【ブンデスリーガ歴代得点ランキング [2018年1010月現在]】
()内は、得点率。「*」印は、奥寺の時代の選手
この順位表で、奥寺康彦の時代の選手が10位中、7人も居る。
歴史的に、奥寺康彦が居た時のブンデスリーガは名選手が多かった。
彼らは奥寺の対戦相手やチームメイトだった。11位には奥寺がケルン時代、ポジションを奪った  ハーネス・ルアーが居る。
それぐらい奥寺の時代のブンデスリーガは欧州最強リーグだったので、名選手が多かった。
今の方が圧倒的にタレントが出ない。
30年経っても1~4位の順位は、「不変」という酷さだ。
それぐらいドイツは、名選手が出ない状況になっている。

1位ゲルト・ミュラー    365点(0.85) * (奥寺の対戦相手)
2位クラウス・フィッシャー 268点(0.5) * (奥寺の対戦相手)
3位ユップ・ハインケス   220点(0.6) * (奥寺の対戦相手)
4位マンフレート・ブルグスミュラー 213点(0.48)*【奥寺と攻撃陣を形成した】 
5位クラウディオ・ピサーロ 192点(0.43)   <現役選手>
6位レバンドフスキー    184点(0.7)   <現役選手>
7位ウルフ・キルステン   182点(0.52)    [1990年代に活躍 ]   
8位ステファン・クンツ   179点(0.4) * (奥寺の対戦相手)
9位ディーター・ミュラー  177点(0.58) * 【奥寺と攻撃陣を形成した】
9位クラウス・アロフス   177点(0.42) * (奥寺の対戦相手)
11位ハーネス・ルアー     166点(0.44) * 【奥寺のチームメイト。奥寺がポジションを奪った】


ドイツ時代、奥寺康彦は、ディーター・ミュラー、ルディー・フェラー、ウーベ・ラインダース、
マンフレート・ブルグスミュラーなどの歴史的名FWにクロスを上げ、アシストをしました。
前述の様に、奥寺のブレーメンは1985年、86年と「2年連続で、欧州最高得点率」
(リーグ戦1試合当たりの平均得点が、最高)を記録し、欧州最高の攻撃陣だった
(1985年は、1試合当たり2.6点、1986年は、2.44点)。
奥寺はこの2年は、左サイドハーフを務め、大活躍した。
その為、彼は1985-86年シーズンが終了した時、既に34才と高齢だったが、
欧州最高の攻撃陣の一人としてアシストで貢献していた為、
レーハーゲル監督は、1年契約延長オファーを出した
(チームがこれだけ魅力的なサッカーを実現できていたので当然である。
当時、欧州で、「34才で、外国人助っ人ができた選手」はほとんどおらず、
奥寺は欧州で「3番目に高齢助っ人」だった。
それ程に奥寺が「世界の一流選手」で、偉大であったという事だ)。
しかし、奥寺は日本復帰を決断し、このオファーを断った。
翌1986‐87シーズン、ブレーメンは「3年連続、欧州最高得点率」を達成できず、
「得点数は、前年より22点も減り、65得点(得点数リーグ5位)だった」。
リーグ戦の順位は、5位に落ちた。
(ちなみに、それ以前の1984-85、1985-86シーズンは、
国内リーグ順位は、「2年連続で、2位」だった)
この年は前年20得点を挙げ、チーム得点王だった長身FWフランク・ノイバートが、
怪我で5試合0得点という酷い成績になり、シーズンを棒に振った。
そしてアシスト役の奥寺も退団していたので、ブレーメンのチーム力は大きく落ちていた。
ブレーメンには奥寺がクロスを上げ、長身ノイバートがヘディングで決めるスタイルがあった。
こうして『中堅クラブ・ブレーメンが、2年連続で欧州最高の攻撃力を持っていた』という、
サッカーの歴史でも珍しい、彼らの『攻撃の黄金時代』は終わった。

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奥寺康彦、日本史上最高の選手。    日本人は歴史を知らない為に凄さが分かっていない。

奥寺康彦。外国人枠2枠の厳しい時代に欧州最強リーグの1位や2位チームで外国人助っ人を長年に渡って務め、  ドイツ・ブンデス・リーガで優勝1回、2位3回という傑出した成績。欧州9年のうち3年は欧州最高の攻撃力の あるチームでシーズンを送った(欧州一の攻撃陣の1人だった)。まさに世界の一流選手。

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