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この記事は私がまとめました

Kaederedさん

①ボロボロの家族写真

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、
入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、
見たがらないものをあまり無理強いするのもよくないと思って、
そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、
家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。

その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

②親父の下手くそな料理

小1の秋に、母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。
当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらなかった。
また、母親が突然いなくなった寂しさもあいまって、俺は飯のたびに癇癪おこして大泣きしていた。
ひどい時には、焦げた卵焼きを親父に向けて投げつけたりなんてこともあった。

翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。
俺は嫌でたまらず、一口も食べずに、友達にちょっとずつわけてもらったおかずと持っていったお菓子のみで腹を満たした。

弁当の中身は道に捨ててしまった。

家に帰って空の弁当箱を親父に渡すと、親父は俺が全部食べたんだと思い、涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で

「全部食ったか、えらいな!ありがとうなあ!」

と、本当に嬉しそうな声と顔で言った。
俺は、本当のことなんてもちろん言えなかった。

でもその後の家庭訪問の時に、担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていたことを親父に言ったわけ。

親父は相当なショックを受けてて、でも先生が帰った後も俺に対して怒鳴ったりはせずにただ項垂れていた。

さすがに罪悪感を覚えた俺は、気まずさもあって、その夜早々に布団にもぐりこんだ。
でもなかなか眠れず、やっぱり親父に謝ろうと思い親父のところに戻ろうとした。

流しのところの電気がついてたので、皿でも洗ってんのかなと思って覗いたら、親父が読みすぎたせいかボロボロになった料理の本と、遠足の時に持ってった弁当箱を見ながら泣いていた。

で、俺はその時ようやく、自分がとんでもないことをしたんだってことを自覚した。

でも、初めて見る泣いてる親父の姿にびびってしまい、謝ろうにもなかなか踏み出せない。
結局俺は、また布団に戻って、そんで心の中で親父に何回も謝りながら泣いた。

翌朝、弁当のことや今までのことを謝った。
すると親父は、俺の頭をまたグリグリと撫でてくれた。
俺は、それ以来親父の作った飯を残すことは無くなった。

そんな親父が、去年死んだ。

病院で息を引き取る間際、悲しいのと寂しいのとで頭が混乱しつつ、涙と鼻水流しながら

「色々ありがとな、飯もありがとな、卵焼きありがとな、ほうれん草のアレとかすげえ美味かった」

とか何とか言った俺に対し、親父はもう声も出せない状態だったものの、微かに笑いつつ頷いてくれた。

弁当のこととか色々、思い出すたび切なくて申し訳なくて泣きたくなる。

③お前は可愛い顔で笑うなあ

3年前に、父が他界しました。

私は幼いころから、お父さんっ子で、顔も性格も父親似。
父は、職人さんでした。

私が離婚した時には、サラリーマンなら定年している年齢なのに、
「お前とお前の息子の面倒くらい、父ちゃんが見るから。」
と、言ってくれて、私はなんて親不孝な娘だろうと涙がこぼれました。

そんな父に心配をかけたくないので、必死に働き、自分の稼ぎで生活をし、新たなパートナーとも出会えた。
その人は父を大切に思ってくれ、しょっちゅう実家へ一緒に行ってくれて父も喜んでいたのです。

父の73歳の誕生日の日に誕生日プレゼントを届けに行った2か月後、父が倒れたと母から電話がかかってきて、急いで病院へ。
お風呂場で倒れたらしく、CT検査をしていると母が言う。

「お父さんが半身不随になるかもしれない。私、面倒見る自信がない」

母が私に放った言葉は、あまりにも冷たく、腹立たしいものでした。
私は日頃から父に何かあったら私が見ると、心に決めていたので、覚悟もできている。
ただただ、生きていてほしい。

CTから戻ってきた父と話が出来るのは一人だけですと医師に言われ、母が拒否したので私が。
私の顔を見ると少し微笑み、名前を呼んでくれた。

10分程度、軽く話をした。
倒れた時のことを話す父は、いつもの口調だった。

けれど、それがまともに意識のある状態の最後になってしまった。

その後、手術をしたけれど高齢なのもあり、ほとんど眠っている。

私は仕事が休みのたびに父の元へ。
行くと必ず私の声に反応し、私の手を探す。

母が行っても、弟が行っても、そんなことはしないらしい。

手術から2週間後、医師から延命治療をするか考えて答えを出してくれと言われ、1週間考えた結果、延命治療を断った。
父の性格や言葉を思い出して、自然に寿命で終わるのが良いと思ったから。

