高802m)の東の山腹を城域とする。
鎌倉時代に一帯を治めた吾妻太郎助亮が築城したとする伝承があるが、築城年および築城主はわかっていない。
室町時代中期には、南朝方の攻撃で戦死した吾妻行盛(鎌倉時代の吾妻氏とは異なるため、後期吾妻氏と呼ばれる)の遺児千王丸が斎藤梢基に庇護され、のちに千王丸は山内上杉氏の偏諱(へんき)を受けて斎藤憲行を名乗った。
この斎藤憲行に始まる斎藤氏6代の時代に岩櫃城が築かれたとする説が有力である。
ただし、『加沢記』には1405年(応永12)に、越前国(福井県)大野郡の斎藤基国の子憲行がこの地に入部して岩櫃城を築いたと記述されている。
戦国時代、城主の斎藤憲広は越後の上杉氏に属して勢力を拡大したが、1561年(永禄4)から武田信玄傘下の国人の真田幸隆の攻撃や工作を受けて、1563年(永禄6)に家臣の内応により落城、憲広は越後に逃走。城は1565年(永禄8)に落城、真田氏が岩櫃城主となった。その後、沼田城が真田氏に攻略されると、沼田城の支城として使われた。

武田氏が滅亡する直前、真田昌幸は武田勝頼に岩櫃城で再起を果たすよう勧めたが受け入れられなかったとされる。
その後、真田氏は豊臣秀吉の大名となり、江戸幕府が開かれた後も藩として存続した。
1615年(元和1)、岩櫃城は一国一城令により廃城・破却された。

宇和島城 2017/7/21(金)追加

宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城である。

江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年(昭和12年)指定)。

古くは丸串(まるぐし)城といい、典型的な平山城(ひらやまじろ)である。
941年(天慶4)藤原純友(すみとも)の乱のとき、警固使であった橘遠保(たちばなのとおやす)が居城したとの伝えもあるが不詳。
戦国期、家藤監物(いえふじけんもつ)、さらに1575年(天正3)西園寺宣久(さいおんじのぶひさ)が居城している。
1585年からは小早川隆景(こばやかわたかかげ)の支配するところとなり、城代が置かれたが、1595年(文禄4)藤堂高虎(とうどうたかとら)が7万石を領して入り、修築を加え、現在みられるような不等辺五角形の特異な縄張りに改められている。
のち富田信高(とみたのぶたか)を経て伊達政宗(だてまさむね)の長男秀宗(ひでむね)が1615年(元和1)10万石で入城、以来世襲して幕末に至った。
往時は城門17、櫓(やぐら)33を数えたが、現在は寛文(かんぶん)(1661~73)のころ修築された天守閣と上立門(のぼりたちもん)を残すのみである。

和歌山城 2017/7/20(木)追加

和歌山城(わかやまじょう)は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)である。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

城下から望む天守

本丸の天守閣は1945年(昭和20)の戦災で焼失したが、1958年鉄筋コンクリートで復原された。

戦国末期~江戸期の城。
和歌山市一番丁にあり、虎伏山(とらふすやま)山頂に築かれたので虎伏城ともいう。
1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の弟羽柴秀長(はしばひでなが)が築いたもので、そのとき若山を和歌山に改めており、家臣の桑山重晴(くわやましげはる)を城代として置いた。
関ヶ原の戦い後、浅野幸長(よしなが)が37万6500石余を領して入城し、内堀、石垣などが修築された。
1619年(元和5)幸長の弟長晟(ながあきら)のとき広島に転封され、かわって徳川家康の十男頼宣(よりのぶ)が55万5000石で入り、さらに規模を拡張した。
以後、徳川御三家(ごさんけ)の一つとして世襲し、明治維新を迎えた。
現在の城址(じょうし)の規模は頼宣入城後のものである。
本丸の天守閣は1945年(昭和20)の戦災で焼失したが、1958年鉄筋コンクリートで復原された。

苗木城 2017/7/19(水)追加

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