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新撰組の鉄の規則

局中法度(禁令五ヶ条)
一.士道に背きまじきこと
二.局を脱するを許さず
三.勝手に金策いたしべからず
四.勝手に訴訟取り扱うべからず
五.私の闘争を許さず

☆芹沢鴨一派☆

芹沢鴨

朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は芹沢の所置を命じたと言われるが、確証はない。
新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。
大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまづいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。

新見錦

新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、隊費と称して民家から強請りを繰り返していたという。悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして斬首すると詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させられたという。

野口健司

芹沢と平山は近藤派によって暗殺された。暗殺事件の夜、野口は角屋に残って難を逃れている。これ以前に新見も切腹させられており、事実上水戸派は壊滅した。野口だけは粛清されず、その後も幹部の一人として隊に残留したが、突然切腹を命じられ、安藤早太郎の介錯で切腹した。切腹の原因については明らかではないが、八木源之丞の後年の証言では「ささいなことで詰め腹を切らされたのではないか」とされている。

平山五郎

島原の角屋で宴会をした芹沢、平山、平間重助は、夜中に屯所の八木家に帰った。平山は玄関で倒れて起き上がれないほど泥酔していた。八木家には各々の愛人が待っており、平山は桔梗屋の芸妓吉栄とかねてから馴染で、奥の十畳間で吉栄と同衾して寝入った。同じ部屋では屏風を置いて芹沢とその愛妾のお梅が寝ていた。深夜、数人の男たちが突然部屋に押し入り、芹沢と平山に斬り付け平山は起きる間もなく即死。芹沢やお梅も殺害されたが、平山と同衾していた吉栄は便所に行っていたため難を逃れている。刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。

平間重助

複数の刺客による夜襲によって芹沢と平山らは惨殺される。惨殺後、騒ぎを聞きつけた平間が大声を上げながら屋内を駆け回る様を、八木家の親子によって目撃されている。一説によれば、刺客は試衛館派の土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助とする説がある。近藤と土方が駆けつけた際、平間はすでに逐電していた。同じく副長助勤の野口健司は同年12月に切腹しているため芹沢の同志の中では唯一の生き残りとなった。

佐伯 又三郎

芹沢鴨の一派と行動をともにしていたが、京都嶋原で何者かの手で殺害された。

☆御陵衛士☆

伊東甲子太郎

薩摩藩の動向探索と御陵警備任務の拝命の名目に新選組を離脱し、篠原や鈴木など同志14名と共に御陵衛士を結成する。

近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。

伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す囮として使われた。

藤堂平助

油小路で新選組に暗殺された伊東の遺体を奪還するため、罠であると知りつつも平助は同志7名と共に現場へ向かう。 待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末に戦死した。
永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎に斬られたとされている。

鈴木三樹三郎

兄らと共に新選組から分離し、御陵衛士(高台寺党)に属す。三樹三郎や三木和泉と称する。ところが同年11月18日に、兄・甲子太郎が新選組によって暗殺。兄の遺体収容時に迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて、加納鷲雄・富山弥兵衛とともに薩摩藩邸に保護された(油小路事件)。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下(薩摩藩一番隊)に入って伏見奉行所の新選組と戦う。

富山弥兵衛

油小路事件では現場を脱出し、薩摩藩に匿われた。のち、伏見街道で阿部十郎ら御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃した。
戊辰戦争では薩摩藩に属した。越後出雲崎にて会津藩の動向探索に従事したが、水戸諸生党に捕らえられ、一時は逃走したものの、失敗して殺害された。

毛内有之助

伊東や三木三郎、篠原泰之進らと御陵衛士を拝命して新選組を脱退する。慶応3年(1867年)11月18日、伊東が新選組によって七条油小路にて暗殺されると、三木三郎ら総勢8人で遺体を引き取りに現場に赴き、待ち伏せしていた新選組によって藤堂平助、服部武雄と共にメッタ斬りにされて殺害された。

清原清

新選組隊士の幕臣取立ての頃には離隊しており、御陵衛士として分離した伊東甲子太郎に合流した。その後、竹川直枝または、武川直江と改名。油小路事件の際には伊勢に出張しており難を逃れている。

田中寅蔵

伊東甲子太郎の御陵衛士に加わろうとするが拒絶され、本満寺に隠れるが見つかり、慶応3年4月15日切腹となった。

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KatesHeroさん