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(随時更新)今日のお城・日本のお城を毎日一城ずつ御紹介

お城を毎日掲載。更新できない日はご勘弁を。名古屋城、大阪城、五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、清洲城、浜松城、駿府城、松本城、彦根城、松前城、松山城、金山城、高知城、鳥取城、古宮城、小牧山城、田中城、他多数。(本日のお城・日替わり・夏休み自由研究)

更新日: 2018年05月04日

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hogehogemanさん

お城・城跡の掲載リスト

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新府城、要害山城、栃尾城、増山城、松倉城、
松根城、後瀬山城、越前勝山城、村岡山城、金田城、
屋嶋城、玄蕃尾城、甘崎城、撫養城、荒砥城、
丸子城、信州箕輪城、オタフンベチャシ跡、元寇防塁(近日公開)

2018/4/24(火) オタフンベチャシ跡

浦幌町字直別に所在するアイヌ期の遺跡。オタ・フンベはアイヌ語で砂・クジラの意。十勝と釧路の支庁界近く、白糠丘陵が細長く馬の背状に伸びる太平洋沿岸の半独立丘陵上にある。お供山型の典型的なチャシで、壕で囲まれた平坦面は21メートル×7メートル。頂上の標高は約27メートル。チャシの存在は古い記録などにも見られ、次のような伝承も採集されている。昔、厚岸アイヌが白糠アイヌを攻めたとき、白糠軍はチャシを死守した。厚岸軍は攻めきれず、夜中に砂で鯨の形を作り、その陰に兵を伏せさせた。夜明けに白糠軍が「寄りクジラ」と近寄ったところを不意討ちした。白糠の長の睾丸にも敵の矢が当たったのでそこをオプショマイナイ(睾丸を破られた沢)といい、小川を跳び越えたときちぎれ死んでしまったところをノコマナイ(睾丸の落ちた川)という。さらに小川に真っ赤な水が流れていたのでフレベッ(赤い川)といった。厚岸軍が船に乗ってこぎ出そうとしたとき、墓から幾万とも知れぬハチの大群が飛び出し、大部分の者は刺し殺されてしまったという。1981年、国の史跡に指定された。

2018/4/16(月) 信濃箕輪城

箕輪城(みのわじょう)は、長野県上伊那郡箕輪町にあった日本の城。

箕輪城(みのわじょう)は、長野県上伊那郡箕輪町にあった日本の城。

概要
室町時代に箕輪氏の居城として築かれた。天文年間には福与城の支城としての役割を果たしていた。(福与城のことを箕輪城と呼ぶ場合もある。)
木下総蔵、福与城主藤沢頼親の養子左衛門尉重時が城主であった。武田信玄の伊奈攻略により藤沢頼親は、伊奈の地を追われたが、天正10年(1582年)武田氏滅亡後、福与城に拠り旧領を回復しようとしたが、保科正直に攻められ滅亡したため、箕輪城も廃城になったと言われている。 現在は、養泰寺の墓地に空堀などが残る。

2018/4/12(木) 丸子城

丸子城(まるこじょう)は信濃国(現在の長野県上田市上丸子)にかつてあった日本の城である。

築城時期は不明。天正13年(1585年)の上田城の戦いにおいて、真田昌幸が徳川家康軍を迎え撃った際、丸子三左衛門が城主だった。 上田城の戦いの後、徳川方の諏訪頼忠、岡部長盛らが攻撃したが、守りきった。 現在は史跡公園となっている。

2018/4/6(木) 荒砥城

荒砥城(あらとじょう)は、信濃国更級郡(長野県千曲市)にあった日本の城。

長野県千曲市(旧更級郡上山田町)の上山田温泉の温泉街の裏手にあった山城(やまじろ)。戦国大名の村上氏が居城としていた葛尾城(埴科郡坂城町)とは千曲川をはさんで対岸に位置している。平安時代にこの地に住み着いた豪族の山田氏が1524年(大永4)に築城したと伝わっているが、築城時期および築城者ともくわしくは不明である。1552年(天文21)、甲斐の武田晴信(武田信玄)は村上吉清の葛尾城を攻めたが、このころ、荒砥城は村上氏の属将の屋代政国の居城となっていた。翌1553年(天文22)、政国が塩崎城主の塩崎氏らとともに武田方に内応したことにより、義清は葛尾城を捨てて越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとに逃れ、葛尾城は落城した。義清はその後旧領を奪還したものの、籠城した塩田城(上田市)を攻められて、城を捨て行方不明になっている。その後、景虎が信濃に出陣し、第一次川中島の合戦(布施の戦いあるいは八幡の戦い)が起こる。長尾勢は武田勢を破り、屋代氏の荒砥城を占領した。

武田氏滅亡後、荒砥城主の屋代秀正(政国の養子)は上杉景勝に属し、上杉氏の海津城(長野市、のちの松代城)の城代山浦景国(村上国清、義清の嫡男)の配下になった。1583年(天正11)、徳川家康が秀正に更級郡の安堵を密約したことから上杉氏と離反して荒砥城に立て籠もったが、上杉景勝勢に攻められて落城し、秀正は家康のもとに敗走した(のちに屋代氏は徳川家の旗本になった)。その後、間もなく荒砥城は廃城となった。

2018/4/2(月) 撫養城

撫養城(むやじょう)は、徳島県鳴門市撫養町林崎にある日本の城跡。

「岡崎城跡」として市指定史跡に指定されている。

築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。

その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、天正10年(1582年)、長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を長宗我部元親の配下である真下飛騨守が守備する。

天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた。

一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。

2018/4/1(日) 甘崎城

甘崎城(あまざきじょう)は、瀬戸内海の日本の城(海城)。別名を、古城、岸の城、荒神城。

甘崎城(あまざきじょう)は、瀬戸内海の日本の城(海城)。別名を、古城、岸の城、荒神城。

古代では大山祇神社の東方鎮護として機能した島だが、古名は「アマノサキ」で、アマは海人を、サキは防人の意を指し、鎌倉期に海人(海武士)を取り締まるために城砦が築かれた(海武士から警護する)ことから始まり、由来はそこからきている。

13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行税を徴収する拠点に至る。この税を生活の糧とした。

海賊停止令が出た後の17世紀末にも当城はドイツ人に記録され、認知されるに至っている(後述の「海中縄張り」を参照)。

歴代城主は、三島村上水軍時代では、来島村上氏の4代村上通康、その後を家臣の村上吉継(16世紀前半)、豊臣秀吉が瀬戸内海の覇権を握ると藤堂高虎の属城となり、その従弟・良勝が城主となる。慶長13年(1608年)の藤堂高虎の移封によって廃城となった。

2018/3/31(土) 玄蕃尾城

玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあった山城である。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家の本陣が置かれた。平成11年(1999年)7月13日に「玄藩尾城(内中尾山城)跡」として国の史跡に指定されている。

また2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(140番)に選定された。

築城時期
以下のように諸説ある。朝倉氏の山城を勝家軍が整備、または賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城という、主に2つの見方がある。
15世紀の豪族柳ヶ瀬秀行が築城。
朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。
朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。
天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。
天正10~11年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。
賤ヶ岳の戦いに関わる出来事
天正11年3月 勝家が中尾山に本陣を置く。
天正11年4月 秀吉が大垣に出陣した隙に、勝家軍が進撃するも、反撃にあい、総崩れ、勝家は北ノ庄へ敗走。

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