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奥寺康彦、日本史上最高の選手。    アホな日本人が歴史を全く知らない為に 凄さが伝わらない人。

奥寺康彦。外国人枠2枠の厳しい時代に欧州最強リーグの1位や2位チームで外国人助っ人を長年に渡って務め、  ドイツ・ブンデス・リーガで優勝1回、2位3回という傑出した成績。欧州9年のうち3年は欧州最高の攻撃力の あるチームでシーズンを送った(世界の名手と攻撃陣を形成した)。まさに世界の一流選手。

更新日: 2019年06月12日

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この記事は私がまとめました

rulliさん

注:最初のアジア人は1920年代の
パウリーノ・アルカンタラ。
彼はフィリピン人でバルセロナで大活躍した。

1952年、秋田県出身。

【所属チーム】
1970-1977 古河電工

1977-1980 ケルン  
(70年代後半は強豪。ドイツ代表スターが5、6人居た。[W杯1974年でドイツは優勝した]。
奥寺は2冠優勝した)

1980-1981 ヘルタ・ベルリン

1981-1986 ブレーメン
(80年代中頃は欧州最高の攻撃力で、
バイエルンと2強。奥寺はリーグ2位3回)

ケルンでもブレーメンでもW杯優勝、準優勝した
一流選手が居た。
そんな強豪チームで助っ人として活躍した。

2014年、「ブンデスリーガ、公式Youtubeチャンネル」で、                   1977-78シーズン、最終節で、奥寺康彦が決めたヘディング・ゴールが、           「ブンデスリーガ史上、ベスト・ヘディング・ゴール」に選ばれた。             なぜか日本のマスコミは、全員無視。

写真は、ブレーメン時代、奥寺。

1986年順位(前年同じ)

1位 デリオ・オニス(トゥーロン)
38才 フランスで得点王最多、5回

2位 フィジョール(A. マドリード)
36才 W杯1978優勝、GK

3位 奥寺康彦(ブレーメン)
34才 3月12日生

4位 ハリルホジッチ(パリSG)
34才 5月15日生。フランスで得点王2回

5位 アルディレス(トッテナム)
34才 8月3日生。 W杯1978優勝、MF。

6位 ダニエル・パサレラ(インテル)
33才 W杯1978優勝、 CB。

以降は
33才、ファルカン(ローマ)ブラジル代表、MF等。

この時代、超一流だらけだった。

奥寺は(欧州最強リーグ時代)ブンデスリーガで優勝1回、2位3回、ドイツ杯は優勝1回、準優勝1回、ベスト4が1回で、傑出した成績。    【2位3回のうち2回は勝ち点1位で、得失点差で2回優勝を逃した】

写真は、ケルン時代の奥寺康彦。

奥寺はケルン時代も、ブレーメン時代も、ずっと バイエルンと優勝争いをしていた。
ケルンでも、プレーメンでも対戦成績で勝ち越した。
ドイツ時代のほとんどを1位や2位チームで助っ人を務めたので、
「カイザースラウテルン以外のドイツ全チームに
勝ち越した」。

当時のブンデス・リーガは欧州最強リーグだった。
彼はその凄いリーグで強豪クラブの助っ人だった
(しかも1980年代の欧州は外国人枠がたったの2人だった。だから外国人助っ人は名手が多く、
長く活躍するのは難しい時代だった)。

彼は名手で、1980年代のブンデスリーガを代表
する外国人助っ人の一人だ。

写真はブレーメン時代の奥寺康彦。

奥寺康彦は在籍した
ケルン1977-78、ブレーメン1984-85、1985-86の3つのシーズンで、チームがリーグ最多得点だった。
この3シーズンのリーグ戦1試合当たりの得点率は、欧州最高の得点率だった 
(欧州5大リーグ全チーム[94チーム]中、1位)。

ケルン1978年(2.5)。
ブレーメン1985年(2.6)、1986年(2.44)
だった。

1980年代中頃、ブレーメンはなんと2年連続で バイエルン、バルセロナ、リバプール、ユベントスなどの得点率を上回り、欧州最高の攻撃力だった。
奥寺は左サイドハーフでアシストして
欧州最高得点率に貢献した。

奥寺康彦は欧州で戦った日本人の中で最も攻撃力のあるチームに在籍した選手だ。

奥寺は1978年、ケルンでリーグ優勝した時、チームはリーグ最多得点(86得点)で優勝した。
このチームの得点率は欧州最高だった(1試合当たり得点率2.5。ボルシアMGと同率1位)。
(欧州5大リーグ全チーム[94チーム]中、最高)
他国の1位との比較は、以下だ。
1978年 ケルン、ボルシアMG(2.5)、レアル(2.3)、モナコ(2.1)、エバートン(1.8)。

そしてブレーメン在籍最後の2年間(1985年、1986年)は再び得点率欧州1位だった。
ブレーメンは1984-85、1985-86年シーズン、2年連続でブンデスリーガ最多得点チームで
「2年連続でリーグ戦1試合当たりの得点率が欧州1位」
だから奥寺は
「欧州挑戦9年中、3年、つまり3分の1は欧州で最も攻撃力があるチームでシーズンを過ごした」
凄過ぎる話だ。

ブレーメン最後の2年間の具体的な成績は以下だ。
1985年、ブレーメン(2.6)、バイエルン(2.3)、エバートン(2.1)、バルセロナ(2.0)。

1986年、ブレーメン(2.44)、レアル(2.44)、バイエルン(2.4)、リバプール(2.1)。

(1980年代は、イングランド1部リーグ年間42試合でブンデスは34試合で、イングランドは試合数が8試合も多かった。しかし、1985年は試合数が少ないにも関わらず、得点数、得点率共に
ブレーメンが欧州1位でした。翌1986年は得点数はリバプールが欧州1位でしたが、
得点率はブレーメンが上で、レアルと同率で1位でした)。


1980年代中頃、ブンデス・リーガは現在より強豪リーグだったが、そこでブレーメンは最も攻撃力が高く、「攻撃の成績」は欧州最高だった。
当時ブンデスリーガはドイツ人選手のレベルが高く、攻撃力は他国を上回り最強だった。
現在、攻撃力では、日本人はスペインが一番でレアル・マドリード、バルセロナが頭に浮かぶだろうが、1970~1980年代は違い、ドイツが欧州1位リーグで強豪チームは強く、スペインより上だった(ドイツは欧州のカップ戦で最も好成績を残して欧州リーグ・ランキングは1976~1984年までずっと1位。1985年は3位、1986年は2位でした)。

ブレーメンが1位だった2年間は、
 1984-85シーズン、18勝(34試合)で、5勝が5得点以上。
 1985-86シーズン、20勝(34試合)で、5勝が5得点以上。
で、『5点以上の大量得点勝利』が全勝利の4分の1以上だ。 凄い破壊力だ。

