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【ヒストリア】関ケ原~SEKIGAHARA~日本の未来を決したわずか6時間の戦い

岡田准一演じる石田三成。そして役所広司がはまり役の徳川家康。日本の未来を決した、わずか6時間の戦い。誰もが知る「関ケ原」の誰も知らない真実。

更新日: 2018年08月09日

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orihoanさん

1600年9月15日関ケ原。時代が動き出す。

日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。

しかも関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑、おまけに戦闘自体は1日で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられません。

映像可は無理と言われていた関ケ原がついに映画化。ひさしぶりの歴史超大作の映画が心くすぶる。

1923年大阪市生まれ。大阪外語学校蒙古学科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年、「梟の城」で直木賞受賞。以後、歴史小説を一新する話題作を続々と発表。1966年に「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊地寛賞を受賞したのをはじめ、数々の賞を受賞。1993年には文化勲章を受章。“司馬史観”とよばれる自在で明晰な歴史の見方が絶大な信頼をあつめるなか、1971年開始の「街道をゆく」などの連載半ばにして、1996年に急逝。享年72歳。「司馬遼太郎全集」(全68巻)がある。

あまりの歴史的考察・緻密な表現におもわず司馬遼太郎の小説の内容が史実だと勘違いしてしまうことも。日本の歴史小説の大家のタイトルが映画化されずに残ってくれていました。

「関ヶ原」は何と過酷で激烈で壮絶な闘いなのだろう。これは天下分け目の戦いでなければ、家康と三成の私闘でもない。人間の魂、その奥底で揺らめく正義と不義との闘いである。
司馬遼太郎の原作を見事に再現した映像もまた国民的名作と呼ぶにふさわしい!

関ヶ原の戦い――
それは、戦乱の世に終止符を打ち、後の日本の在りようを決定づけた。
幼くして豊臣秀吉(滝藤賢一)に才を認められ、秀吉の小姓となった石田三成(岡田准一)。成長し大名にとりたてられた三成は自分の石高の半分をもって、猛将として名を馳せた牢人・島左近(平岳大)を家来に乞う。秀吉に忠誠を誓いながらも、利害によって天下を治めることに疑問を感じ正義で世の中を変えようとする三成の姿に、左近は「天下悉く利に走るとき、ひとり逆しまに走るのは男として面白い」と配下に入る。伊賀の忍び・初芽(有村架純)も、“犬”として三成に仕えることになる。

秀吉の体調が思わしくない。天下取りの野望を抱く徳川家康(役所広司)は、秀吉の不興を買う小早川秀秋(東出昌大)や他の秀吉恩顧の武将たちに、言葉巧みに取り入っていく。三成は、そんな家康が気にくわない。
1598年8月、秀吉逝去。翌1599年閏3月、大老・前田利家(西岡德馬)も亡くなると、先の朝鮮出兵時から三成に恨みを持つ福島正則、加藤清正ら秀吉子飼いの七人党が、三成の屋敷を襲撃する。三成は家康の屋敷に逃げ込み難を逃れるが、このことで佐和山城に蟄居。家康の影響力が増していく。
1600年6月、家康が上杉討伐に向かう。上杉家家臣・直江兼続(松山ケンイチ)と家康の挟み撃ちを図っていた三成は、盟友・大谷刑部らを引き込み、毛利輝元を総大将に立て挙兵。三成の西軍、家康の東軍が、覇権をかけて動き出す。1600年9月15日。決戦の地は関ヶ原。三成は、いかにして家康と世紀の合戦を戦うのか? そして、命を懸けて三成を守る初芽との、密やかな“愛”の行方は……。
権謀渦巻く中、「愛」と「正義」を貫き通す“純粋すぎる武将”三成と野望に燃える家康の戦いが今、幕を開ける!!

(西軍)正義の武将:石田三成

太閤秀吉亡き後、天下を狙う家康と、それを阻止せんとする豊臣家の忠義の官僚・石田三成の戦い。三成はその実力差を補うため、自軍の総大将を五大老の一人・毛利輝元に依頼したが、戦場で事実上の総指揮をとっていたのは石田三成であった。。

『日本戦史』に記載される兵士数
●西軍
 石田三成   4,000人
 島左近    1,000人 三成隊の前衛
 蒲生郷舎   1,000人 三成隊の前衛
 秀頼麾下  2,000人 黄母衣衆の部隊
 島津義弘   750人 
 島津豊久    750人 義弘にほぼ同行
 小西行長   4,000人
 宇喜多秀家 17,000人
 戸田重政
 平塚為広    900人 戸田と2人で900人
 大谷吉継    600人
 大谷吉勝
 木下頼継   3,500人 大谷吉勝と2人で3500人
 毛利秀元  15,000人 南宮山周辺部隊
 吉川広家   3,000人 南宮山周辺部隊
 安国寺恵瓊  1,800人 南宮山周辺部隊
 長束正家   1,500人 南宮山周辺部隊
 長宗我部盛親 6,600人 南宮山周辺部隊
 赤座直保   600人 東軍に寝返り
 小川祐忠   2,000人 東軍に寝返り
 朽木元綱   600人 東軍に寝返り
 脇坂安治   1,000人 東軍に寝返り
 小早川秀秋 15,600人 東軍に寝返り
 合計    83,200人

(東軍)野望の覇者:徳川家康

『日本戦史』に記載される兵士数
●東軍
 徳川家康  30,000人 総大将
 黒田長政   5,400人 先手
 細川忠興   5,000人 先手
 加藤嘉明   3,000人 先手
 筒井定次   2,850人 先手
 田中吉政   3,000人 先手
 福島正則   6,000人 先手
 古田重勝   1,200人
 織田有楽   450人
 金森長近   1,140人
 生駒一正   1,830人
 井伊直政   3,600人
 松平忠吉   3,000人
 寺沢広高   2,400人
 藤堂高虎   2,490人
 京極高知   3,000人
 本多忠勝    500人
 有馬豊氏    900人 南宮山への備え
 山内一豊   2,050人 南宮山への備え
 浅野幸長   6,510人 南宮山への備え
 池田輝政   4,560人 南宮山への備え
 合計    88,880人

一般的には、兵士数は、「西軍は8万数千だったのに対し、東軍は7万5千くらい」と東軍が若干劣勢だったように伝わっているのですが、実は、もともと東軍の方が多かったわけです。
「東軍7万5千」という数字は、南宮山への備え部隊を引くとちょうどそのくらいになるのですが、これだと西軍の南宮山隊も差し引いて考える必要がありますので、そうなると、東軍74,860人に西軍55,300人となります。普通に圧倒的に西軍不利ですね。まあ戦は兵数だけではないとよく申しますし、西軍は必勝の鶴翼の陣ですからね。裏切りとかなければ、不利というわけでもない兵数なのかもしれません。

敗者が主役になる。それはそこに語りつくせぬ美学と物語があるから。

関ケ原の面白さはなんといっても、石田三成以外にもすさまじいサムライたちのサイドストーリーが存在すること!!

関ヶ原における大谷軍の奮戦は目覚しく、「士卒皆其恵に懐き、敢て離反する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり」とあるように、大谷軍は一人も戦線から離脱せずに吉継の指揮に従って勇猛に戦ったという

島津軍は主君である義弘を守るため、捨て奸(すてがまり)と言われる何人かが留まって戦い敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦い方をした。

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