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(毎日更新)今日のお城・日本のお城を毎日一城ずつ御紹介

お城を毎日掲載。更新できない日はご勘弁を。名古屋城、大阪城、五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、清洲城、浜松城、駿府城、松本城、彦根城、松前城、松山城、金山城、高知城、鳥取城、古宮城、小牧山城、田中城、他多数。(本日のお城・日替わり・夏休み自由研究)

更新日: 2017年08月17日

hogehogemanさん

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お城・城跡の掲載リスト

江戸城、名古屋城、那古野城、勝幡城、大阪城(大坂城)、
五稜郭、姫路城、熊本城、竹田城、犬山城、
丸岡城、岩村城、井伊谷城、岡崎城、二俣城、
清洲城、浜松城、駿府城、小田原城、弘前城、
松本城、彦根城、松前城、岡城、愛媛松山城、
新田金山城、高知城、鳥取城、弘前城、古宮城、
小牧山城、田中城、高根城、一乗谷朝倉氏遺跡、岐阜城、
鬼ノ城、安土城、高島城、讃岐高松城、大高城、
松代城、上田城、高知城、墨俣城、赤木城、
篠山城、備中松山城、根城、鹿児島城、盛岡城

仙台城、沼田城、名胡桃城、石垣山城、備中高松城、
松江城、苗木城、和歌山城、宇和島城、岩櫃城、
龍岡城、波賀城、真弓山城(足助城)、丸亀城、
盛岡城、多賀城、近江坂本城、佐和山城、白河小峰城、
戸石城、鳥越城、久保田城、山形城、鞠智城、
二条城、能島城、二本松城、伊丹城(有岡城)、高槻城、
会津若松城(鶴ヶ城)、岸和田城、吉田城、甲府城、鉢形城、
小諸城

※たまにかぶりますが(笑)

■このうち↑現存する天守をもつお城(12城)
弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、愛媛松山城、宇和島城、高知城

■天守が国宝指定されているお城(5城)
松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城

小諸城 2017/8/17(木)追加

小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市にある日本の城跡。

別名、酔月城、穴城、白鶴城。

戦国期~江戸期の城。長野県小諸市丁にある連郭(れんかく)式の平山城(ひらやまじろ)。現在、城址(じょうし)一帯は懐古(かいこ)園となり、島崎藤村(とうそん)の「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ……」の詩で全国的に名が知られている。戦国期のこの地の領主は大井氏、1487年(長享1)現城址のやや北に大井光忠(みつただ)が築いた鍋蓋(なべぶた)城が始まりといわれている。武田信玄(しんげん)の信濃(しなの)侵攻により、小諸城は東信濃の拠点とされ、信玄は一族の武田信豊(のぶとよ)を置いていた。武田氏滅亡後は徳川家康の領有となり、依田(よだ)(芦田(あしだ))康国(やすくに)が入った。のち仙石秀久(せんごくひでひさ)が5万石で入城して大改修を施し、現在の規模になり、松平、青山、酒井、西尾、石川などの譜代(ふだい)大名が入り、牧野康重(やすしげ)が1702年(元禄15)に入って幕末まで相継いだ。天守台と大手門、三ノ門が現存している。

鉢形城 2017/8/16(水)追加

鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡である。構造は連郭式平山城。

鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。

室町期~戦国期の城。埼玉県大里郡寄居(よりい)町鉢形にある。城の北西側は荒川に面した高さ100メートルほどの断崖(だんがい)になり、背後をその支流深沢川が流れる天険の要害である。古く平安末~鎌倉初期に源経基(つねもと)や畠山重忠(はたけやましげただ)が拠(よ)っていたという伝承もあるが、史料的に確実なのは1473年(文明5)から76年にかけて長尾景春(ながおかげはる)が築いたとするものである。関東管領山内上杉(かんれいやまのうちうえすぎ)氏と執事長尾(ながお)氏とが城主を争ったが、北条氏綱(うじつな)が山内上杉氏を討ち、藤田康邦(やすくに)を城主とした。城はさらに、康邦の女婿となってこの地に入ってきた北条氏邦(うじくに)によって大規模につくりかえられている。以後、小田原城の支城の一つとして氏邦による鉢形領支配の中心となった。1590年(天正18)、豊臣(とよとみ)秀吉による小田原征伐のとき、前田利家(としいえ)、上杉景勝(かげかつ)らの大軍に攻められ、籠城(ろうじょう)戦のすえ開城し、廃城となった。

三木城 2017/8/15(火)追加

三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。

釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。

三木城の城主として治めていた別所氏は播磨国の守護大名・赤松氏の家臣であり、同じく家臣である浦上氏の次に有力な一族として播磨東部辺りに勢力を誇っていた。別所氏は京都など中央の戦乱に巻き込まれる形で細川氏などの近畿の大名と争い、主家を下剋上して戦国大名化した浦上氏とも戦った。細川氏に城を落とされたり尼子晴久に攻められたり三好長慶に屈服したりと、幾度となく強大名の猛威を受けたがなんとか乗り越え、段々と勢力を増していく。織田信長が近畿地方を制圧すると、それに従って信長の加護を受ける。周囲の大名を倒していき東播磨を手中におさめた。