という訳で日本人には意外な事実だろうが、奥寺の在籍チームは現在香川が在籍するドルトムント
より得点率は高く、遙かに大量得点勝利が多い。
私独自の定義で「5得点以上を大量得点勝利」とすると以下が、奥寺が出場した大量得点試合である。総計26試合もある。
以下の全試合に奥寺康彦は出場した。

【ケルン 1977-78】(3試合)〔注:この年、ケルンは「計6試合の5得点以上勝利の試合」があった。奥寺が出なかった試合で他に3試合、5点以上得点した〕

25d.  6-1  ハンブルガー
29d.  5-2  デュイスブルク
34d.  5-0  ザンクトパウリ

【ケルン 1978-79】(2試合)
15d.  5-2  ボーフム 
24d.  5-0  ドルトムント
 
【ケルン 1979-80】(3試合)
05d.  8-0  ブラウンシュバイク
20d.  6-3  デュッセルドルフ
33d.  5-0  ブレーメン

【ブレーメン 1981-82】(1試合)

33d. ブレーメン 5-1 デュイスブルク

【ブレーメン 1982-83】(3試合)
28d.  6-0  ブラウンシュバイク
29d.  5-2  デュッセルドルフ
32d.  5-1  ビーレフェルト

【ブレーメン  1983-84】(4試合)
02d.  5-2  ボーフム
15d.  8-1  オッフェンバッハ
18d.  5-0  マンハイム
28d.  5-2  ユルディンゲン
  
【ブレーメン 1984-85】(5試合)
03d.  6-2   ケルン
09d.  5-2   ハンブルガー
13d.  7-1   カールスルーエ
17d.  6-0   ドルトムント
31d.  6-1   カイザースラウテルン 

【ブレーメン 1985-86】(5試合)
02d.  8-2  ハノーバー
14d.  6-1  ユルディンゲン
17d.  6-0  シュツットガルト
24d.  7-3  デュッセルドルフ
30d.  5-0  レバークーゼン

写真は、ヘルタ・ベルリン時代の、奥寺康彦。

シーズン開幕2カ月後から入団し、
レギュラーで活躍した。25試合8得点だった。
(奥寺は、ボランチ、右SBを務めた)。
チームは「42試合で123得点」も挙げ、
「ブンデス2部、シーズン最多得点、最高得点率」
記録を作った。
この記録は未だに破られていない
(2019年、現在)。

奥寺の行くチームは「攻撃の成績」が素晴らしい。
彼は得点能力が高いMFではなかったが、
クロスを上げアシストをし、
前線に出てヘディングで競り合うと大体、勝っていた。
それらは「チーム得点力」が高くなる要因を作っていたと思う。

【必見】 『欧州一攻撃力チームの歴史』 攻撃力の変遷が分かる。(日本のサッカー雑誌では絶対に載っていない資料です)。     これで日本人は、奥寺康彦の凄さ、ドイツの凄さがより分かる。

まず、「欧州一攻撃力チームの歴史紹介」の前に、UEFAリーグ・ランキングについて、
説明させて下さい。
なぜなら、私はこのランキングを歴史紹介中に、引用する事が多いからです。

【UEFAリーグ・ランキング】

UEFAリーグ・ランキングとは、
『過去5年間における、欧州の国際大会(欧州CL、UEFAカップ等)の成績で欧州のリーグ順位を
決めるモノ』です。

それで、「欧州1位リーグ」は時代と共に、変わっています。
以下が、欧州1位リーグの変遷です(この統計は1960年以降について発表されています)。

1960~1966 スペイン
1967~1975 イングランド・リーグ
1976~1984 ブンデス
1985     イングランド・リーグ
1986~1990 セリエA
1991     ブンデス
1992~1999 セリエA
2000~2008 スペイン
2009~2012 プレミア・リーグ
2013~2018 スペイン

日本の馬鹿マスコミが、「中田英寿は、欧州最高峰のセリエAで活躍した」と毎回、常套句で
使うが、それはほぼ大ウソである。
「中田の欧州2年目、1999ー2000年シーズン以降、セリエAはずっと欧州2位リーグ」である。
中田は欧州時代、ほとんど欧州2位リーグに居て、1年目だけ欧州最高リーグで戦ったのだ。
それぐらい日本のマスコミは「公式のリーグ・ランキングの知識」を一切、持ってない
(日本のTV・雑誌で「UEFAリーグ・ランキング」を紹介したのを見た事がない。
だから彼等は存在自体を知らないと思う)。
それで雑誌を作り、テレビ番組を作り、国民にウソを教えているのだ。
2018年9月には、雑誌「Number」が「中田が欧州最高峰のセリエAで活躍した」と懐古的特集を
組み、編集長がラジオでもそう話していたが、それぐらいこの雑誌は知識が全く無い。
『2019年、アジア・カップ』で、テレビ朝日が試合中に、
「武藤は欧州最高峰のプレミア・リーグに居る」とテロップで紹介していた。
プレミアは現在2位で、スペインが1位リーグだ。この様に、日本のテレビは知識がない。
本当に長く、欧州最高峰リーグに居たのは、奥寺康彦である。
更に強豪チームに所属し、優勝したのは彼一人である(欧州1位リーグ在籍期間は、通算7年。
2部に約半年、居たのを除いても6年半、居た。注:彼の欧州9年のうち、最後の2年、ブンデスは欧州1位ではなかった)。

余談ですが、このリーグ・ランキング以前の、1950年代について説明します。
「欧州チャンピオンズ・カップ」(欧州の国際クラブ大会)が1955年に創設されたので、
UEFAリーグ・ランキングは5年後の1960年を最初に紹介されています
(1955年からの5年間の成績を元に、1960年からの順位を紹介している)。
それで1960年の1位はスペイン・リーグです。
1960年に1位という意味は、1955年からの5年の成績が一番優れていたという意味ですから、1950年代後半は、スペインが一番強かったという事です
(実際、1955年~1960年迄、レアル・マドリードが欧州5連覇し、この頃、バルセロナも強かった)。
そして1950年代前半も、スペインは強かったので、公式ランキングは発表されてませんが、
「1950年代は、ほぼ毎年、スペインが欧州1位リーグだった」と考えて差し支えないです。

そして更に余談ですが、1955年開始の「欧州チャンピオンズ・カップ」は第1回大会から、
「欧州16ヶ国の、国内リーグ優勝チームが参加した」という整備されていた大会です。
日本人は「第1回大会等、初期は参加チームが少なくていい加減だったんだろ。
だから、レアル・マドリードが5連覇したのは大した事ないだろ。今と比較できない。
ディステファノ、プスカシュが凄いと言ったって、今と違い参加国の少ない中で勝ってただけだろ」
と軽視している人間が腐る程、居ますが、全く違います。
第1回大会からスケールの大きな大会でした。
そして、2年目は22チーム、3年目は24チーム、4年目は26チーム、5年目は26チーム
参加しました。そしてレアル・マドリードは大会5連覇しました。
(ちなみに6年目は28チーム参加で、レアルは1回戦で、バルセロナに敗れました)
それぐらい当時のレアル・マドリードは驚くべき持続力で、強さを発揮しました。
欧州ではこの大会以前に、1930年代~1950年代前半に既に
ラテン・カップ(南欧5カ国参加の国際大会)、
ミトローパ・カップ(中央ヨーロッパ、約5ヶ国参加の国際大会)等を
毎年、開催しており、既に国際大会の歴史・実績がありました。
だから、欧州チャンピオンズカップ第1回大会を、16ヶ国参加のスケールで開始できた訳です。

