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(毎日更新)今日のお城・日本のお城を毎日一城ずつ御紹介

お城を毎日掲載。更新できない日はご勘弁を。名古屋城、大阪城、五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、清洲城、浜松城、駿府城、松本城、彦根城、松前城、松山城、金山城、高知城、鳥取城、古宮城、小牧山城、田中城、他多数。(本日のお城・日替わり・夏休み自由研究)

更新日: 2018年01月16日

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できるだけ毎日更新したいと思いますが事情により更新できない日もございます。また、数日分をまとめて更新する場合もございます。m(_ _)m

hogehogemanさん

お城・城跡の掲載リスト

江戸城、名古屋城、那古野城、勝幡城、大阪城(大坂城)、
五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、
丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、
清洲城、浜松城、駿府城、小田原城、弘前城、
松本城、彦根城、松前城、岡城、愛媛松山城、
新田金山城、高知城、鳥取城、弘前城、古宮城、
小牧山城、田中城、高根城、一乗谷朝倉氏遺跡、岐阜城、
鬼ノ城、安土城、高島城、讃岐高松城、大高城、
松代城、上田城、高知城、墨俣城、赤木城、
篠山城、備中松山城、根城、鹿児島城、盛岡城、
仙台城、沼田城、名胡桃城、石垣山城、備中高松城、
松江城、苗木城、和歌山城、宇和島城、岩櫃城、
龍岡城、波賀城、真弓山城(足助城)、丸亀城、
盛岡城、多賀城、近江坂本城、佐和山城、白河小峰城、
戸石城(砥石城)、鳥越城、久保田城、山形城、鞠智城、
二条城、能島城、二本松城、伊丹城(有岡城)、高槻城、
会津若松城(鶴ヶ城)、岸和田城、吉田城、甲府城、鉢形城、
小諸城、洲本城、中城城、長浜城、浪岡城、
高天神城、掛川城、七戸城、知覧城、九戸城、
志布志城、志波城、姫松館、佐土原城、大給城、

岩切城、都於郡城、檜山城、田丸城、佐伯城、
脇本城、臼杵城、畑谷城、八代城、長谷堂城、
猪苗代城、佐敷城、向羽黒山城、日野江城、久川城
原城、小幡城、勝尾城、広島城、笠間城、
牛久城、岸岳城、唐沢山城、久留米城、曳馬城、
烏山城、長野城、松井田城、岩崎城、萩城、
津城、上山城、福井城、柳川城、桑名城、
小浜城(福井)、淀城、杉山城、朝倉城(高知)、大和郡山城、
高崎城、古河城、宇都宮城、長岡城、新庄城、
西尾城、亀山城(丹波)、土佐中村城、肥前鹿島城、
諏訪原城、横須賀城、飯山城、沼津城、三田城、
大田原城、鳥羽城、杵築城、丹後田辺城、久留里城、
尼崎城、飛騨広瀬城、村松城、沓掛城、加納城、
秋月城、田原城、安中城、飯田城、大聖寺城、
泉城、壬生城、岩槻城、玖島城、高鍋城、
徳山城、日出城、刈谷城、館林城、水口城、
伊勢神戸城、出羽松山城、与板城、出羽本荘城、
八戸城、関宿城、美作勝山城、松平城(松平郷)、
知多大野城、美濃金山城、明智城、安祥城、七州城、
郡上八幡城、長島城、結城城、津和野城、飫肥城、
米沢城

観音寺城、新高山城、下館城、阿坂城、福島城、
福岡城、鶴ヶ岡城、膳所城、佐貫城、紀伊田辺城

■このうち↑現存する天守をもつお城(12城)
弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、
松江城、備中松山城、丸亀城、愛媛松山城、宇和島城、高知城

■天守が国宝指定されているお城(5城)
松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城

2018/1/16(火) 米沢城

米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にあった中世から近世にかけての日本の城(平城)である。江戸時代は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれていた。

山形県米沢市にあった中世から近世にかけての平城(ひらじろ)。戦国時代には伊達氏の本拠、江戸時代には米沢藩の政庁と同藩主上杉氏の居城となった城。鎌倉時代中期に幕府政所の別当大江広元の次男・時広が出羽国置賜(おきたま)郡長井郷の地頭となり、居館を築いたのが米沢城の起源。時広は領地の地名から長井姓を名乗るようになり、以後150年にわたって長井氏の居館となった。室町時代の初めに伊達宗遠が当地を侵略して長井氏を追い、以降、安土桃山時代まで伊達氏の領地となった。伊達氏は桑折西山城(福島県桑折町)を本拠としていたが、1548年(天文17)の天文の乱後、当主の伊達晴宗は本城を米沢城に移した。1591年(天正19)、豊臣秀吉の命により伊達政宗(まさむね)が岩出山城(宮城県大崎市)に移ると、蒲生郷安が米沢城主となり、上杉景勝が越後から会津に入封すると、米沢城は重臣の直江兼続(かねつぐ)が城主となった。

