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安倍内閣打倒運動に蠢くマスコミと中国・朝鮮半島

未来を語らないマスコミに日本を任せるわけにはいかない。マスコミと野党4党によるクーデターである。活動資金源は中国共産党であり、内閣支持率を下げて憲法改正させないよう指令を受けたのではないだろうか?(日米同盟潰し)コミンテルンの謀略と日本の敗戦

更新日: 2017年09月13日

trauma2896さん

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私たちが戦っている敵は正論も証拠も正義も常識も一切通じない。そんな相手とどう戦うのか。そろそろ戦い方を考え直すべきでは?一世一代の大勝負に負けて、後から私たちはフェアプレーに徹したなんて負け惜しみを言ったって、その時には国がなくなってるんだから。
https://twitter.com/murrhauser/status/890145488170823680

#ジャーナリストごっこ の #金髪豚野郎 こと #津田大介 や
#朝日新聞 が血眼になって取り上げている #フェイクニュース。

その概念を #メディアの偏向 や特亜並びに反日勢力主体の世論工作等を
暴く者へのレッテルの擦り付けです。
#プロパガンダマニュアル に沿ったものです。

記事抜粋 公安関係者が、こう警告する。  「中朝の工作員や協力者らの動きが活発化している。『安倍政権潰し』で動いているようだ。一部マスコミや国会議員らの動きも怪しい。『安倍政権を潰せば、日米同盟が弱体化する。」 なんか、俺みてえなこと言ってるなあww まあ偶然だぞ、偶然www

正面装備に割り振れる防衛予算が少なすぎる(左巻き勢力=中国共産党の工作により防衛予算を長年にわたり増やせなかった弊害)

#青山繁晴「(安倍内閣改造で)中国はガッカリした。安倍政権が崩壊するのを待ってるんじゃなくて工作してますから。そこに韓国や北朝鮮も絡んで、工作してますから。ネットを徹底的に活用してる。この際一気に倒してしまおうってところだったから… twitter.com/i/web/status/8…

吉田清治の息子を見習え

スターリンの第7回コミンテルン大会における演説の言葉

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」

朝日の記者が、他国の諜報機関に協力した事例。 共産主義者の尾崎秀美という存在。 時代は巡り、繰り返す。

近衛首相は中国戦線【不拡大】の政策を推進していた。

蒋介石と日本軍は人を介して
日本軍を中国から引き揚げることに【合意】していたにも拘わらず、
ソ連のコミンテルンの指令に基づき尾崎秀実らが
日本が日中戦争を【拡大】させるように仕向けた。
尾崎は、近衛首相のプレーンであったことから、
彼は充分に前もって日本政府の動きを知ることができた。
日本と中国との戦線不拡大がほぼまとまりかけていた時、尾崎らは汪兆銘を首班として日本の傀儡政権を擁立させた。1940年のことである。

1938年(昭和13年)11月3日に「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)を発表。12月22日には日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を発表した。しかし、汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった。

欧州でドイツが破竹の進撃を続けるなか、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運⇒どこかで聞いたフレーズが・・・

汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は中華民国の政治家。

民国26年 (昭和12年、1937年)7月、日中戦争が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。
一方、民国27年(1938年)3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。

民国27年(1938年)10月12日には汪はロイター記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる。
11月、上海で、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。
その合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。

この計画に従い、12月18日、汪はついに重慶脱出を決行した。12月20日、ハノイ着。汪の脱出に前後して、陳公博、陶希聖、梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した。しかし汪の期待に反して、昆明の竜雲、四川の潘文華、第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、ついに汪に同調することはなかった。
さらに汪にとって打撃となったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)である。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い失望を持たせる結果となった。
12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた(「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる)。蒋政権はただちに汪を国民党から永久除名した。民国28年(1939年)1月、近衛文麿は突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫することとなった。

一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。

民国29年(1940年)3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された。 汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(民国29年(1940年)11月「主席」就任)。