さて、本題です。
欧州5大リーグ(イングランド、ドイツ、スペイン、イタリア、フランス)の全チーム中で、
『歴代得点率最高チーム』(注:国内リーグ戦の得点率)。1950~2018年まで69年間のデータを紹介します。
「時代・リーグによって試合数が違い、得点数だと試合数が多いリーグのチームが1位になるので、得点率1位」を紹介しています。
これは「国内リーグ戦」だけの試合で、国際試合(欧州の大会である、欧州CL、UEFAカップ等)は含まれてません。

皆さんは、このデータを「国際大会の試合を含めて集計してないのは不十分で、奇妙だ」と
感じるかも知れませんが、私は攻撃力の高さを測るにはこれで十分だと考えます。
私は国際試合、国内カップ戦まで含めると調べるのが大変なので、国内リーグ戦だけ調べました。
それでも十分に、欧州における各国の「栄枯盛衰の歴史」が分かります。

また、ポルトガル、オランダという欧州5大リーグ以外で、攻撃力が凄いと評判だったチームに、1960年代のポルトガルのベンフィカ、1970年代のオランダのアヤックス(欧州3連覇)、
1990年代中頃、アヤックス(再び2年ぐらい欧州を席巻した)等が在りました。
これらについて考えるとこのデータだけだと不完全に思えますが、この3チームを予め補足的に考えていれば、このデータで十分に「欧州の攻撃力の凄かったチーム」の歴史は網羅できていると思います。

【解説】
1950年代から1960年代前半は、レアル・マドリード、バルセロナが強かったので
スペイン・チームの攻撃力が高い(レアル・マドリードは1955年から欧州5連覇を達成した)。
1960年~1966年迄、スペインは欧州最強リーグだった(UEFAリーグ・ランキングで1位)。

レアルが欧州5連覇を達成した1960年の、国内リーグ戦の得点率はなんと、「3.2」だ。
これは1950年~2018年迄の69年間で、史上最高である。欧州史上最高の攻撃成績を残した。
(注:前年、1959年のバルセロナと並び最高)
このチームはこの年(1960年)、欧州5連覇して、チャンピオンズ・カップ決勝戦で7点取った。
7-3でフランクフルトに勝利した。国際大会でも攻撃力を見せつけた。
この数字は未だに決勝戦の最多得点だ(ディステファノが3得点、プスカシュが4得点した)。
日本人には「決勝で7点なんて、昔は守備のレベルが低かったからだろ」と考える人間が、
腐る程、居ますが、違います。この年のレアルは「欧州史上最高の攻撃成績」で
彼らが強過ぎたのです。

翌1961年シーズンも、レアルの得点率は高く2.97で、四捨五入すれば3.0である
(しかし、この年、レアルは欧州CCでは1回戦で宿敵バルセロナと当たり、
2試合合計、3-4で敗れて、欧州6連覇の夢は断たれた)。
日本人の中には「昔の話、時代が違う」とディステファノ、ペレ等の古い時代を
全否定にかかるアホが死ぬほど多いが、このように数字で見れば、
当時のレアル・マドリードは「1試合平均得点率、3点台」を記録した稀有なチームで、
同時に欧州5連覇まで達成した、『怪物的チーム』であった事が分かる。
このチームは『20世紀、欧州最強チーム』と言って過言ではないと思う。


1953年から、レアル・マドリードにはアルフレッド・ディステファノという名手が入団し、
1958年からはプスカシュという「欧州最高のストライカー」が加入したので攻撃力が高かった。
しかし、ディステファノが退団した1964年以降、すっかりレアルは得点率欧州1位にならなくなった。
スペイン・リーグは、大スター2人の引退と共に、レベルが落ちた。
1964年にブンデスリーガが開始されると、ドイツは強豪国なので得点率でいきなり素晴らしい成績を残し、欧州1位を記録した。その後は、ドイツ勢がスペイン勢より優秀な成績であった。

1967年から1975年迄、イングランドが欧州1位リーグだった(UEFAリーグ・ランキング1位)。
イングランドは9年間も欧州1位リーグだった
(マンチェスター・ユナイテッドは1968年に欧州王者になった)。
しかし、イングランド・チームがこの9年間で、得点率で1位になった事は1度もなく、
ドイツのバイエルンが4回も1位になった。
これは、バイエルンに「ドイツ史上最高のストライカー」で、当時、欧州最高のFWだった
ゲルト・ミュラーが居たからである。彼が点を取りまくった。


(注:ドイツは1963年にプロ・リーグ、『ブンデスリーガ』が始まりました。
それ以前は、アマチュアで全国リーグがありませんでした。だからこのデータでは、ドイツの成績は1964年のブンデスリーガ開始からで、それ以前の年のドイツ・チームの成績は無効扱いで載せていません)

【欧州歴代、得点率1位チーム。1950~2018年】(欧州5大リーグ、全チームで1位 )

                  得点率            <国内リーグ戦順位>
1949-1950 ボルドー(仏)    2.6 88得点(34試合):1位。
1950-1951 ビルバオ(西)    2.9 88得点(30試合):7位。
1951-1952 バルセロナ(西)   3.1 92得点(30試合):1位。
1952-1953 バルセロナ(西)   2.7 82得点(30試合):1位。
1953-1954 バルセロナ(西)   2.5 74得点(30試合):2位。
1954-1955 R.マドリード(西)  2.7 80得点(30試合):1位。
1955-1956 R.マドリード(西)  2.7 81得点(30試合):3位。 
1956-1957 サンテティエンヌ(仏)2.6 88得点(34試合):1位。
1957-1958 ランス(仏)     2.6 89得点(34試合):1位。
1958-1959 バルセロナ(西)   3.2 96得点(30試合):1位。

1959-1960 R.マドリード(西)  3.2 96得点(30試合):1位【レアル欧州CC5連覇】
1960-1961 R.マドリード(西)  3.0 89得点(30試合):1位。
1961-1962 バルセロナ(西)   2.7 81得点(30試合):2位。
1962-1963 R.マドリード(西)  2.8 83得点(30試合):1位。
1963-1964 ケルン(独)     2.6 78得点(34試合):1位。【ブンデス創設年】
1964-1965 1860ミュンヘン(独) 2.3  78得点(34試合):4位。
1965-1966 1860ミュンヘン(独) 2.4  80得点(34試合):1位。 
1966-1967 サンテティエンヌ(仏)2.2 82得点(38試合):1位。
1967-1968 ボルシアMG(独)   2.3 77得点(34試合) : 3位。 
1968-1969 ボルドー(仏)    2.3 77得点(34試合) : 2位。

