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【☆祝☆2000本安打】巨人阿部慎之介これまでの軌跡

巨人・阿部慎之助内野手(38)が広島戦の九回一死に放ち、史上49人目、球団生え抜きでは史上5人目となる通算2000安打を達成した。プロ17年目で大台に到達。一塁ベース上で花束を贈られると、スタンドの声援に礼をして応える。代走を送られると、笑みがこぼれた。

更新日: 2017年08月13日

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名前の由来は母親が池畑慎之介(ピーター)の大ファンだったことから。

父は実業団電電東京に所属した野球選手阿部東司で、掛布雅之と習志野市立習志野高等学校で同期。掛布とクリーンナップを組み、掛布が3番・父が4番を打ち、全国高等学校野球選手権大会に出場経験がある。

その影響もあり、幼い頃から阪神タイガースファンで掛布に憧れ左打ちになった。また父もポジションは捕手、中央大学と共通している。

父の勧めもあり、浦安市野球協会学童部所属・軟式少年野球チーム・浦小クラブに所属。その縁で浦安市野球協会で阿部慎之助杯争奪少年野球大会を協賛している。

高校時代~中央大学へ

安田学園高校では通算38本塁打を放つ。

中央大学商学部[3]に進学し3年生春まで東都大学野球連盟2部リーグでプレーする。2部リーグ通算51試合出場、186打数58安打、打率.312、12本塁打、41打点。3年生秋にチームは1部昇格。1部リーグ通算28試合出場、92打数27安打、打率.293、5本塁打、19打点。ベストナイン1回。

2000年9月にはシドニーオリンピック代表に選ばれた。中大時代は打撃には定評があり、野手転向を勧められることもあったが固辞した

2001年プロ入り~読売個人~

2001年

3月30日の阪神タイガースとの開幕戦(東京ドーム)、巨人軍では山倉和博以来23年ぶりとなる「新人捕手開幕スタメン」として先発出場(8番・捕手)し、その試合で阪神の先発投手の星野伸之から初打席初安打初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せる。阿部がデビューした当時の巨人は村田真一に代わる正捕手の育成が急務だったこともあり、当時の監督長嶋茂雄は村田を阿部の「教育係」にするとともに以後127試合に起用して経験を積み重ねさせた。最終的にシーズン13本塁打を放つが、規定打席には6打席不足した。新人捕手のシーズン2桁本塁打は田淵幸一以来2人目。

2002年

127試合に出場し、巨人軍としては1987年の山倉和博以来の捕手による規定打席に到達、ベストナインとゴールデングラブ賞を獲得する。シーズン後半から高橋由伸の故障に伴い3番打者に起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を記録。このことから『サヨナラ慎ちゃん』と呼ばれるようになった。

2003年

シーズン半ばでの右肩の故障もあり94試合の出場に終わる。規定打席不足であるものの、打率.303を記録。この年、初めてオールスターゲームに出場した。

2004年

4月9日から4月16日にかけて6試合連続本塁打、4月28日には3本塁打を放つ。4月に放った16本塁打は王貞治の球団記録を更新し、1981年の門田博光(南海ホークス)、1994年の江藤智(広島東洋カープ)と並ぶ日本タイ記録。5月12日にはマーク・マグワイアが1998年に記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新する「開幕33試合目での20本塁打」を記録する。この後ペースは失速し、5月後半~7月はそれぞれ2本ずつに留まり、8月には故障もあって、最終的には33本塁打にとどまった。しかし、シーズンで33本塁打は巨人軍所属捕手として球団史上初の30本塁打を記録し、規定打席到達で自身初の打率3割も記録した。
同年11月には日米野球に捕手・代打で全8試合中、6試合に出場したが、13打席11打数0安打2四球だった。

2005年

打撃はシーズンを通じて5番打者に定着し最終的に打率は3割を越え、出塁率と得点圏打率はチームトップの成績であった。8月23日の横浜ベイスターズ戦では、右肩痛のためプロ入り後初めて一塁手として出場。また、同年オフに、守備の負担を減らせば4番打者を務めることができると考えた原辰徳監督に一塁手へのコンバートを提案されたが、捕手として勝負したいと辞退した。

2006年

開幕前には、この年から開催されたワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出されたが、前年からの故障があり出場を辞退している。同年シーズンでは打率が4年ぶりに3割を割り、本塁打も自己最低の10本に終わったが、自身過去最高の盗塁阻止率.443を記録。オフの10月18日に、会社員の女性との結婚を発表した。

2007年

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