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インパール作戦の悲劇!牟田口廉也の補給軽視で飢餓地獄!太平洋戦争の歴史

第二次世界大戦中に行われた『インパール作戦』では、補給路がなくて攻撃どころではなくなって大失敗しました。単に大量の兵員を送り込めば勝てるという戦のスタイルは、既に大きく変わっていたのです。現在の日本にも同じ状況があると指摘する人もいます。

更新日: 2019年08月15日

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misukiruさん

インパール作戦のドキュメンタリーを見てナニが憂鬱になるって、この日本軍みたいな意志決定機構が今の日本にもほとんどそのまま残ってるってことなんだよなあ… #NHKスペシャル

インパール作戦はクソだっていうし実際そうなんだけど戦争っていう特殊状況と規模省けば今の日本と大して変わらないよね。 私個人の話だと戦争かバイトかの違い。

圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていたのです。そして、彼らは中国との連絡路の奪回に動き出しました。

◆無謀すぎる作戦立案

第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけ

補給畑の将校は、連日のように知恵を絞って考えました。そして得られた結論は、「不可能」でした。しかし、この作戦は強行されたのです。

日本軍は、補給を軽視する伝統があり、補給畑に行く人は、だいたいノンキャリアでした。キャリアがノンキャリアをバカにするのは、当然のことなのです。

◆飢餓のインパール作戦

インパール作戦は、近代戦において「補給」がいかに重要かという事を示しています。英軍は、空中補給を行いますが、日本軍は空中補給を行うほどの航空機・物資を既に保有していませんでした。この空中補給作戦における考え方は、現在でも米軍などに採用されています。

主な死因は戦死ではなく餓死だ。敗走路となった現在のアジアハイウェイ1号線にはおびただしい数の遺体が積み重なり、そのいたましい光景から「白骨街道」という名がつけられた。

◆相手の豊富な武器で殺され

日本軍を撃退しに向かいインパール-コヒマ間の路上を進撃する、M3中戦車を伴ったグルカ兵(ネパールの山岳民族の兵士)

インパール作戦とは、1944年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

◆ジャングルや川を行軍で倒れ

歩くことにかけては世界一を自負する日本の歩兵でも、この苦しさには根を上げ、初年兵は泣きながら、あるいはうめき声を上げながら、やがて行き倒れてしまうのです。

必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻

飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるもの

◆退却の時に多くが死亡

皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様

この退却ルートで負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患した日本の軍人さんたちの大半は、途中で力つきてお亡くなりになりました。

インパール作戦では、撤退時に多くの兵士が死亡しました。

インパール作戦の俺死んだらここの肉食っていいよとかいうのマジでトラウマ

インパール作戦に従軍した少尉の回想録 「私達の朝は道路上の兵隊の死体仕分けから始まります」 酷い朝だな。

死因のほとんどがマラリア。次いで赤痢。

◆仲間で殺し合って食い合う

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