1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い、奥州出羽合戦ののち、上杉氏は出羽国の置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡30万石に減封され、これ以降明治維新まで米沢城は、米沢藩の政庁、上杉氏の居城となった。1608年(慶長13)、上杉景勝は直江兼続に命じて城の大改修に着手し、石垣を用いず土塁を多用した輪郭式の縄張りを持つ城となった。天守は建てず、その代わりに2基の三階櫓(さんがいやぐら)を持つ。また本丸には春日山城(新潟県上越市)に埋葬されていた上杉謙信の遺骸を改葬して御堂が建設された。1871年(明治4)の廃藩置県後、米沢城には米沢県庁が置かれ、1873年(明治6)には城内の建物はすべて破却され、翌1874年(明治7)には城跡は松が岬公園として開放された。内堀と土塁、二の丸の堀の一部などが現存する。

2018/1/14(日) 紀伊田辺城

田辺城(たなべじょう)は、和歌山県田辺市にかつて存在した日本の城。別名は錦水城(きんすいじょう)、湊村城、湊城など。現在の田辺市街の西南端に位置し、会津川の河口左岸と海に隣接していた。遺構として石垣と水門が残る。

和歌山県田辺市上屋敷にあった平城(ひらじろ)(水城(みずじろ))。江戸時代に築城された陣屋造りの城。田辺城は天守閣がなく、典型的な水城である。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長(ゆきなが)が紀伊国に入国し、田辺には重臣浅野氏重が入り湊(みなと)城を築いたが、1615年(元和1)の一国一城令の後、陣屋に改築された。1619年(元和5)、浅野氏は安芸国(広島県)に国替えとなり、紀伊国には徳川頼宣(よりのぶ)が入国した。田辺には付家老(つけがろう)安藤直次(なおつぐ)が入封し、湊城を改築して田辺城を築いた。田辺城は陣屋構えで、天守や櫓(やぐら)はなかった。以後、安藤氏が代々紀伊徳川家筆頭家老として居城した。明治維新後に廃城となり、城は取り壊された。錦水公園一帯が城跡で、田辺城唯一の遺構の水門がある。JR紀勢本線紀伊田辺駅から徒歩20分。◇錦水(きんすい)城、湊城とも呼ばれる。

2018/1/12(金) 佐貫城

佐貫城(さぬきじょう)は、千葉県富津市佐貫にあった日本の城。江戸時代には佐貫藩の藩庁が置かれた。

千葉県富津市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平山城(ひらやまじろ)。北上川と染川の流れる2つの谷にはさまれた丘陵につくられた城である。応永年間に真里谷氏(上総武田氏)によって築かれたとされるが、諸説ある。ともかく、戦国時代には真里谷氏の城となっていたが、1537年(天文6)に同氏に跡目相続の内紛が起こり、庶子の真里谷信隆が拠って、真里谷信応と対立したが、信応を支援する小弓公方・足利義明と里見義堯らに攻められて落城。以降、里見氏の属城となり、義堯の嫡男・義弘が入城した。義堯は本城の久留里城(君津市)と、義弘の佐貫城の2城を中心に真里谷氏や北条氏への備えとした。義堯から家督を継いだ義弘は、一時期、佐貫城を里見氏の本城としていたこともある。1545年(天文14)、同城を北条氏康が攻略したが、以降、里見氏と北条氏の争奪の対象となった。1562年(永禄5)には、上杉謙信に古河を追われた古河公方・足利義氏が、北条氏康の庇護のもとに同城に仮御所を置いたこともある。

天正18年(1590年)の小田原の役後、里見氏の上総領が没収され、領地は安房一国になったため、そのほかの上総の里見氏の属城と同様召し上げられ、関東に入部した徳川家康に与えられた。家康は、佐貫城に譜代の家臣の内藤家長を配し、家長は同城を近世の城郭として整備した。その後、松平氏を経て柳沢吉保が入城したが、吉保の川越移封に伴い廃藩・廃城となった。その後、1710年(宝永7)に阿部正鎮が入部して佐貫藩が復活し、正鎮は佐貫城を再興。以降、阿部氏代々が城主を務めて明治維新を迎えた。1871年(明治4)の廃藩置県に伴い、同城は廃城となった。現在、本丸や二の丸、三の丸の各曲輪(くるわ)が良好な状態で残っている。

