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鎌倉お寺めぐり

鎌倉の寺院・歴史・伝説などをご紹介!

更新日: 2018年01月08日

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岡戸秀仁さん

1894年(明治27年)、作家夏目漱石は、円覚寺の塔頭帰源院に止宿し、釈宗演に参禅した。
そのときのことは小説『門』に描かれている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-kinenhi.htm

岐阜県出身の日本画家:前田青邨の筆塚。
青邨は、1955年(昭和30年)に文化勲章を受章。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-seison.htm

釈宗演は円覚寺派管長を勤め、1903年(明治36年)、シカゴで開かれた万国宗教大会で「禅(ZEN)」についての講演を行い、欧米に「禅」を紹介した高僧。
「縁切り寺」として知られていた東慶寺は、1902年(明治35年)に「縁切寺法」が廃されると、宗演が住職となって中興されている。
1919年(大正8年)11月1日、東慶寺で亡くなった(61歳)。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-shakusoen.html

東慶寺の二十世天秀尼は大坂夏の陣で滅んだ豊臣秀頼の子。
徳川二代将軍秀忠の娘千姫の養女(奈阿姫)。
大坂落城後、千姫の助命嘆願により命を救われた奈阿姫は、出家して東慶寺に入った。
東慶寺には、天秀尼が父秀頼の菩提を弔うために1642年(寛永19年)に鋳造したという雲板(うんばん)が残されている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-tenshuni.htm

東慶寺の五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女。
用堂尼の入山後、東慶寺は「松岡御所」と称され、寺格の高い寺として知られるようになった。
用堂尼は、鎌倉に幽閉され、悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-yodoni.htm

東慶寺を開いた覚山尼は、八代執権北条時宗の正室。
父は安達義景、母は北条時房(北条政子の弟)の娘。
1284年(弘安7年)4月、時宗が臨終に先立ち出家すると供に出家し、無学祖元から「覚山志道」という法名が与えられた。
翌年、東慶寺を開く。 
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-kakuzanni.htm

「白蓮舎」は、ハナショウブ畑の奥にある立礼席(りゅうれいせき)の茶室。
ハナショウブと梅の時季の年2回、茶店として公開されている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-tyasitu2.html

茶人・千宗旦が建てたのを始まりとする裏千家で最も古い茶室。
1788(天明8年)の大火で焼失後、同じ間取りで再建された。
その後、裏千家から東京の久松家、鎌倉材木座の堀越家 を経て1960年(昭和35年)、東慶寺に移築された。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-tyasitu1.html

「木造彩色水月観音坐像」(もくぞうさいしきすいげつかんのんざぞう)は、 京都では見ることのできない鎌倉地方独特の彫刻で、白衣をまとい岩坐の上にゆるやかに、やや斜めに腰をかけ、水に映る月を眺めている像(国重文)。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-suigetukannon.htm

大正期の建立。
それ以前の書院は、1634年(寛永11年)、徳川忠長屋敷から移築されたものだったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。
現在の建物は、その当時の間取りで再建されたもの。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/tokeiji-shoin.html

伊豆の国市の本立寺の梵鐘は、もともとは東慶寺にあったもの(1332年(元徳4年・元弘2年)の鋳造)。
大旦那は、九代執権北条貞時の側室で、十四代執権北条高時の母でもある覚海円成(安達泰家の娘)。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/nirayama-honryuji.htm

材木座の補陀洛寺から移されたもので、1350年(観応元年)の鋳造(県文化財)。
鋳物師は物部光連。
総高143センチメートル、口径77.1センチメートル。
『新編相模国風土記稿』によると、分捕り品となって土中に埋められた鐘を、のちに農民が掘り出したものと伝えられている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tokeiji-bonsho.htm

東慶寺男僧第三世の佐藤禅忠和尚の雲水時代のもの(1916年(大正5年))。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tokeiji-shoro.htm

1916年(大正5年)に建てられ、1923年(大正12年)の関東大震災で唯一倒壊しなかった建築物。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tokeiji-shoro.htm

禅宗様で棟札に1634年(寛永11年)の銘がある建物で、徳川二代将軍秀忠の娘・千姫の寄進と伝えられている(国重文)。
1907年(明治40年)に東慶寺から横浜の三溪園に移された。
明治に入って寺領を失った東慶寺が維持することが困難となって手放したものと考えられている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tokeiji-butuden-sankeien.htm

東慶寺の仏殿は、「泰平殿」と呼ばれ、本尊は釈迦如来坐像(南北朝時代)。
本尊の左には二十世天秀尼像、右には開山覚山尼像と五世用堂尼像が安置されている。
現在の仏殿は1935年(昭和10年)に建立されたもので、旧本堂(仏殿)は横浜市の三溪園に移築されている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tokeiji-butuden.htm

、鎌倉・江の島七福神の一つ。
お腹を撫でると元気がもらえるのだという。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138jyotiji-hotei.htm

曇華殿に安置されている三世仏は、南北朝時代のもので、わが国に伝わる三世仏の中でも造立年代の早いもの(県重文)。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138jyotiji-dongeden.htm

鎌倉でも珍しい花頭窓の鐘楼門。
銅鐘は、龍頭が鐘全体にくらべて小さく、かつ繊細な感じのする鐘で、暦応3年(1340年)の銘のあるもの(県の重要文化財)。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138jyotiji-sanmon.htm

浄智寺の総門前の井戸は、水が蜜のように甘く、「不老不死」の水といわれていた。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138kanronoi.htm

「宝所在近」の額を掲げた浄智寺の総門。
そのまま読めば「宝のある所は近くにある」ということだが、「宝所」とは悟りの世界の彼岸のこと。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138jyotiji-somon.htm

桜・新緑・アジサイ・紅葉を楽しみながらお茶をいただくことができます。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/meigetuin-tyamise.html

本堂後庭園は、「ハナショウブ」の季節と「紅葉・黄葉」の季節に特別公開されています。
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/meigetuin-teien.htm

鎌倉最大の「やぐら」。
やぐら内の中央に建てられた宝篋印塔は、山内上杉家の上杉憲方のものと伝えられている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138meigetuin-yagura.htm

内部が水瓶のようなふくらみがあることから「瓶ノ井」(つるべのい)と呼ばれている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138turubenoi.htm

明月院の門をくぐるとすぐ左手に見えるのが五代執権北条時頼の廟所。
そして、その奥の宝篋印塔は時頼の墓と伝えられている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/meigetuin-tokiyori-haka.htm

堂内には、明月院開山の密室守厳(みっしつしゅごん)の木像と、最明寺・禅興寺・明月院の歴代住持の位牌が祀られている。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura138/meigetuin-kaisando.htm

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