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「私が誰からも愛されないのはお前のせいだ」

他人を憎悪し、世界を憎悪する者 ── ニーチェが〈奴隷〉と呼ぶ者 ── の人生哲学「お前のせいだ」。
ニーチェによれば、これが〈憎悪する者〉の目に映る世界のすべてです。

生に対してさえ憎悪の感情を差し向ける者からニーチェが引き出した「お前のせいだ」の原理は、〈喜び〉との対比でさらにその特質が明らかにされていきます。

「神々は死んだ。しかし神々は、或る神が「われこそ唯一の神である」と言うのを聞いて、笑い死にしたのだ。」

ニーチェによる「神の死」宣告を、ドゥルーズ独自の語り口で解説したのがこの「笑い死にした神々」。世界が相互依存で成り立つ以上、他に依存しない単独の神など存在しえないことを指摘する場面です。

強靭な思考力をもってする哲学の面白さ。そのことを予感させるドゥルーズならではの筆致が、飛翔するニーチェの思考をさらにひき立てます。

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ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日)は、フランスの哲学者。パリ第8大学で哲学の教授を務めた。20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人であり、ジャック・デリダなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされる。

江川隆男訳、河出文庫。

最新のドゥルーズ研究を取り込んだ、ドゥルーズ専門家による新訳。


断りのない限り、このまとめでの引用はすべて河出文庫版の江川隆男訳から。

ニーチェ論の名著

【ニーチェ哲学をまとめると】
攻撃的な〈憎悪〉に人生をゆだね、〈世界を呪う〉というネガティブな感情に満たされた、後ろ向きに生きる人びとを重荷から解放すること。そして、〈喜び〉が何度でも回帰するための思考を見いだすこと。ニーチェの哲学をまとめるとこうなります。

【革新的ニーチェ像】
それまでのニーチェ研究を刷新した画期的なニーチェ論として名高く、本書を通過しなければニーチェ論をもはや考えられないという意味で高い評価を受ける『ニーチェと哲学』に添いながらニーチェ哲学の魅力を紹介します。



※ これからも内容の追加、修正をしていく予定です。引用に対する解説も増やしていきたいと考えています。





─── ニーチェに学ぶ「憎悪から喜びへの価値転換」───


|まとめ目次|

・憎悪にとらわれた怨恨の人間
・心理学 ── それを支える復讐の精神
・貴族の〈軽やかな生〉
・ニーチェを知るためのキーワード【生成または変身】
・仮面または模倣 ── 自己の複数性について
・力の道徳化 ── 主体を夢想する弱者
・超人とは何か
・起源と差異の同一性
・神の死
・まったく新しい意志概念
・力能の意志 ── 驚くべき身体論とともに←renewal ‼
・生を正当化するという倒錯
・怨恨の完成形態としての、愛
・永遠回帰



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▼憎悪にとらわれた怨恨の人間

私が誰からも愛されないのはお前のせいだ、私が人生に挫折したのは君のせいだし、君が人生に挫折するのもまた君のせいだ。君の不幸も私の不幸もやはり君のせいだ。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』236頁。

「お前のせいだ」 ── 奴隷による世界解釈です。
生に対する憎しみが激しく燃えさかる〈反動的な力〉が表出された「お前のせいだ」の原理は、〈怨恨の人間〉の心をとらえて離しません。
否定、対立を世界に持ち込むこと。奴隷の仕事です。

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糾弾されている者がついに「私のせいだ」と言うまで…〈お前のせいだ〉、〈お前のせいだ〉と繰り返すこと。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』57頁。但し、一部省略。

「私のせいだ」と言うまで繰り返す…。
糾弾されている者がついに呟きます ── 私のせいだ。
「私のせいだ」の原理は瞬く間に奴隷自身をもとらえ、奴隷が率先して「私のせいだ」と叫ぶようになります。
他者に向けられていた〈怨恨〉が、ここにきて自己の内面へと方向転換する。それが〈疚しい良心〉です。

怨恨から疚しい良心へ。「お前のせいだ」から「私のせいだ」へ。

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反動的人間が自分の苦悩の原因を発見しなければならないのは、今や彼自身のうちにおいてである。疚しい良心が彼に示唆するのは、彼がこの原因を「彼自身のうちに、過去に犯した過ちのうちに探し求めなければならず、またその苦悩を罰として解釈しなければならない」ということである。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』260頁。