1969-1970 バイエルン(独)   2.6:  88得点(34試合) :2位。
      サンテティエンヌ(仏)2.6: 88得点(34試合) : 1位。  
1970-1971 マルセイユ(仏)  2.8: 94得点(34試合) :1位
1971-1972 バイエルン(独)  3.0:101得点(34試合) :1位【1972年以降、ドイツ
1972-1973 バイエルン(独)  2.7: 93得点(34試合):1位  16年連続1位】
1973-1974 バイエルン(独)  2.8: 95得点(34試合):1位。
1974-1975 フランクフルト(独)2.6: 89得点(34試合):3位。
1975-1976 フランクフルト(独)2.3: 79得点(34試合):9位。
1976-1977 フランクフルト(独)2.5: 86得点(34試合):4位。
1977-1978 ケルン(独)    2.5: 86得点(34試合):1位 <奥寺在籍>
       ボルシアMG(独)  2.5: 86得点(34試合):2位。 
1978-1979 ハンブルガー(独) 2.3: 78得点(34試合):1位。

1979-1980 ハンブルガー(独) 2.5:86得点(34試合):2位。
1980-1981 バイエルン (独) 2.6:89得点(34試合):1位。
1981-1982 ハンブルガー(独) 2.8:95得点(34試合):1位。 
1982-1983 シュツットガルト(独)2.4:80得点(34試合):3位。
1983-1984 バイエルン(独)  2.5:84得点(34試合):4位。
1984-1985 ブレーメン(独)  2.6: 87得点(34試合):2位 <奥寺在籍>
1985-1986 ブレーメン(独)  2.44:83得点(34試合): 2位 <奥寺在籍>
       R.マドリード(西) 2.44:83得点(34試合): 1位
1986-1987 ボルシアMG(独)  2.2: 74得点(34試合):3位。
1987-1988 R.マドリード(西) 2.5: 95得点(38試合):1位。
1988-1989 R.マドリード(西) 2.4: 91得点(38試合):1位。

1989-1990 R.マドリード(西) 2.7:101得点(38試合):1位 <H.サンチェス在籍>
1990-1991 バイエルン(独)  2.2: 74得点(34試合):1位。
1991-1992 バルセロナ(西)  2.3: 87得点(38試合):1位。
1992-1993 バルセロナ(西)  2.3: 87得点(38試合):1位。
1993-1994 バルセロナ(西)  2.4: 91得点(38試合):1位【バルサ得点率3連覇】
1994-1995 ブレーメン(独)  2.1: 70得点(34試合):2位。
1995-1996 ドルトムント(独) 2.2: 76得点(34試合):1位。
1996-1997 バルセロナ(西)  2.7:102得点(38試合):2位<ロナウド[BRA]在籍>
1997-1998 A.マドリード(西) 2.1: 79得点(38試合):7位。
1998-1999 バルセロナ(西)  2.3: 87得点(38試合):1位。
1999-2000 マンチェスター(英)2.6: 97得点(38試合):1位【英国初、得点率1位】

2000-2001 R.マドリード(西) 2.1: 81得点(38試合):1位。
2001-2002 マンチェスター(英)2.3: 87得点(38試合):1位。
2002-2003 R.マドリード(西) 2.3: 86得点(38試合):1位。
2003-2004 ブレーメン(独)  2.3: 79得点(34試合):1位。
2004-2005 アーセナル(英)  2.3: 87得点(38試合):2位。
2005-2006 ブレーメン(独)  2.3: 79得点(34試合):2位。
2006-2007 ブレーメン(独)  2.2: 76得点(34試合):3位。
2007-2008 R.マドリード(西) 2.2: 84得点(38試合):1位。
2008-2009 バルセロナ(西)  2.8:105得点(38試合):1位 <メッシ、在籍>
2009-2010 チェルシー(英)  2.7:103得点(38試合):1位。

2010-2011 R.マドリード(西) 2.7:102得点(38試合):2位。
2011-2012 R.マドリード(西) 3.2:121得点(38試合):1位。
2012-2013 バルセロナ(西)  3.0:115得点(38試合):1位。
2013-2014 R.マドリード(西) 2.7:104得点(38試合):3位。
2014-2015 R.マドリード(西) 3.1:118得点(38試合):2位。
2015-2016 バルセロナ(西)  2.9:112得点(38試合):1位。
2016-2017 バルセロナ(西)  3.0:116得点(38試合):2位。
2017-2018 パリSG(仏)    2.8:108得点(38試合):1位。

【解説】
ブンデスリーガは1976年~1984年迄、UEFAリーグ・ランキングで1位でした。
この時代、ドイツは「欧州で一番レベルの高いリーグ」だった事もあり、
1972年~1987年まで、なんと『16年間も連続で、ドイツ・チームが欧州最高得点率』を
記録しました
(1970年代~1980年代中頃まで、ずっとドイツが「欧州最高の攻撃力」だったという事です)。
この頃のドイツは、ドイツ人のタレントが豊富で名選手が数多く居ました。
奥寺康彦は、この「ドイツ・サッカーの黄金期」と言える時代に、ブンデスリーガで外国人助っ人
として活躍しました。奥寺が在籍した1978年のケルン、1985年、1986年のブレーメンは
『欧州最高得点率』を記録しました(欧州5大リーグ全チーム[94チーム]中、1位)
奥寺がこのような凄いチームに在籍して活躍していた事は、
「当時、日本がプロ・リーグがない国だった事」を考えると、本当に驚くべき事だと思います。

そして、1986年にレアル・マドリードが最高得点率を記録して、ここからスペインの攻撃力が
上がり、現代のサッカー・ファンが抱く、「攻撃と言えば、スペイン・サッカー」という
イメージ定着が始まったと思います。
(1980年代中頃、レアルはメキシコ人FW、ウーゴ・サンチェスが点を取りまくった。
彼の功績が大きい。スペイン・チームの欧州得点率1位は1963年以来、なんと23年振りだった。
更にレアルは、その後、1988~1990年迄、「3年連続、欧州最高得点率」を記録した)

1980年代中頃から、スペイン・リーグは1960年代以来、復活したと言えます。
1980年代後半には、ヨハン・クライフがバルセロナ監督に就任して、「攻撃サッカー」を標榜して見事成功して、バルセロナが1992年~1994年迄「3年連続、欧州最高得点率」を記録しました。
クライフがスペインで成功した事で、『スペイン・リーグの攻撃的スタイル』は国内で完全に定着したと思います。
(注:当時、クライフのチームは「ドリーム・チーム」と言われていた。
1992年にバルセロナは欧州王者になり、スペイン・クラブとして26年振りの欧州王者に輝きました)。

1990年代は、スペイン・チームが「欧州最高得点率」を最も多く記録して、
ドイツより攻撃力が上回る状態となりました。
この原因は、「ドイツがスペイン程、攻撃的スタイルでなかった」という事よりも、