尾崎ほつみは、朝日新聞記者という立場を政治利用し、共産主義のシンパとしてコミンテルン活動家に身を落とし、当時の日本国民に対して日中戦争推進を煽動する記事を書き続けた。

1926年 東京朝日新聞社入社。
1928年 上海通信部転勤。A・スメドレーと米人ジャーナリストとしてのR・ゾルゲに出会う。
1938年 朝日新聞社を退社し第一次近衛内閣の嘱託となる。
スパイが発覚し尾崎やゾルゲらは1942年に国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、当時の治安維持法違反などにより起訴され死刑が確定した。

1944.11.7 ロシア革命記念日にリヒャルト・ゾルゲとともに絞首刑に処される。

映画「スパイ・ゾルゲ」って、朝日新聞が制作に協力していたようですね。コミンテルンのスパイ・尾崎秀実が朝日出身であることを、誇らしく思っているのかもしれませんな。スパイ天国・朝日新聞。(笑) pic.twitter.com/ByCg7T0VFl

口では友好を唱え、全ての責任を日本に押し付ける相手に、対等な友好関係など望めるはずもない。

戦前の日本の立場を擁護しようとする者に対し、西洋人はリヴィジョニスト[revisionist]とのレッテルを貼るが、この言葉はマルクス主義者が修正マルクス主義者を批判するときに使用した共産主義用語である。現在ではもっぱら、歴史修正主義者の意で用いられる。要するに安倍首相がそれであると彼らは警戒しているわけである。

 しかし、共産主義用語としてはともかく、「修正」という日本語の語感は、間違ったものを正すという意味で、何ら悪のイメージはない。
 相手の主張が事実と違うならそれを修正、訂正するのは当然である。その意味で私も修正主義者のひとりである。そして、多くの日本人はそれであろう。

 それをも日中友好、日韓友好のためにねじ曲げて受け入れよ、というなら、それこそがリヴィジョニストでなくてなんであろう。そもそも第二次大戦後の世界において、戦勝国こそリヴィジョニストの本家本元だった。英米とソ連のプロパガンダが戦後の世界を制した。

中華人民共和国は日本の敗戦時には存在しなかった国家であった。

中国共産党はコミンテルンの中国支部として、その指令で動いた組織であり、不倶戴天の敵である蒋介石率いる国民党を日本軍と戦わせて漁夫の利を得る戦略を実践したのであり、日本軍と戦ったわけではない。その証拠に、中華人民共和国成立後、毛沢東は、面会した日本の社会党員に対し、謝罪する必要はない、天下を取れたのは皇軍のおかげと述べたのである。
 それが抗日戦勝利七十周年とすり替えられているのだから、彼らこそリヴィジョニストである。
 また、戦後成立した朝鮮民主主義人民共和国もまたソ連の傀儡、韓国の李承晩はアメリカの傀儡であったからこれを糊塗する必要に迫られていたリヴィジョニスト集団であった。

 いわば、彼らは西洋列強の傀儡として日本人と敵対した勢力なのである。日本の歴史問題に関して彼らが歩調を合わせる要因はこんなところにあるのだ。元祖リヴィジョニストが定着した、いや、やっと定着させることに成功した歴史認識を修正させまいと、事実に基づく歴史認識を語るものにリヴィジョニストとのレッテルを張って悪魔化している、というのが、この国際問題の構図といっていい。
 泥棒!と大声で先に叫ぶ者こそ実は泥棒だった、というのに似ている。

アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略

第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ政府内に多数のソ連のスパイが潜入したことを暴いた「ヴェノナ文書」の公開以降、同国内では「ルーズヴェルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの疑念が、確信へと変わりつつある。

ハルノートを起草したのがコミンテルンのスパイ、ハリー・デクスター・ホワイト

【ハリー・デクスター・ホワイト/1892-】 ・コミンテルンのスパイ ・財務次官補(財務省No.2) 1941.11.27、ハル・ノート 開戦直前、米から提示された交渉文書 12.6、ルーズベルトから親電 12.8 3:00… twitter.com/i/web/status/8…

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