怨恨が向かう先が外界から内面へ大きく方向転換を遂げ、疚しい良心となりました。

自分が〈過去〉に犯した過ちに苦悩の原因を見出すばかりか、苦悩を過ちの〈罰〉として引き受ける。こうしてトラウマという幻覚的刻印を押されて、人びとは〈本来的で固有の自己〉という幻覚をさらにいっそう自明視するようになります。

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怨恨の目的は生全体が反動的になり、健全な者が病者になることである。怨恨にとっては、糾弾するだけでは十分ではなく、糾弾された者が自分を罪あるものと感じなければならない。…そうなると、〈それは私の過ちだ、それは私の過ちだ〉というように、世界全体がこの悲痛な文言を繰り返し、生において能動的であるすべてのものがこの同じ罪責感を展開するまでになるのだ。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』261ー262頁。但し、一部省略。

疚しい良心によって罪責感をもつこと。少なくともヨーロッパ的文脈では、自分を罪あるものと感じる〈罪責感〉が人間の条件の一つに数えられてきました。

憎悪人間は、世界が同じように〈生に苦悩する〉ことを望み、そうすることで自分を苦しめる世界に復讐しているつもりのようです。
ニーチェは、こうした罪責感をもつ「人間」を病者と呼んで厳しく批判します。

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怨恨は、方向を変えるにもかかわらず、その満足の諸源泉も、その辛辣さも、その他者たちに対する憎悪もまったく失わなかった。〈それは私の過ちだ〉、これが愛の叫びであり、…他者たちを引き寄せて、彼らを彼らの道から逸脱させるのである。怨恨の方向を変えることによって、疚しい良心の人間たちは復讐をより満足させ、伝染をより広める手段を見出した。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』280頁。但し、一部省略。

私のせいだ、こう叫びながら、従来にも増して他者を憎悪する。
復讐を断念したのでもなければ弱めたのですらなく、復讐のより大きな満足を得る方法としての愛の叫び「私のせいだ」。

伝染とは、他者を愛で引き寄せ、他者の生を憎悪の系統へ逸脱させること。同質化を通じて、それまで「別の系統のうちに」生を営んでいた他者から「伝達不可能」な性質を剥奪することです。「別の系統 - 伝達不可能」は、ニーチェ哲学にとって重要な目録です(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』406頁参照)。

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われわれには怨恨の人間が何を意志しているのか見当がつく。こうした人間は、他の人々が悪であることを意志し、自分がよいと感じうるために他の人々が悪であることを必要としている。君は悪い、ゆえに私はよい。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』237頁。

「君は悪い、ゆえに私はよい。」
〈奴隷の根本定式〉と呼ばれるものです。相手を引き下ろし、相対的に上昇する自分を〈よい人間〉として自己認識する。

疚しい良心を装備したことで奴隷性が強大化した奴隷は、ますます苦悩します。しかし、疚しい良心が苦悩を新たに意味づけるのです。
罪の自覚を欠くため「君は悪い」、ゆえに自分を罪あるものと感じ苦悩する「私はよい」と理解するわけです。じじつ、「私のせいだ」と言わない者に対する憎悪は従来の比ではありません。

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────【解説】────

【奴隷感情の方向性】
憎悪が他者に向かうと〈怨恨〉と呼ばれ、それが自分の内面に向かえば〈疚しい良心〉と呼ばれる。方向性によって名称が違うものの、実態は同じ〈生に対する憎悪〉です。
方向転換したといっても、正確には、これを機に憎悪感情が二つに分岐したということになります。



◆◆以下の引用も参照。

「奴隷こそが、自分についてのよい評判をわれわれに確信させようとするのだ。しかもこの奴隷は、その評判をもたらしたのが自分ではないかのように、直ちにその評判の前に身を屈するのである」(ニーチェ『善悪の彼岸』。但し、ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』164頁からの孫引き)。



