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「徳川四天王」功績まとめ

徳川家康の創業を助けた徳川「四天王」の功績をまとめました。

更新日: 2017年07月28日

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k-beingさん

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏の家臣。

徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。

織田軍の猛将「柴田勝家」を敗走させる

弘治年間の初期頃より福谷城に住んでいる。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝家を敗走させている。

吉田城を無血開城させる

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。

永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。

姉川の戦いでは朝倉軍に突撃する

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。

武田軍の小山田信茂隊を打ち破る

元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。

勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取る

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、

鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げている。

戦後に信長から「背に目を持つごとし」と賞賛された。

信濃国衆を懐柔する

家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、

同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る(『家忠日記』)。

豊臣軍の猛将「森長可」を敗走させる

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させる

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。

上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。

通称は平八郎(へいはちろう)。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

13歳で初陣をする

永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。

14歳で初首を挙げる

鳥屋根城攻めで忠真の部隊に属し、この時忠真が槍で敵兵を刺しながら忠勝を招き、「この首を取って戦功にしろ」と言ったが、

忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げた

改宗して武功を上げる

永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。

朝倉軍の豪傑「真柄十郎左衛門」との一騎討ち

元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。

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