①ドイツ人選手のタレント・レベルが1980年代より落ちた。

②ドイツのエースFW、フェラー、クリンスマン、ビアホフ等が、セリエAに移籍したので、
ドイツ強豪チームの得点成績が落ちた
(1990年代、セリエAは経済力が一番あった為、ドイツ代表エース格は、皆、母国に留まらず、
イタリアへ移籍した)。

③外国人助っ人がブンデスより、「リーガ・エスパニョーラ」の方がレベルが高く、
彼らが期待通りに活躍した。

が大きな原因であると思います。

スペインのバルセロナには、ブラジル代表エース級FWが、在籍しました。
ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、リバウド等は、期待通りに活躍して、彼らの得点能力の高さは
目を見張るものがありました(1980年代にもバルセロナには、ロベルト・デイナミッチという
ブラジル代表のエース・ストライカーが在籍したが、期待外れで活躍できなかった)。
2009年以降は、「シーズン100点越え」が当然になっていて現在では普通の事に感じますが、
(① オフサイド・ルールを2回変更して、FW有利にした[1990年、2005年の変更]、
 ② 2006年頃からボールを軽くし変化し易くして、GK不利になった等は、かなり影響している)

1997年にバルセロナが、ロナウド・ナザリオの大活躍で、「102点」を記録した年は、
1972年のバイエルンの101点、1990年のレアル・マドリードの101点を抜いて、
『欧州新記録、シーズン最多得点更新(102点)』という事で、かなり話題になりました。
(注:「それなのにリーグ優勝できなかった、レアルに負けて2位だった」事も大きな話題になりました。最近、フィーゴ[当時、バルセロナ所属]は未だに「あれだけ点取ったのに優勝できなかった」と苦笑いして話してました)。

1990年代、「スペインの方がドイツより攻撃的なスタイルだった」のは確かですが、
ドイツが攻撃的サッカーでなかった訳ではありません。
私は、「両リーグFWのタレントの差が大きくて、それが、そのまま得点数に表れた」というのが、
一番の理由だと思います。

1986年~1990年、1992年~1999年迄、セリエAが欧州最高リーグでした
(UEFAリーグ・ランキング1位)。優秀なFWが数多く集まっていました。
しかし、「なぜセリエAは未だに1チームも欧州最高得点率を記録した事がないのか?」
という大きな疑問を持つ人も居ると思いますが、理由は、イタリアという国は、とにかく
「守備マインド」の強い国だからです。攻撃より守備なんです
(特に20世紀中のイタリアはずっとそうでした)。
だから、1990年代、ずっと欧州最強リーグであったにも関わらず、1チームも欧州最高得点率を
記録したチームがありませんでした(未だにありません [注:1950~2018年までの話です])。
日本では1980年代後半、ACミランの「オランダ・トリオ」が有名で、アリゴ・サッキが
「攻撃的スタイルのチームを作った」と伝説のように説明されますが、
実際、あの時代の得点数を見てみると、全く高くないです。
ACミランは、リーグ優勝した年も、リーグ最多得点チームですらありませんでした。
セリエAのチームが守備が強いという影響もありますが、得点率は2.0以下で高くはなく、
歴史的名CF、マルコ・ファン・バステンが居た事や、ルート・フリット、ライカールトなど迫力ある巨人達のゴール・シーンを繰り返しTVで見せられて「ミランは攻撃力が凄かった」という印象を
日本人は持ち錯覚しています。偽りのイメージが伝播して、事実が霞んでいるのです。
この原因は、ミランが欧州の国際大会(欧州チャンピオンズカップ)で、
1988年シーズン、準決勝、決勝の大舞台で5-0、4-0と2回続けて大勝して、華々しく優勝した事が大きいと思います。
その為「あのミランは攻撃が凄かった」と強く印象づけられてしまっているのです。
実際は、年間通しては、得点率が決して高いチームではなく、攻撃力が際立って高いチームであったとは言い難いです。

セリエAファンの方、朗報です。
「セリエAのチームは、今まで一度も、『得点率、欧州最高』を記録したチームがない」と
私は書きましたが、1950年以前を調べたら、なんと1チームだけ見つかりました。
それは、「トリノFC 1947-1948」チームです。
このチームは、当時、「グランデ・トリノ(偉大なトリノ)」と呼ばれていて、
第二次世界大戦を挟み、「セリエA、5連覇」をした伝説のチームです。
そしてリーグ4連覇を達成した1948年に、125ゴール(リーグ戦40試合)を挙げ、
なんと「得点率、3.1」という驚異的な数字を叩き出し、欧州1位になりました。
この1948年の他の国の得点率1位との比較は、
トリノ(3.1)、A.マドリード(2.8)、マルセイユ(2.4)、ウォルバーハンプトン(2.0)
です。
見事、イタリア・クラブが1位です。
イタリアのチームが「得点率、3点台」を出したなんて信じられませんね
(多分、イタリア史上このチームだけでしょう。100点以上、得点しているのも信じられません)。
しかし、トリノFCは翌年、1949年5月4日、飛行機事故で18人が亡くなりました
(搭乗者、全員死亡)。
この様な「イタリア史上最高の得点率を叩き出したスーパー・チーム」が、
翌年、飛行機事故で消滅したのです。なんて悲しい出来事でしょう。
このトリノFCは、1947年には「イタリア代表先発メンバー11人のうち10人がトリノの選手」
という事を実現したそうです。
そして、翌1948年も、「イタリア代表先発のうち7~8人がトリノの選手」という状態でした。
本当に「グランデ・トリノ」はその名の通り偉大で、途轍もなく凄かったんですね。
この当時、「イタリア代表 = トリノFC」状態だった訳です。
こんなスーパーチームが墜落事故により、消滅してしまったのですから、
イタリア・サッカー界にとって途轍もなく大きな損失だった事が分かります。
事故がなければ、イタリアのW杯優勝回数は、もっと増えていたかも知れませんね。
私はトリノFC以前の1940年代、1930年代は調べていませんが、セリエAファンで興味のある方は
自分で調査して下さい(多分、他にイタリアのチームで、「欧州最高得点率1位」は調査しても
無いと思いますけどね)。

日本の雑誌には、このような知識は載ってませんので「蘊蓄(うんちく)」を披露したい方は、
どうぞ使って下さい。亡くなったトリノ選手達も偉業を忘れられずに語られる事は嬉しいはずです。天国で喜ぶでしょう。

日本では「1958年、マンチェスターユナイテッド飛行機事故」は、よく紹介されますが、
トリノFCの方が更に悲惨で、彼らはマンチェスターより強いチームでした。
もう少し、日本で紹介されても良い事故だと思います。

2000年にマンチェスター・ユナイテッドがイングランドのクラブとして、初めて欧州最高得点率を記録しました(注:1950年以降、初です。1950年以前は調べていないので分かりません。
興味のある方はご自分でお調べ下さい)。