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▼心理学 ── それを支える復讐の精神

復讐の精神は心理学的特徴であるどころか、われわれの心理学が依存する原理である。怨恨が心理学に属しているというのではなく、われわれのあらゆる心理学が、それとは知らずに怨恨の心理学なのである。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』81頁。

心理学は、各メディアを通じてお茶の間にまで浸透した身近な奴隷感情です。

復讐の精神に依存する、奴隷感情に促されて成立した心理学が、奴隷感情を分析するというのは滑稽である。心理学が示して見せる〈復讐精神〉に奴隷の復讐精神が合致するのではない。奴隷の復讐精神に基づいて心理学が形成されたのである。

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────【解説】────

【罪責感を刻印する】
固有の自己という幻覚を基礎にしてつくられた心理学は、人びとにその幻覚を真実として認識させることを任務としており、奴隷の教えに忠実です。
とりわけ〈内面〉に潜伏するトラウマを透視することにかけては誰よりも積極的なのが、心理学の奴隷的性格を証しています。 ── 「苦悩するあなたの深層心理には、このような罪責感、このようなトラウマが潜んでいます。」

本来的で固有の自己を表象する(思い描く)のが奴隷感情の特質ですが、しかし奴隷が〈自己〉と思い込んでいるものが、じつは、〈自己とのズレ〉であるからには、それを表象することは不可能です(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』165頁参照)。



◆◆以下の引用も参照。

「われわれが理解しなければならないのは、復讐の本能は、われわれが心理学、歴史、形而上学、道徳と呼ぶものの本質を構成する力だということである」(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』82頁)。



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▼貴族の〈軽やかな生〉

「貴族の道徳が自己自身の勝ち誇った肯定から生まれるのに反して、奴隷の道徳は初めから自分に属さないものに、自分とは異なったものに、自分の非 - 自己に対する一つの〈否〉である」。

出典ニーチェ『道徳の系譜』。但し、ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』36頁からの孫引き。

自分が既にしてしまっている〈変身〉という事実の否認。自分に属さないもの(自分とは異なったもの、自分の非 - 自己)に対する、拒絶あるいは攻撃。
本来的で固有の〈自己〉 ── 罪責感あるいはトラウマによってピン留めされた不動の〈自己〉 ── という幻覚にしがみつく〈奴隷道徳〉です。

ニーチェが教える真理は、〈奥〉にあるのではなく、〈すぐ隣〉にある。〈深さ〉ではなく、〈薄っぺらさ〉を本質とする真理が示すのは、純粋な自己ではなく、表面的でおちゃらけた仮面だけです。
自分が仮面だけから成る存在であることを勝ち誇って肯定する者が、貴族です。

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肯定すること、それは軽くすることであり、優越的諸価値の重圧のもとで生を担うことではなく、生の価値であり、生を軽やかで能動的なものにする新たな諸価値を創造することである。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』357頁。

生を軽やかにすることが《肯定》の役割です。
既存の〈優越的価値〉の重圧のもとで生を「わざわざ」担うことではなく、軽快で活動的な生の価値を新たに創造すること、それが《肯定》である。未知の新たな生き方の創造のことです。

ニーチェは近代を、〈奴隷の勝利〉の時代として見ています。
半透明の薄い膜が周囲との間を隔て〈はみ出す自分〉を持て余す人びと、生との間に〈隙間〉ができてしまった人びとが、世界規模で現れる近代。刻印されたトラウマ、逃れられない固有の自己、くだらない生、「愛が欲しい」…。奴隷の勝利、それは、このように苦悩する人びとを生み出す〈優越的価値〉が支配的となった世界を指します。

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笑うこと、遊ぶこと、舞踏すること。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』330頁。

笑うこと、遊ぶこと、舞踏すること。それぞれ、〈生〉の肯定、〈偶然〉の肯定、〈生成〉の肯定という意味です。
笑って、遊んで、舞踏して、そうして生を〈軽くする〉のだというのがニーチェの哲学。カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーのようなどこかしら暗さを滲ませる哲学にくらべて、やはり肯定感が際立ちます。重々しい生を軽くする高貴な哲学。