それから1か月。
仕事だった私は、職場に少し早く着いていて着替えを済ませ休憩室に入ると携帯が鳴った。
母からだった。

「お父さんが危篤!早く来て!」

急いで病院に行き、父の病室に入り、母が私の名前を言った瞬間父が私を探す。
父の傍に寄り、手を出すとギュッと握る。
ずっとずっと力を込めて私の手を握ったまま離さない。

そのまま数時間。

父は静かに息を引き取りました。

火葬場で父が焼かれる寸前、私は取り乱してしまいました。
この世から父の姿が無くなってしまうのが辛かった。

お骨を骨壺に移す時、住職さんが1かけら私に。

「あなたが持っていなさい。お父様とずっと一緒にいてあげてください」と。

今でも私の手には、父のぬくもりが残っています。

父を大切に思ってくれているパートナーと、父と母と一緒にカラオケに行ったときに、
40歳になった私の顔を見て

「お前は可愛い顔で笑うなあ」

と、優しい笑顔で言った父。

離婚する前・離婚した後と、眉間にしわを寄せてばかりの私を心配していたのでしょう。
今のパートナーと出会えて、本来の笑顔を取り戻せたことに安心してでた言葉なのでしょう。

照れ臭かったけれど、やっと父を安心させることが出来たのかな。

④私の誕生日のためのケーキ

反抗期の時の話なんだけど、今でも忘れられない。

幼い頃からずっと片親で育ってきた私は、父親と二人暮らしをしていた。
友達や親戚、誰から見ても、宝物の様に私を大事に可愛がってくれた。

そして、私のために一生懸命働いてくれてた。

私の願い事は無理してでも、自分を犠牲にしてでも叶えてくれた。
風邪の時には、仕事をさぼってでも私の側に居てくれてた。
私に寂しい思いはさせなかったと思う。

二人きりだけど、クリスマスや誕生日も毎年してくれた。

けれど十代半ば、反抗期のせいで、父の優しさが凄くうざくなってきてしまった。
心配される事や、口を聞く事、すべてがうっとおしくなった。

私は毎晩、夜遅く帰って来て、父が心配してくれても、私は父に罵声しかあびせなかった。
友達と遊ぶ事が楽しくて、だんだん家にも帰らなくなっていた。

そんなある夜のこと。

久しぶりに家に帰ると、私の分のおかず一緒に、小さなケーキがおいてあった。
それは、3日前に過ぎた私の誕生日のためのケーキだった。

いつ帰って来るのか分からない私のために、毎日ご飯作って、ずっと待っていてくれてたんだと思ったら、切なくて悲しくて申し訳なくて涙が溢れてきた。

そして無造作に置かれてた小銭入れ。
ボロボロになった汚い小銭入れだった。

それは、私が幼稚園の頃に父の日にあげたもの。

『まだ、使ってたんだ』

誰よりも何よりも、父は私のことを大切に思ってくれていた。

父にとって私は宝モノなんだって思いが胸につきささって、父に対して優しくしてあげられなかった事にまた泣いた。

後から知った事だけど、私が小さい頃に書いた父の日のカードも、肌身離さず持っていました。

その一件以来、私はちゃんと帰るようにはなりました。

⑤父とのキャッチボール

私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小さい頃良く聞かされていました。

そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。

そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。

ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。

その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。

父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。

父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。

それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。

翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。

公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。

父とのキャッチボールは、小学校以来でした。

しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。

病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。 すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。

私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。

父は、細い腕でボールを受けてくれました。

ミットは、すごい音がしました。

父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。

ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。

30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。

「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。

さらに数週間後、父の意識は無くなりました。

そしてある秋の日、父は亡くなりました。

病名は父の死後母から告げられました。

ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。

父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。

「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。

弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。

びっくりした。

すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。

彼は甲子園に行けるかもしれない。

その時まで、俺は生きられるだろうか?

できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。

もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。

人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。

ありがとう」

私はこれを見て、父の想いを知りました。

それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。

決勝の相手は、甲子園の常連校でした。

見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。

ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。

10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。

そのとき打順は、9番バッターの私でした。

相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。

あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。

気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。

私は夢中で走りました。

相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。

応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。

スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで

きて、とても楽しく野球が出来ました。

そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。

甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。

これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。

ありがとう、お父さん!!

