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shibainu_55さん

おそらく誰でも一度は袖を通したことがあるだろう「制服」。
その歴史を簡単にまとめてみました。

制服の始まりは明治維新

この「文明開化」と呼ばれる一連の西洋化の動きの中で、日本人の衣服は大きく変化します。
それまでは着物が主流でしたが、次第に洋装する(洋服を着る)人々が増えてきたのです。

1870年代にまず軍人が洋装化し、陸海軍で制服が制定されました。
そして1879年、学習院で海軍士官型の詰襟制服が採用されます。

軍隊が先駆けだったのですね。

当時は下に袴をはく人も多かったそう。

明治時代、男子学生は徐々に洋装していきましたが、女学生はまだ和装が主でした。
しかしそれまでメインだった着物ではなく、動きやすさから男性用の袴をはくことが認められていったそう。

女生徒の制服が本格的に登場したのは1920年、平安女学院にてでした。
男子生徒に比べてずいぶんと時間がかかりました。

大正時代に背広型が登場

1920年以降の大正時代に入ると、アパレル業界が制服を作り始めます。
それまでの詰襟型制服だけでなく、現在のブレザー型に通じる「背広型」の制服が生まれたのはこの頃です。

東京慶應義塾幼稚舎をはじめとしたいくつかの学校で背広型の学校制服が採用されました。
とはいえ、ほとんどの学校では詰襟型が主流だったそう。

この時代に、詰襟の制服に擦り切れた帽子をかぶり、マントを羽織って下駄をはくという「バンカラスタイル」が生まれました。

「バンカラ」とは西洋風の身なりや生活を表す「ハイカラ」をもじった言葉です。ハイカラな身なりに惑わされず、本当に大切なものを追求するという姿勢を表しています。

アウトローといったところでしょうか。

雰囲気がありますね。

新入生には上級生のバンカラファッションは、ショツクだったらしい、
「小倉の服に、毎軍のようなゲートルを着けて居り、門衛の
正呂地というのがラッパで始業を知らせているのを見ると、
軍隊へ行ったようで、私はたじたじした」
(『創立60周年記念 誌』大正7年卒・第17回生の宮垣雅男の手記より)

明治時代は袴姿が多かったのですが、大正時代に入るとセーラー服などの洋装制服が増えていきました。

時代は戦争へ…

昭和時代に入ると、少しずつ戦争の影が生徒たちをおおうようになります。

なみかた羊肉店(https://www.umai.co.jp/nikuya/)のHPより。
やはりこの時代も詰襟が主流。

兵庫県の柏原高校の卒業写真。

学園は完全に軍事色に染まっていた。戦闘帽、足にはゲートルを巻いた
軍隊スタイルが 当時の制服である。新入生はまず上級生にゲートルの
巻き方から教わった。

太平洋戦争が起こり、戦況が厳しくなってくると、制服のボタンなどに使われる金属も武器をつくるために差し出さなければなりませんでした。

1941年には、学生たちは画像のようなカーキ色の「国民服」を着用するよう求められました。
女子生徒も国民服のように統一された標準服(もんぺなど)を着用するようになります。

男性はカーキ色の国民服で足にゲートルを巻いていました。

割烹着よりも動きやすいとして、もんぺが推奨されました。

終戦。高度成長期へ

終戦後は国民服の着用は強制されませんでしたが、物資不足などの理由で国民服を着続ける人が多かったそう。

1950年代後半から、日本は高度成長期へと突入します。
経済がめざましい成長を遂げる中、制服も徐々にファッション性を帯びていきました。

1960年以降、学生自らが制服を改造する「変形制服」が流行しました。

「ラッパズボン」「長ラン」「短ラン」…。
心当たりある人もいるのでは?

女生徒の中には足首までかかる長いスカートをはく者も。

当時の典型的な不良。
時代を感じます。

もちろんきちんと制服を着ている学生もたくさんいましたよ。

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