イングランドは1992年に「プレミア・リーグ」という新リーグを創設して、
スポーツ・ビジネスを発展させ、以前より経済力を持つリーグとなる事に成功しました。
それで7年ぐらい経って、リーグの充実ぶりが、漸くスポーツ成績にも反映されて、
1999年にマンチェスター・ユナイテッドが欧州CL優勝して、欧州王者に輝きました
(英国クラブとして15年ぶりでした)。
久し振りに欧州王者のチームが生まれて、プレミア・リーグは、
セリエA、リーガ・エスパニョーラなどに比肩するまで盛り返す事に成功した訳です。
その翌2000年と、2002年にマンチェスターUtd.は、欧州最高得点率で国内リーグ優勝しました。
その後、2005年、アーセナル、2010年、チェルシーも欧州最高得点率を叩き出しました。
2000年代に、プレミア・リーグのレベルが上がったのが分かります。

2012年にレアル・マドリードが得点率3.2を記録し、1960年のレアル、ディステファノ時代以来、
52年振りに得点率3.2を記録しました。しかし、2012年のレアルは正確には3.18で、四捨五入して3.2です。依然として、1960年のレアルが史上最高成績です。
意外かも知れませんが、2010年代、メッシのバルセロナ、C.ロナウドのレアルが
毎年、たくさん点を取っていましたが、「1960年、ディステファノのレアル・マドリード」より、得点率は低いのです。


とにかく、日本では「ブンデスリーガは大したことない」と歴史的にも思っている人が多いですが、このデータ・説明により、「ブンデスリーガは昔は凄かった、攻撃も凄かった、スペインより凄かった、奥寺康彦の居た時代は凄かった、欧州一番だった」という事を理解して頂ければと思います。

『欧州最高得点率のチームに在籍した日本人』は未だに奥寺のみだ。
しかも3回も経験したのは本当に凄い事である。

写真は、ブンテス歴代4位、213得点を挙げた
名FW、マンフレート・ブルグスミュラー
(ブレーメン時代)

1985-86シーズン、彼と奥寺はブレーメンで1年、攻撃陣を形成。リーグ最多得点(83得点/34試合)と欧州最高得点率(2.4)を残した
(欧州5大リーグ全チームで1位)。
前年1984-85シーズンも、ブレーメンは
リーグ最多得点(87得点)で、
欧州最多得点 & 最高得点率(2.6)だったので
2年連続で欧州最高の攻撃力を記録した。

奥寺は他にもケルン時代、1978年に、
名FW、ディーター・ミュラーとも攻撃陣を形成。
欧州最多得点(86得点)で、欧州一の攻撃力でリーグ優勝した。

【ブンデスリーガ歴代得点ランキング [2018年10月現在]】()内は得点率。*奥寺の時代の選手
この順位表で奥寺康彦の時代の選手が10位中、6人も居る。
歴史的に、奥寺康彦が居た時のブンデスリーガは名選手が多かった。
彼らは奥寺の対戦相手やチームメイトだった。11位には奥寺がケルン時代、ポジションを奪った  ハーネス・レアーが居る。それぐらい奥寺の時代のブンデスリーガは欧州最強リーグだったので、 名選手が多かった。今の方が圧倒的にタレントが出ない。
30年経っても1位~4位の順位は不変という酷さだ。
それぐらいドイツは名選手が出ない状況になっている。

1位ゲルト・ミュラー    365点(0.85) * (奥寺の対戦相手)
2位クラウス・フィッシャー 268点(0.5) * (奥寺の対戦相手)
3位ユップ・ハインケス   220点(0.6) * (奥寺の対戦相手)
4位マンフレート・ブルグスミュラー 213点(0.48)*【奥寺と攻撃陣を形成した】 
5位クラウディオ・ピサーロ 192点(0.43)   <現役選手>
6位レバンドフスキー    184点(0.7)   <現役選手>
7位ウルフ・キルステン   182点(0.52)
8位ステファン・クンツ   179点(0.4)
9位ディーター・ミュラー  177点(0.58) * 【奥寺と攻撃陣を形成した】
9位クラウス・アロフス   177点(0.42)
11位ハーネス・レアー     166点(0.44) * 【奥寺のチームメイト。奥寺がポジションを奪った】


ドイツ時代、奥寺康彦は、ディーター・ミュラー、ルディー・フェラー、ウーベ・ラインダース、
マンフレート・ブルグスミュラーなどの歴史的名FWにクロスを上げてアシストをしました。
前述の様に奥寺のブレーメンは1985年、1986年と2年連続で欧州最高得点率(リーグ戦1試合当たりの平均得点が最高)を記録し、欧州最高の攻撃陣だった
(1985年は1試合当たり2.6点、1986年は2.44点)。
奥寺はこの2年は左サイドハーフを務め、大活躍した。
その為、奥寺は1985-86年シーズンが終了した時、既に34才と高齢だったが、欧州最高の攻撃陣の一人としてアシストで貢献していたので、レーハーゲル監督は1年契約延長オファーを出した (チームがこれだけ魅力的なサッカーを実現できていたので当然である。当時、34才で欧州で
外国人助っ人ができた選手はほとんどおらず、奥寺は欧州で3番目に高齢助っ人だった。
それ程に奥寺が世界の一流選手で、偉大であったという事だ)。
しかし、奥寺は日本復帰を決断してこのオファーを断った。
翌1986‐87シーズン、ブレーメンは「3年連続、欧州最高得点率」を達成できず、
「得点数は前年より22点も減り、65得点(得点数リーグ5位)だった」。
リーグ戦の順位も5位だった
(ちなみに、それ以前の1984-85、1985-86シーズンは国内リーグ順位は、2年連続で2位だった)
この年は前年20得点を挙げチーム得点王だった長身FWフランク・ノイバートが怪我で5試合0得点という酷い成績になり、シーズンを棒に振った。そしてアシスト役の奥寺も退団していたので、  ブレーメンのチーム力は大きく落ちていた。
ブレーメンには奥寺がクロスを上げて、長身ノイバートがヘディングで決めるスタイルがあった。
こうして『中堅クラブ・ブレーメンが2年連続で欧州最高の攻撃力を持っていた』という、
サッカーの歴史でも珍しい、彼らの『攻撃の黄金時代』は終わった。

奥寺康彦の凄いポイントを6つ紹介する。
まず最初は「34才でもドイツ2位チーム主力で通用していた事」だ。
(1986年時、34才でまだ1年契約延長提示される程、優秀だったが、日本復帰した)。
奥寺は1986年時、欧州5大リーグで「3番目に高齢、外国人助っ人」だった。
「1985年、1986年は、2年連続でドイツで最高齢、外国人助っ人」だった。

【1986年、欧州助っ人、年齢順位】(1985年も同じ順位だった)
1位 デリオ・オニス(トゥーロン)38才。
2位 ウバルト・フィジョール(A.マドリード)36才。
3位 奥寺康彦、34才(3月12日生)。
4位 同い年、ハリルホジッチ(パリSG)5月15日生。
5位 オズワルド・アルディレス(トッテナム)8月3日生。