しかし、対毛利氏への中国遠征が開始されると別所長治は突如として信長に理由不明の反旗を翻した。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は三木城を包囲、各支城や別所方の城を落城させながらこの城を孤立させていき、物資を徹底的に絶つ事で兵糧攻めを行った。
この辺りの戦いは記事・三木の干殺しに詳しく書かれている。
長治ら別所軍は懸命に闘うが力及ばず、秀吉からの降伏勧告を受け入れ開城。長治ら別所一族は切腹し果て三木城は落城した。

城は豊臣政権下でも使用され直轄地として城番が置かれた。天下が徳川家康の手に渡った後は池田輝政の持ち城となったが、やがて一国一城令によって廃城となった。

その後、明石城の築城の際に三木城の古材も使用したと言われているが、それを裏付ける証拠は現在まで発見されていない。

甲府城 2017/8/14(月)追加

甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった日本の城である。別名、舞鶴城(まいづる(ぶかく) じょう)。山梨県史跡に指定されている。

甲府城が築城された一条小山は甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があったという。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となる。
戦国時代には守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)を中心とする武田城下町が整備される。一条小山は武田城下町の南端に位置している。武田氏は信虎・晴信(信玄)期に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、甲府・躑躅ヶ崎館は勝頼期至るまで領国経営の中心であった。勝頼期には盆地西部の穴山郷に新府城(韮崎市中田町中條)が築城され府中の移転が試みられたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻による武田氏の滅亡で途上に終わった。

武田家滅亡後、豊臣秀吉が徳川家康に対抗する重要拠点として築城を進め、家臣の浅野長政、幸長父子が1600年までに完成させた。
その後、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉の側用人を務めた柳沢吉保が城主として大改修した。
廃城後、明治期の鉄道開通や市街地整備に伴い、大きく破壊された。
1968年に県史跡に指定され、石垣や門塀、櫓(やぐら)などの改修が進んだ。
今回見つかった石垣は指定の対象外。

吉田城 2017/8/13(日)追加

吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。

戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。

愛知県豊橋市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。江戸時代には三河吉田藩の藩庁が置かれた城である。当初、今橋(いまはし)城と呼ばれたが、その後、吉田城に改められた。豊橋城ともよばれるが、吉田から豊橋に改名された明治維新後の呼称である。牛久保城(豊川市)を居城としていた牧野古白(成時)が1505年(永正2)、安祥城の松平長親の東三河進出に備えて、あるいは渥美郡の有力国人の戸田宗光に対する備えとして、今川氏親の命によって築いたとされる。その後、牧野氏と田原城を拠点とする戸田氏が吉田城の争奪を繰り返したこともあり、めまぐるしく城主が入れ替わった。1529年(享禄2)、松平清康(徳川家康の祖父)は吉田城を攻略し、戸田氏を屈服させて、三河支配をほぼ確立した。しかし、1535年(天文4)の森山崩れで清康が暗殺され、松平氏が城から撤退し、牧野成敏が城を引き継いだが、1537年(天文6)には戸田宣成が牧野氏を追って城主となった。

1546年(天文15)、牛久保城主の牧野保成の要請を請けた今川氏が吉田城の戸田宣成を攻めて陥落させ、以後、吉田城は東三河の今川氏の戦略拠点となった。『豊橋志要』(豊橋市参事会、1909)によれば、天文年間(1532~54年)に、今川義元が今橋から吉田に改称したという。今川義元は同城の城代として小原鎮実を入城させ、鎮実のもとで東三河の国人を糾合・服属させた。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いの後も今川氏の拠点として存続したが、1565年(永禄8)に松平元康(のちの徳川家康)が吉田城を攻めて、小原鎮実を敗走させた。これにより、今川氏は三河支配権を完全に失った。家康は城代として酒井忠次を入城させ、戸田氏、牧野氏、西郷氏などの東三河の国人を統率させた。元亀年間(1570~72年)には三河に侵攻した甲斐武田氏の軍勢が吉田城下まで押し寄せたが城を守り抜いている。1590年(天正18)、家康の関東移封にともない、豊臣恩顧の池田照政(のちに輝政と改名)が東三河4郡15万2000石の領主として吉田城に入城した。

輝政は以後11年間にわたって城の整備と城下町の建設を行った。関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6)、輝政は播州姫路に移封となり、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。以後、竹谷松平氏、深溝松平氏、水野氏、小笠原氏などの譜代大名が城主(藩主)をつとめ、長沢松平大河内氏(大河内氏)が入城して明治維新を迎えた。

岸和田城 2017/8/12(土)追加

岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。

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