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更新日: 2017年06月25日

hogehogemanさん

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高根城 2017/6/25(日)追加

浜松市天竜区水窪町地頭方
市指定史跡高根城跡は、町の東南端の久頭合の山頂、標高420mに位置しています。

南北朝時代、後醍醐天皇の孫伊良(ゆきよし)親王を守るためにこの地の豪族である奥山金吾正定則が応永21年(1414)に築いたといわれています。

高根城跡 たかねじょうあと (浜松市天竜区水窪町地頭方)
昭和57年2月16日 市指定史跡
高根城跡は、町の東南端の久頭合の山頂、標高420mに位置しています。
南北朝時代、後醍醐天皇の孫伊良(ゆきよし)親王を守るためにこの地の豪族である奥山金吾正定則が応永21年(1414)に築いたといわれています。
この城は近くを流れる河内川が水窪川に合流する地点の自然の堀を利用した山城でここから一望できる水窪川の対岸には奥山氏が親王のために仮宮を建て、ここを内裏(大里)、御旗を掲げられたところを御旗(小畑)として地名が残されています。時代は南北朝から戦国時代と移り、この地域に権力を及ぼしていた今川義元も桶狭間の戦いによって倒れ三河の徳川家康、甲斐の武田信玄の力が及ぶことになりました。

そして永禄12年(1569)高根城主民部少輔貞益の時、信州遠山郷の遠山土佐守に攻められ落城しました。高根城落城後、元亀3年(1572)甲斐の武田信玄は2万5千の大軍を率いて青崩(あおがれ)峠を越して上洛の途上、三方原で徳川家康と戦い勝利をおさめていますが、この時すでに高根城は武田の手が加わり遠江侵攻を目指す武田軍の拠点として大改修が行われていたと考えられます。

田中城 2017/6/24(土)追加

田中城は静岡県藤枝市田中にあった日本の城。形式は平城。江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた。

本丸を中心に、直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ。また、二の丸及び三の丸外に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田氏流城郭の特徴を示している。

天文6年(1537年) - 今川氏より築城。
永禄13年(1570年) - 武田信玄により攻め落とされ、武田家家臣山県昌景が入城した。
元亀3年(1572年) - 山県昌景に替わり、板垣信安が入城した。
天正3年(1575年) - 山県昌満が城代となる。
天正7年(1579年) -依田信蕃が在城する。
天正10年(1582年) - 徳川勢により攻められ開城した。
慶長6年(1601年) - 酒井忠利が入城し、城域を拡張し総郭を設けた。

小牧山城 2017/6/23(金)追加

小牧山は、愛知県小牧市にある標高86mの山。 かつて織田信長の居城であった、小牧山城があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。

なお現在、山頂にある天守閣風建物は、1967年に建てられたものである。

織田信長の小牧山城

永禄6年(1563年)、織田信長は、小牧山に築城して、清須城から居城を移した。
この当時の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、三河の家康と同盟を結んで東からの脅威を取り除き、尾張国内の統一をほぼ終え、たびたび美濃攻めを行っていた時期にあたる。
文献としては、信長公記首巻に信長の行動を物語るエピソードとして、清須から小牧山へ居城を移す旨の記述がされているが、築城の年などの記述はない。しかしながら、同時代に作成された信長の行動を示す書簡や日記などの古文書の分析から、永禄6年の小牧山城築城は通説となっている。
永禄10年に美濃の稲葉山城を攻略して、岐阜へ移るまでの4年間が信長の時代である。

古宮城 2017/6/22(木)追加

古宮城(ふるみやじょう)は、愛知県新城市作手清岳にあった戦国時代の日本の城。平山城。戦国時代の武田氏による城郭と考えられ、現在も同氏の築城術の多くが理解できる遺構が残っている。

武田信玄の織田・徳川に対する最前線基地ともいわれている。
新100名城に選ばれたので、今後、知名度があがっていくであろう城である。

元亀2年(1571年)に武田信玄が馬場信春に命じて築城させたとある。前述のとおり古宮城の地は街道上の要衝に立地し、当時武田氏が抗争していた三河の徳川家康攻略の拠点として築城されたと考えられている。『二葉松』によると小幡又兵衛(昌盛?)、甘利左右衛門(信康?)、大熊備前守(朝秀?)が在城したという。
廃城の時期についても明らかではないが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田氏の勢力が大きく後退した時期の可能性が高い。

弘前城 2017/6/21(水)追加

弘前城は、青森県弘前市にある日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。

青森県弘前市に残されている梯郭(ていかく)式の平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。3重の濠と土塁に囲まれた約50万m2の敷地に、江戸時代に建造された3重3階の独立天守や櫓(やぐら)や門などが現存しており、3層の天守閣、櫓3棟、城門5棟が残され、いずれも国の重要文化財に指定されている。この城は、津軽統一を成し遂げた戦国武将の津軽為信(大浦為信)が1603年(慶長8)に、4万7000石の弘前藩の中心となる城として築城を開始し、死後の1611年(慶長16)に完成した。以後、藩主津軽氏の居城、弘前藩の政庁として廃藩に至るまでの260年間、藩政の中心となった。当初、5層の天守閣が2代藩主信枚(のぶひら)により建造されたが、1627年(寛永4)に落雷で焼失し、現在残っている3層の天守は9代藩主寧親(やすちか)が1810年(文化7)に再建したものである。

また、弘前城を中心とした一帯は弘前公園となっており、桜の名所として全国的に知られる。天守閣は津軽藩政時代の歴史資料を展示する弘前城史料館となっている。JR弘前駅前からバスで市役所前公園入口あるいは文化センター前下車後、いずれも徒歩10分。◇鷹岡(たかおか)城、高岡城ともいう。

鳥取城 2017/6/20(火)追加

鳥取城は、鳥取県鳥取市に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。別名、久松山城。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を伺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。

織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。

戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。

秀吉の鳥取城攻略戦
1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担している)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。
ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家を城主に迎えた。
同年4月、因幡守護・豊国は織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなる。

高知城 2017/6/19(月)追加

高知城は、高知県高知市にあった日本の城。別名鷹城。 江戸時代、土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

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