名選手だらけだった。

凄い点、第2は「欧州CCでアジア人、初ゴール(しかも準決勝で)を挙げた事」だ。
今後、多くのアジア人が欧州最高の舞台でゴールを決めるだろうが、最初の選手は奥寺康彦だ。

奥寺の凄い所3つ目は、数多くのポジションを務められる事だ。
中田英寿、香川真司、本田圭佑は強豪クラブに移籍したらベンチに座ったが、奥寺はこの優れた特徴により欧州最強リーグで先発で通用した。他の日本人と格の違いを示した。
奥寺はFW、サイドハーフ、ボランチ、SB、CBができた。
奥寺はFW、MF、DF全て出来て、両足が器用なので両サイドでプレイできた。前から後ろから、 左から右まで全部できた。奥寺のこの稀に見る『超ユーティリティー性』は欧州で成功した最大要因だった。
ケルンでは両ウィング、ヘルタ・ベルリンではボランチと右SB、ブレーメンでは主に左サイドハーフであったが 「監督からCB、CFを命じられた試合もあった」と語り、それもこなした。
奥寺は「ドイツでは、ほとんどのポジションでプレイした経験がある」と語っている。
ちなみに奥寺はヘルタ時代、初めてサイドバックを務めた事に関して
「SBはオーバーラップする際、目の前に広大なスペースがあって、それをスピードを生かしてプレイするのが自分にとても向いていた。だからウィングでなくなった事に未練はなかった」
と語っている。
またブレーメンのレーハーゲル監督は奥寺の多彩さを称賛していた。左サイドハーフの奥寺が攻撃にも守備にも貢献して、中盤でチームのバランサーとしても働き、豊富な運動量で色々な役割をこなして広くプレイする特徴を「奥寺を得たら3人選手が居るのと同じ。奥寺は3人分の仕事ができる名手」と述べていた。

凄い所4つ目は、『外国人2枠時代に助っ人』だった事だ。
昨今、ヨーロッパに多くの外国人選手が居るが「地元の選手より下手ではないか?」と実力に疑問を感じる選手も多い。
しかし奥寺の時代に成功した外国人は明らかに自国の選手よりレベルが高かった。
欧州強豪リーグの外国人助っ人は世界のより抜きの名手が選抜されて来ている感じだった。 
しかも奥寺は上位チームの外人助っ人だったのでハイ・レベルな訳だが、日本人はアホなので優秀さが分からないのである。

奥寺の凄い点5つ目は、身体能力だ。恐らく日本サッカーの歴史で奥寺より強烈なシュートを撃てる選手はほとんどいない。そしてヘディングが強い。奥寺の元同僚で長谷部の監督となったトーマス・シャーフは「長谷部より奥寺の方がダイナミックだった」と語っているが、スピード、キック力など奥寺は基本の身体能力が高い。ドイツ人とプレイしていて遜色が無かった。
奥寺はドイツ移籍当初について「強豪ケルンのドイツ人スター選手達と力の差をほとんど感じなかった」と話し、「彼らはテクニックやパスのうまさを持っていたけど僕は彼らにないスピードを持っていた。そしてウィングでゴール・チャンスを作るのが仕事だった」と話している。
それだけ身体能力が世界トップ級だったという事だ。

奥寺の凄い点、最後は、日本復帰直後、1986年に古河電工(現在のジェフ千葉)の一員として
「アジア・クラブ選手権(現在のACL前身の大会)に参加して日本初のアジア王者になった事」
サウジアラビアの首都リヤドで、アル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、
遼寧FC(中国)と決勝リーグを戦い、3連勝して優勝した。
奥寺はアル・ヒラル(準優勝チーム)戦に4-3で勝利した際、ハットトリックの大活躍をした。
「アウェーで中東クラブ戦でハットトリック」した日本人は未だに奥寺だけで、
決勝でしたアジア人は未だに奥寺だけである。
多分、日本人で決勝でハットトリックする選手は永遠に出て来ないだろう。
日本クラブのアジア初優勝は奥寺康彦の大活躍によってもたらされた。
日本サッカーでは、欧州でのパイオニア(開拓者)もアジアでのパイオニアも奥寺康彦だったという事だ。

1978年、ケルン2冠達成、記念写真。

中段右から2人目が奥寺康彦。その隣(右端)が 2年連続リーグ得点王、ユーロ1976年大会得点王だったディーター・ミュラー。
中段左から2人目がMFクルマン、後段右端がMF フローエ、2人はボランチでW杯1974年優勝
メンバー。
ベッケンバウアーは1970年代後半、
「フローエはドイツでナンバー1の選手だ」
と称賛した。
中段左端がノイマン。彼はチームの新司令塔だった。
前列左端がベルギー代表FW、
ロジャー・ファン・グール。 

GKがドイツ代表シューマッハ
(W杯1986、大会最優秀選手、次点)。

前列右端がCBシュトラック。
以上が、主力だ。

1984-85シーズン、ブレーメン集合写真。

前列一番左が奥寺康彦(33才)。
その隣がFWラインダース(W杯1982年準優勝)。
前列左から3番目マイヤー
(ユーロ1984年、ドイツ代表10番)。
前列左から5番目がボランチ、メルマン。
前列左から6番目、GKブルデンスキー。
後列左から2番目の選手がFWノイバート。
その右隣がCBペッツァイ。
後列右から2人目の選手がFWフェラー。
以上が主力選手だった。

レーハーゲル監督は「奥寺は本当に頼りになる選手なんだ。私は今まで奥寺ほど頭脳的なハードワーカーの選手を戦力に持った事がない。チーム全員が奥寺の貢献度を高く評価している」と語っていた。

写真は、ブレーメンの守備の要、ペッツァイ。

身長188センチで空中戦に強く、身体能力が高い。
サッカー史に残る偉大なCB。
1980年頃、世界選抜に選ばれ、ベッケンバウアーとCBコンビを組み先発した。
奥寺はペツツァイと4年間共に戦い、
外国人2枠をずっと占拠した。

ペッツァイはとても存在感が大きく、チーム全体に冷静さを与え、他と格の違いを感じさせる選手だった。
奥寺とペツツァイという優れた外人助っ人2人の 活躍によってブレーメンは毎年、優勝争いする強豪に変わった。
彼はW杯1978年、1982年大会に出場し活躍した。
またフランクフルト時代、UEFAカップ1980年に
優勝した。

写真左、ブレーメンFW、ルディー・フェラー。
右が奥寺。ブレーメンの試合後の写真。

フェラーはユーロ1984年からドイツ代表エースFWとして10年以上も長い間、活躍した名選手だ。
ドイツ代表で90試合47得点(これは当時、ドイツ歴代2位の得点数)。
彼は1982-83シーズン、リーグ得点王になった。 
奥寺は左サイドからクロスを上げてこの得点王獲得を助けた。フェラーはブレーメンで137試合97得点(1982-87年のわずか5年の在籍)を記録して
当時クラブ史上最多得点記録を作った。