2018/1/11(木) 膳所城

膳所城(ぜぜじょう)は、現在の滋賀県大津市本丸町にあった日本の城である。

滋賀県大津市にあった平城(ひらじろ)(水城)。江戸時代に膳所藩の藩庁が置かれた城である。琵琶湖に注ぐ相模川の河口に築かれ、琵琶湖にせり出すように本丸・二の丸・三の丸などの郭がつくられていた。移築されて現存する大手門、北大手門が国の重要文化財に指定されており、松江城(島根県松江市)、高島城(長野県諏訪市)とともに日本三大湖城の一つに数えられている。関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6)、徳川家康が大津城(大津市)を廃して、交通の要衝の瀬田を押さえる新城の建設を決め、築城した城である。城の完成後、大津城の城主であった戸田一西が3万石で入城した。その後、戸田氏が移封されたのちは、複数の譜代大名が交替で城主を務めたが、1651年(慶安4)に本多俊次が7万石で入城後、城主は本多氏の世襲となり、明治維新を迎えた。俊次の入城から11年後の1662年(寛文2)に地震により城の建物が倒壊し、俊次は大改修を行っている。1870年(明治3)、明治政府から廃城令(太政官布告)が発布されると、旧藩士らにより天守をはじめとする建物の解体と移築が行われた。

2018/1/10(水) 鶴ヶ岡城

鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった日本の城(平城)である。

山形県鶴岡市にあった平城(ひらじろ)。江戸時代には庄内藩の藩庁が置かれた城で、現在の同市街地の中心部に位置する。ほかの東北地方の城郭と同様、土塁を多用し、主要部分のみに石垣を用いた縄張りで、天守はつくられず、本丸の東北隅と二の丸南西隅の2ヵ所に2層2階の隅櫓(すみやぐら)があった。鶴ヶ岡城の前身となったのが武藤大宝寺氏の大宝寺城で、当初は武藤氏の居城として、尾浦城築城後は支城となっていた。武藤氏は庄内地方の領有をめぐって山形城の最上氏と争い滅亡したが、その後の庄内は、越後の上杉氏と最上氏の争奪の場となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、庄内地方は最上氏の領地となり、これに伴い、大宝寺城は最上氏の城となり、最上義光は庄内地方統治の拠点として東禅寺城、尾浦城とともに大宝寺城を整備拡張し鶴ヶ岡城と改名した。1622年(元和8)に最上氏が改易となると、徳川四天王の筆頭といわれた酒井忠勝が庄内に入り、庄内藩が成立した。

忠勝はそれまでの庄内の主城だった尾浦城ではなく鶴ヶ岡城を居城・藩庁に定め、大改修に着手して二の丸、三の丸の拡充や城下町の整備を行った。同城が完成したのは第3代藩主の忠義の治世で、54年の歳月をかけた改修が行われたことになる。

2018/1/9(火) 福岡城

福岡城(ふくおかじょう)は、現在の福岡県福岡市中央区に築かれた江戸時代の日本の城。

別名、舞鶴城、石城。国の史跡に指定されている。

福岡県福岡市中央区城内にあった福岡藩黒田氏の居城。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。17世紀初頭に黒田氏により近世城郭として築城された。関ヶ原の戦いで功績をあげ、豊前(ぶぜん)中津藩12万石から筑前52万石へ加増された黒田如水(じょすい)親子は、当初小早川氏から名島城を受け取り入城したが、城地が海辺に片寄りすぎているため、城下町の繁栄も考えて、博多湾を望む福崎(現、福岡市)の台地に縄張りを決め、6年の歳月をかけて完成させた。城は、総面積24万m2にも及ぶ大城郭で、本丸の丘陵を中心として東・北・西に二の丸を構え、南に三の丸を配し、4.7kmに及ぶ堀をめぐらし、高さ5mから15mほどもの石垣を築いた。本丸の最高所には天守台が築かれ、現在も石垣が残る。

2018/1/7(日) 福島城

福島城(ふくしまじょう)は福島県福島市(陸奥国信夫郡)にあった日本の城。福島藩の藩庁がおかれた。現在、福島県庁が立地している一帯が城跡である。平城ではあるが、城の東方と南方は阿武隈川や荒川が流れており、天然の要害として外堀の役割を果たしていた。

福島県福島市にあった城。築城年代、築城者は明らかでない。1413年(応永20)、鎌倉公方に反乱を起こした伊達松犬丸(後の伊達持宗)が立て籠もった大仏(だいぶつ)城が後の福島城ともいわれるが詳しいことはわかっていない。また、大仏城はのちに杉目城(すぎのめじょう)と改称され、嫡男の伊達輝宗に家督を譲った伊達晴宗が隠居した城である。杉目城は1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置までは伊達氏の城だったが、蒲生氏郷(がもううじさと)の属城となり、家臣の木村吉清が入城した。吉清は当初、大森城を居城としたが、1592年(文禄1)ごろに杉目城の名前を福島城と改め、同城を居城とした。このとき、福島城は信夫郡の中心的城郭となった。その後、上杉景勝の属城となると、福島城には本庄繁長が城代として入城した。関ヶ原の戦いの後、上杉景勝が信夫郡の領地を没収されると、天領(幕府直轄領)を経て、本多忠国が1679年(延宝7)に福島藩15万石の領主として入城している。

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