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哲学者ニーチェ 憎悪,復讐,疚しい良心…闇をすり抜ける〈喜び〉への価値転換。

キーワード:哲学、幸せ、幸福、感情、怒り、怨恨、ルサンチマン、復讐、疚しい良心、罪責感、罪悪感、名言、人生、哲学者

更新日: 2017年12月17日

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喜び、楽しみ、幸せに最大の価値を認めるニーチェ。憎悪、嫉妬、怒りといったネガティブな感情との対比で、ニーチェの肯定哲学を際立たせます。

哲学な夜さん

◎ 喜びと憎しみの哲学 まとめ

「私が誰からも愛されないのはお前のせいだ」

世界を憎悪し、生そのものを憎悪する者────ニーチェが〈奴隷〉と呼ぶ者────の人生哲学「お前のせいだ」。
ニーチェによれば、これが〈憎悪する者〉の目に映る世界のすべてです。

憎悪する怨恨人間

ギリシア哲学やキリスト教道徳の思想は、世界と彼岸とを切り離すことで成り立ってきました。無意味で偽りに満ちたこの世界は、究極の目的、真理をもつ彼岸がこれを照らし出すことによって、初めて意味をもつのだと考えられていたのです。このような世界観は生を無意味なものとして否定します。ヨーロッパの形而上学の歴史は、生の誹謗と感性の抑圧の歴史に他ならないのです。

生を誹謗する。生も世界も、無意味であるばかりか不正でさえある…。
「生きること」との間にできた隙間で、周囲から「はみ出す自分」を持て余し、世界の無意味さに怒りと憎悪をおぼえる人びと。
重荷を背負い苦悩に悶える人たちを「喜びの哲学者ニーチェ」はどう見るのでしょうか。

憎悪感情「お前のせいだ」

私が誰からも愛されないのはお前のせいだ、私が人生に挫折したのは君のせいだし、君が人生に挫折するのもまた君のせいだ。君の不幸も私の不幸もやはり君のせいだ。

出典『ニーチェと哲学』236頁。

生と世界への憎悪が燃えさかる「お前のせいだ」の原理。理想と現実のギャップから沸き起こる苦悩と怒りを誰かにぶつける「お前のせいだ」にニーチェは関心をよせます。無意味で、くだらない、偽りだらけで穢れた生というネガティブな評価が、苦悩となって現われた。被害者意識による怨恨だとニーチェは結論します。

◎怨恨=ルサンチマンの訳語。

復讐が勝利する瞬間

糾弾されている者がついに「私のせいだ」と言うまで…〈お前のせいだ〉、〈お前のせいだ〉と繰り返すこと。「責任が求められたところでは、これを求めたのは復讐の本能である。この復讐の本能は何世紀もの間に人間性を支配してしまったので、あらゆる形而上学、心理学、歴史、とりわけ道徳がこの本能の痕跡をまとっているほどである。思考するや否や、人間は事物のうちに復讐という細菌を導入したのである」。

出典『ニーチェと哲学』57頁。但し、一部省略。括弧内はニーチェ『力能の意志』。

糾弾される者がついに呟きます。「私のせいだ。」苦悩の責任を負う主体です。
ニーチェによれば、責任主体というのは〈復讐の系譜〉に属します。また道徳、心理学、形而上学、歴史が〈主体という原因〉を饒舌に語ることのうちに、復讐の痕跡を見ることができるとニーチェは言います。

疚しい良心「私のせいだ」

それは方向を変えなければならないのだ。反動的人間が自分の苦悩の原因を発見しなければならないのは、今や彼自身のうちにおいてである。疚しい良心が彼に示唆するのは、彼がこの原因を「彼自身のうちに、過去に犯した過ちのうちに探し求めなければならず、またその苦悩を罰として解釈しなければならない」ということである。

出典『ニーチェと哲学』260頁。

他者に向けられた憎悪と怒りが、自己の内面へと方向転換する。
「私のせいだ」は瞬く間に苦悩者自身をもとらえ、苦悩者が率先して「私のせいだ」と叫ぶようになります。それが〈疚しい良心〉だと、ニーチェは見ています。「お前のせいだ」から「私のせいだ」へ。