奥寺は日本復帰する1986年までフェラーと4年間、共にプレイして、ブレーメンを強豪に変えた。

1980年代中頃、ブンデス・リーガで優勝争いを繰り広げた2強ブレーメンとバイエルンの
両チームの外国人助っ人計4人は、ブレーメンがブルーノ・ペッツァイと奥寺だ。
一方バイエルンはW杯1986年で最優秀GKに選ばれた世界最高のGK、
ベルギー代表、ジャン・マリー・パフ。バロンドールが最高6位。
もう一人がデンマーク代表ボランチのセーレン・レアビー。彼はバイエルン時代、バロンドールで
12位、13位。欧州最高レベルのボランチで欧州CC1980年で得点王の経験もあった。
他の3人は凄い顔触れだが、そこに奥寺が居た凄さを日本人は分かっていない。
欧州最強リーグ上位2チームの助っ人はこの様に世界の一流選手達だった。
ちなみに奥寺のブレーメン時代のバイエルンとの対戦成績は4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越している。

奥寺康彦はスピードを生かしたドリブルが持ち味だった。しかしそれが世界最高峰で通用するレベルとなるにはきっかけがあった。
奥寺は小学生時代に住んでいた社宅に卓球台があって遊びで卓球をやっていた程度で本格的に何かのスポーツ少年団に入って運動をしていた子供ではなかった。
そして奥寺は中学入学して卓球部に所属し、卓球場から外を見て「たくさん走って嫌なスポーツだな、サッカーっていうのか、あれ」と思いサッカーというスポーツの存在を知ったそうだ。
当時の日本でのサッカーの子供への普及はそれ程、低かった(奥寺が中3の時にやっと日本初の
サッカー雑誌が創刊されたという時代だ)。そして奥寺はサッカー部に転部してここで蹴り方の
初歩段階を教わったのがサッカーとの出会いであった。これは現代の感覚だと異例の遅さであろう。「当時はトゥーキックでしか蹴れずインステップが難しく習得に約1年かかった」と語っている。(更に最初の一年は球拾いばかりで過ぎた。ちなみに奥寺の中学校にはハンドボールのゴールしかなく、サッカーのゴールで初めて練習できたのは高校入学後からだそうだ。環境もとても悪かった)
その為、サッカーを始めるのが遅かったのと、高校卒業後はサラリーマンなので2日に一度しか練習ができず、また仕事は夜勤まで含まれる過酷な内容で、更に21才頃から2年近く椎間板ヘルニアに
苦しみ手術をしても治らず周囲に「引退宣言」をする程の深刻な危機にも襲われ、その期間は調子がずっと悪く満足にプレイできなかったので「当時はスピードとシュート力はあったけど柔らかい
テクニックが下手だったのでそこを学びたいと思っていた」と語っている。
しかし、その後、腰痛が完治してブラジルで2カ月間、ビッグクラブ、パルメイラスで武者修行のチャンスを得るとそこで成長するきっかけを得た。
ここでスター選手だったジノ・サニ(ブラジル代表でW杯優勝し、ACミランで欧州CCに優勝した)から指導を受け、フィジカル・トレーニング中心の基本練習ばかりで失望したが、それが奥寺にとって大きな効果を発揮した。また2軍メンバーで毎週一度、一軍選手と紅白戦をする貴重な機会を得て、奥寺は「自分と同じく足の速い一軍の黒人選手が、テクニックでなくそのスピードを生かして抜き去って行くドリブルのプレイ・スタイルを見て非常に参考になった。ブラジル修行中に必死にその スタイルを真似して大きく成長できた」と語っている。
つまり、奥寺は中村俊輔や小野伸二よりテクニックで劣っているかもしれないが世界の一流で通用するのにそんなモノは過剰に必要ないという事だ。そこを馬鹿日本人は分かっていない。
奥寺はリフティングなどは下手であった。しかし奥寺の様に自分の持ち味を生かしたスタイルを
築いて高いレベルに到達したならば世界の名将バイスバイラーの目にも留まるのである。
馬鹿日本人のテクニック至上主義の価値観で奥寺は中村、小野、香川より下と考えているのを見るとサッカーの本質を分かっていないアホとしか言いようが無い。奥寺は彼らより遙かに強烈なシュートを撃ち、スピードがあり、的確にプレイし、1対1がとても強い。
ドイツ時代のイエローカードはたった7枚(313試合)でファウルせずにボールを奪える守備力を持っていた。長谷部は44枚、長友27枚だ(2018年現在)。奥寺はとても基本的な事に優れた選手で、アホ日本人は足技で小器用な所を見ないとレベル高いと考えないアホ体質なので奥寺の凄さを理解できない人間だらけという事だ。
一方で世界の名将、バイスバイラー、レーハーゲルは凄さを理解し、外国人たった2枠でも是非、 そこは奥寺が入団してくれれば欧州最強リーグで優勝できる可能性が高まると思ったのだ。
世界の名将は奥寺に魅了され契約し、レギュラーで何年も使い続けたが、
バカ日本人は何十年経っても魅力も凄さも分からない状態で中田、中村、小野、香川が上と思っているアホという事である。

写真、中央はバルセロナで監督を務めていた時代のヘネス・バイスバイラー。
左は当時、欧州史上最高の選手と評されたオランダ代表、ヨハン・クライフ。

バイスバイラーは超一流選手と仕事をして来た監督だ。
彼はボルシアMG時代にネッツァー、フォックツなどの名選手と仕事をした。その後、バルセロナの 監督となった(彼はクライフと険悪関係になり、 僅か1年でバルセロナを去った)。
この後、彼はケルン監督に就任し1年目の1977年にドイツ杯に優勝した(元ドイツ代表司令塔の  オベラート、他にラルセンなど名選手が居た)。
そしてそのすぐ後、彼は奥寺康彦と出会い、
才能を見抜いて勧誘し、ケルンに入団させた。

当時、レーハーゲル監督は「奥寺はどんなポジションでもすぐに自分のモノにしてしまう。奥寺一人で選手3人分の仕事を担ってくれるというわけだ。 監督にしてみれば理想的な選手だよ」と称賛していた。
また「奥寺はテクニックとスピードを兼ね備えた 選手だけど、なおかつチームの為に率先してハードワークをする選手なんだ。私はそこを一番評価している」と述べていた。

また2013年にNHKの取材でレーハーゲル監督は
「獲得したら思った通りの素晴らしい選手だった。奥寺はどんなポジションでもこなす事ができた。 奥寺は闘争心があり、怪我の恐れをもろともしないで戦う選手で、申し分のない選手だった」
と語った。

UEFAリーグ・ランキングで1976~84年までブンデスリーガが欧州 1位だった(85年は3位、86年は2位)。この時代ドイツは欧州最強リーグで、奥寺は1位や2位チームで外国人助っ人(2枠)だった。

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