⑥明日の遠足に

小学生の頃、母親が入院していた時期があった。
それが俺の遠足の時期のちょうど重なってしまい、
俺は一人ではおやつも買いに行けず、
戸棚にしまってあった食べかけのお茶菓子とかをリュックに詰め込んだ。
そして、夜遅くオヤジが帰宅。
「あれ・・・明日遠足なのか」と呟き、リュックの中を覗き、しばし無言。
もう遅かったので、俺はそのまま寝てしまった。

次の日、リュックを開けて驚いた。
昨日詰めたおやつのラインナップがガラリと変わっている。
オマケのついたお菓子とか、小さなチョコレートとか・・・
オヤジ、俺が寝てからコンビニ行ったんだな。
俺、食べかけの茶菓子でも全然気にしてなかったんだけどさ。

あの時、オヤジがどんな気持ちでコンビニへ行ったかと思うと、
少し切なくなる。

⑦「家に帰る!」と、起き上がろうと

父が入院中の時の事

酸素マスクを着けなければいけない状況だったんだけど
少し元気になってくると、「家に帰る!」と言い出して
酸素マスクを外してベッドから起き上がろうとする。
で、母に「だめでしょ、お父さん、酸素マスク外したら
死んじゃうよ?大人しくして早く直して退院しようね」
と言われると、とりあえず大人しくなる。

でも30分ぐらいすると「家に帰る!」と、起き上がろうとする。
で、母が「だめでしょ、お父さん(ry

で、また30分ぐらいすると「家に(ry

そんなことを何回も繰り返して、母にたしなめられるたびに
(´・ω・`)な顔をしてた父に萌えてしまった。


・・・ってことを退院したらこのスレに書こうと思ってたのに
なんで死んじゃうんだよ。元気になったら一緒に
好きなカツ丼を食いに行こう、って約束したじゃないか。
父ちゃん・・

⑧アンタと飲むのを・・・

俺は親父が好きじゃなかった。
お袋とだったら何でも話せるのに、親父と本音で話したことなんてなかった。

親父は俺が18のとき死んだ。
心臓が急に止まったらしく、何の処置もできないまま死んだ。
その時は涙は出なかった。
ただ、泣きじゃくるお袋を可哀想だとは思った。

俺が21のとき、いい加減親父の部屋を
片付けようってなって家族で片付けていた。

俺はワインを見つけた。
俺が中学の修学旅行で土産に買ってきたものだ。

お袋は言った。

―お父さんな、それアンタと飲むのを楽しみにしとったんやで。

なぜか涙が出てきた。

俺は親父の墓前でそれを飲んだ。

⑨金ピカの時計

大学が決まり一人暮らしの前日の日 親父が時計をくれた。
金ピカの趣味の悪そうな時計だった。
「金に困ったら質に入れろ、多少金にはなるだろうから」
そういってた。

二年生のある日、ギャンブルにハマリ家賃が払えなくなった。途方にくれていた時。
ハッと気がつき、親父の時計を質にもって行った。
紛れもない偽者であることが判明した。

すぐに親父電話した。

俺「おい!偽者子供につかませんなよ!」

親父「なっあてになんねーだろ人のゆうことなんざ。困った時にこそ裏切られるんだよ    最後の頼みの綱になー。がはははは!これが俺の教育だよ。」

親父「でいくら必要なんだ?金に困ったんだろ?」

俺「・・・・あきれるわ。十二万貸してください・・・」

親父「明日振り込むから、何があったかは聞かない。金がない理由は親にいえない事が多いわな!」

親父「がはははは!女にでもはまったか?このバカ息子が!!ははは!!」

正直心底むかついたが、親父の声は俺を安心させてくれた。
今思うと、小さい会社だが経営者らしい教育だったのかなと思う。

そんな親父も去年の夏、ガンで死んだ。往年の面影も消え、ガリガリになった親父がまた時計をくれた。
まだ箱に入った買ったばかりの時計だった。必死で笑顔を作りながらいった。

親父「金に・・困ったら質にでも・・・入れろや・・!」

オメガのシーマスターだった。
くしくもその日は俺の誕生日だった。

俺「親父の時計はあてになんねーから質には入れないよ。」

二人で笑った三日後、親父は死んだ・・・・
親父が死んだ今も、金ピカの時計はメッキもはげたがまだ時を刻んでいる。

⑩ちょっと、手ぇ貸して

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