こころの中を凝視する眼差し

このようにして苦痛は内面化される。罪の帰結である苦痛は、もはや内面的意味以外の意味をもたないのである。

出典『ニーチェと哲学』260頁。

憎悪、怨恨をぶつける相手が、内面へ移されました。
自分の内面的過ちにこそ苦悩の原因がある。それこそが私を苦しめる原因なのだ。あのときの悪意だろうか、それともあのときの軽蔑だろうか、それよりもあのときの…。
そうして見出した過ちに、苦悩の原因すべてを押し付けます。私の苦悩は、私の過ちのせいだ。私の苦悩は、罰なのだ。過ちは罪であり、苦悩は罰なのだ。そうだ、すべては私のせいなのだ────。

裁判官に変装した復讐鬼

疚しい良心における怨恨の新たな方向は最初の方向と対立する、などと考えてはならないであろうう。…怨恨は「それは君の過ちだ」と言っていたが、疚しい良心は「それは私の過ちだ」と言う。しかし、まさに怨恨は、自分の伝染が広まらない限り鎮まることはない。怨恨の目的は生全体が反動的になり、健全な者が病者になることである。

出典『ニーチェと哲学』261頁。但し、一部省略。

ニーチェは疚しい良心を「非難の権化としてわれわれの間を徘徊する」「裁判官に変装した復讐鬼」と表現し、厳しく批判します(ニーチェ『道徳の系譜』。但し、『ニーチェと哲学』423頁からの孫引き)。

罪責感のシェア拡散

怨恨にとっては、糾弾するだけでは十分ではなく、糾弾された者が自分を罪あるものと感じなければならない。…
そうなると、〈それは私の過ちだ、それは私の過ちだ〉というように、世界全体がこの悲痛な文言を繰り返し、生において能動的であるすべてのものがこの同じ罪責感を展開するまでになるのだ。

出典『ニーチェと哲学』261ー262頁。

生から膜一枚隔てられた苦悩者が望むのは、世界が同じように苦悩することであり、道づれにすることで世界に復讐しているつもりなのだとニーチェは分析します。苦悩は、罰の感情に変形されながら持続するということです(『ニーチェと哲学』256頁参照)。
そして行動ではなく、心の罪に眼差しが向けられるようになる変化をニーチェは見逃しません。形をなしてゆく、心の犯罪というコンセプト。

◎心の犯罪…

愛の叫び

怨恨は、方向を変えるにもかかわらず、その満足の諸源泉も…他者たちに対する憎悪もまったく失わなかった。〈それは私の過ちだ〉、これが愛の叫びであり、この叫びによって…われわれは、他者たちを引き寄せて、彼らを彼らの道から逸脱させるのである。怨恨の方向を変えることによって、疚しい良心の人間たちは復讐をより満足させ、伝染をより広める手段を見出した。

出典『ニーチェと哲学』280頁。但し、一部省略。

それまで以上に他者を憎悪する、復讐のより大きな満足を得る方法としての愛の叫び「私のせいだ」。
愛で引き寄せた他者を仲間にとり込む〈伝染〉に気をつけよとニーチェは注意を喚起します。悩める人びとは「同情を駆り立て、伝染病を撒き散らすために自分の苦悩を製造する」(『ニーチェと哲学』320頁参照)。

奴隷の根本定式「ゆえに私はよい」

われわれには怨恨の人間が何を意志しているのか見当がつく。こうした人間は、他の人々が悪であることを意志し、自分がよいと感じうるために他の人々が悪であることを必要としている 。君は悪い、ゆえに私はよい。これが奴隷の根本定式であり、…奴隷は、他者が悪いということをまず想定しなければならないのだ。

出典『ニーチェと哲学』237頁。

「君は悪い、ゆえに私はよい。」相手を引き下ろし、相対的に上昇する自分を〈よい人間〉として自覚する〈奴隷の根本定式〉です。
罪の自覚を欠くためお前は悪い、ゆえに自分を罪あるものと感じる私はよい。罪責感のないお前は獣、ゆえに疚しい良心の罪責感で苦悩する私は人間。────しょせん他者憎悪を罪責感に変形したにすぎないとニーチェは考えます。





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