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旧日本海軍がミッドウェー海戦(1942年6月)に惨敗した理由とは?

1942年のミッドウェー海戦で、日本軍は海軍力を喪失して、太平洋戦争は決着を見ました。それからも日本軍が戦い続けますが、ミッドウェー海戦後の戦いは、ほとんど無意味な戦いでした。『戦略のアメリカvs戦術の日本』と言われたミッドウェー海戦は、アメリカの大勝利になりました。

更新日: 2019年08月20日

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misukiruさん

ミッドウェー海戦には、様々な失敗要因がありますが、山本五十六長官の判断ミスが大きかったでしょう。情報戦を十分に活用する術をしらない老将は、奇襲だからと油断していたのでしょう。

日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。

この海戦で、日本軍は正規空母4隻(第一航空戦隊『赤城』『加賀』、第二航空戦隊『飛龍』『蒼龍』)(支援部隊・重巡三隅)を一挙に失い、すべての艦載機(253機)と戦死者3500名(練達搭乗員100名以上)という損害を出しています。

ミッドウェー島。手前は飛行場のあるイースタン島。奥は飛行艇基地のあるサンド島。

◆アメリカの修復力の早さ

高い技術力によって、素早い修復を可能にしていました。

技術力に優れるアメリカは、「珊瑚海海戦」の損傷を、あっというまに修復し、空母3隻となってミッドウェーに進出していました。日本軍よりも1隻少ないですが、ミッドウェー島自体が第4の空母だと考えれば、両軍の戦力はほぼ互角と言えるのです。

アメリカ軍の空母は、全艦がスプリンクラーを標準装備し、防御隔壁を設けるなど、たいへんに打たれづよい構造になっていました。

◆情報解析の違い

暗号解読に成功した彼らは、日本軍の戦略目標も戦力も、作戦の日時もおおむね把握していたからです。対する日本軍は、敵の戦力の事が何も分かっていません。しかも、作戦が読まれていることに気が付きませんでした。

◆ダメージコントロールの違い

飛龍を含め日本空母はダメージコントロール面でも損傷時の対策への装備や設備の甘さなどが目立ち、それがミッドウェーに於ける喪失に繋がった。

◆戦略の立て方の間違い

防衛大学校戦略教育室の解説では、日本が兵力を分散したためミッドウェー沖で戦闘に参加した航空機の数がアメリカより少なかったことが根本的な原因である

山本五十六長官は、大和を中核とした戦艦7隻と、陸軍上陸隊を護衛する艦艇を引き連れて、空母部隊の後方からミッドウェーを目指しました。

戦後、草鹿は作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している。

◆考え方の甘さ

日本海軍の人事は、大学を出たときの成績と、役所に入ってからの年功とで、そのポストが決まる仕組みになっていました。そして、南雲の年功が、ちょうど「空母部隊の指揮官」に該当したのです。

山本五十六に至っては愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している。

心のゆるみ。開戦以来の戦果から心にゆるみが生じ、作戦の計画と実行に慎重さを欠いた。

*日本がミッドウェー海戦でラッキーで勝てたとしても、次の海戦では負ける事は見えており、終戦を遅らせる事にはならなかったでしょう。

◆ミッドウェー海戦に参加した空母・戦艦

写真を見てのとおり、激しい課さいが起こって炎上傾斜する三隈は、この後に沈没します。

最後の空母『飛龍』は50Kmほど離れていたため、発見されず被害を免れて健在でした。炎上している『赤城』から南雲長官の中将旗が降ろされ、次席指揮官は第八戦隊司令官 阿部弘毅少将が指揮を受け継ぎました。

千葉県館山沖で公試運転中の飛龍(1939年4月28日)の様子。1937年11月16日に進水。

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