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クレイジー・ホース(アメリカ・インディアン戦士列伝 2)

アメリカ政府が派遣したウイリアム・ハーニ-将軍指揮下600人の兵士は、スー族の戦士たちが留守の間の村を襲い、女・子どもを虐殺した。このことでクレイジー・ホースの白人に対する憎しみは決定的となった。

更新日: 2018年01月15日

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この記事は私がまとめました

来栖崇良さん

白人との戦いで、インディアン戦士として勇名を馳せたクレイジー・ホースは、1840年、サウスダコタ州のベア・ビュット近くのベル・フーシェ川辺で生まれた。

本名はタシュケン・ウィトコ(彼の奇妙な馬)といい、クレイジー・ホースは通称である。父親はオグラフ・スー族の呪い師で、母親はシチャング・スー族の出身である。

クレイジー・ホースは少年時代から馬を盗むのが非常にうまく、〝ヒズ・ホーシズ・ルッキング〟すなわち「彼は優れた馬の見立てだ」と言われていた。


因みに馬を盗むのはインディアンにとって、賞賛すべき行為とされた。

クレイジー・ホースが最初の白人とのトラブルに出会ったのは、1854年、14歳の時だった。


モルモン教徒とのいざこざで訴えられたカンデング・ベア酋長が、陸軍のグラットン中尉に殺され、怒ったベア酋長の部下たちがグラットン隊を殲滅する。

この報告を受けた米政府は、〝ブッチャー〟と呼ばれたウイリアム・ハーニ-将軍指揮下600人の兵士を送り込み、戦士たちの留守の間の村を襲い、女・子どもを虐殺した。

このことでクレイジー・ホースの白人に対する憎しみは決定的になる。

しかも、南北戦争後、白人がインディアンの住む領域を侵す度合いが激しくなった。

成長したクレイジー・ホースはスー族の仲間を率い、白人と闘った。
そして、1866年、フォッターマン将軍率いる80人のアメリカ陸軍を全滅させた。
その結果、クレイジー・ホースは最高の勇者の印の〝皮シャツを着る者〟に選ばれた。

スー族やシャイアン族といった平原インディアンと軍隊との対立は、更に激化していく。


クレイジー・ホースは、白人との妥協を拒む主戦派として、戦いのリーダーになってゆく。

1876年3月17日、クルック将軍率いる1500名の軍隊とバウダー川で戦い勝利を収める。

同じ6月17日には、ローズバッドの戦いでまたもクルック将軍の軍隊を退けた。

更に6月25日には、リトル・ビグホーンの戦いで、カスター中佐の第七騎兵隊を全滅させた一人となった。

クレイジー・ホースは、若い時の他部族との戦いでも、軍隊との戦争でも、体に白い斑点の絵の具を塗り、常に一番危険な場所で闘ったが、一発の弾丸に当たったこともなかった。


しかし、アメリカ軍の攻勢が強まるにつれ、次第に追いつめられていった。

そして、1877年5月6日、冬の寒さと飢えのため、900人のスー族と共に、クルック将軍が総司令官を務めるネブラスカ北西のロビンソン砦に投降する。

投降したクレイジー・ホースは営倉へ入れられ、激しい拷問を受けたようである。

その年の9月5日、拷問に抵抗したあげく、ウィリアム・ジェントルズという歩哨によって、銃剣で刺殺された。


享年36歳だった。

ラオール・ウォルシュ監督
「壮烈第七騎兵隊」(1941年、出演アンソニー・クイン)




ジョージ・シャーマン監督
「クレイジー・ホース酋長」(1955年、出演ヴィクター・マチュア)




J・リー・トンプソン監督
「ホワイト・バッファロー」(1977年、出演ウィル・サンプソン)


など

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