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「〈偶然に〉、これこそ世界のもっとも古い高貴さであり、私はこの高貴さをすべての事物に取りもどしてやった。私はすべての事物を目的への隷属状態から救出してやったのだ。…私はあらゆる事物のうちに幸福の確信を見出した。すなわち、事物はむしろ偶然という足で舞踏するのを好むということである」。

出典ニーチェ『ツァラトゥストラ』。但し、ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』66頁からの孫引き。

あらかじめ定められた既知のコースを歩むことを奴隷は幸福だと主張します。生を締め上げ思考を禁じる〈目的〉に向かって、苦悩を背負いながら歩むことをです。
ニーチェが〈偶然〉を語るのは、人びとの幸福を願うからです。これがお前の幸福だと他人に「教える」奴隷に我慢ならないからです。すべての者にとって価値あるものという〈無差異〉は、ニーチェの敵です(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』21頁参照)。
人それぞれの幸福があり、多様な幸福があり、《幸福》とは多様性のこと差異のことであり、〈目的〉とは真逆の、〈未知〉のことである。
世界は目的をもたない(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』68頁参照)。

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他の力との関係において、従わせる力は、他の力を、あるいは自分でないものを否定するのではなく、自己自身の差異を肯定し、この差異を享楽するのである。

出典出典 ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』34頁 。

能動的であること、変身を繰り返すこと。触発する力に敏感な感受性であればあるほど高い能動性を示しているといえます。変化に対する積極的な《肯定》です。

自己は、触発してくる力に感応し、自己自身の変身(自己の〈差異〉化)に移行する。そして、変身の対象を「従わせる」。
それゆえ従わせる力をもつ高貴な者を貴族と呼ぶ。あるいは、無意識に向かって〈開かれた〉力を、貴族的と形容します(変身は無意識のうちに進むものです)。

※ 他の力=自分でないもの。自己自身の差異=他の力からの触発で変身した自己。

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────【解説】────

【あの自己、この自己】
まず、〈人はいつでも仮面をつけ、誰かに変身している〉とニーチェは考えています。このことが話の前提となります。他者に変身するという、ミクロな水準でならいつでも観察される〈あの自己〉や〈この自己〉への切り替わりに注目してみましょう。

【無意識のミクロ領域】
葬儀の席で〈この私〉のなかに生じる変身 ── 悲しみに浸りきる絶望者を押しのけるように、恋愛スキャンダルの続報が待ちきれないアイドルおたくが脇から瞬く間に台頭する切り替わり ── は、いずれも〈誰か〉に変身した自己であり、それはとりもなおさず「人には複数の自己がある」ことを示しています。
それと同時に、〈あの自己〉と〈この自己〉の間を仕切る断絶は、「人には固定的な〈本性〉が欠けている」ことを示しています。

【肯定する貴族】
無意識ミクロ領域で生じた後になって「既に生成してしまっている」のを意識することになる〈あの自己〉や〈この自己〉。
「〈能動的 - 生成〉は、感じられも認識されもしない」無意識レベルで進行する(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』140頁参照)。
そのようにして生成したものをさしずめ〈自己〉と呼びはするものの、その実態は〈非 - 自己〉です。
多数の〈非 - 自己〉へ次つぎと変身する偶然まかせの自己差異化を《肯定》できる者が、貴族です。



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──ニーチェを知るためのキーワード──

【生成または変身】

〈この私〉を正確に観察してみれば、或るときは〈ささいな不正行為にさえ厳しいモラリスト〉に生成し、或るときは〈エゴむき出しの恥知らずな裏切り者〉に生成し、或るときはより複雑な〈恋人に甘える赤ちゃん〉に生成し…というように次から次へと入れ替わる〈誰か〉へ変身して自己を〈非 - 自己化〉し、自己の意味を多様に繰り広げているものです。

意味が多様でないような出来事も、現象も、語も、思考も存在しないのだ。或るものは、これを奪取している諸力(神々)に応じて、或るときは〈これ〉、或るときは〈あれ〉、或るときはより複雑な〈或るもの〉であったりする。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』25頁。

ここでの〈意味〉とは、〈本性〉〈正体〉、要するに〈キャラ〉のことです。

ギリシャの神ディオニュソスを筆頭に多神教の世界には〈変身する神々〉が無数にいます。
ディオニュソスについては《ディオニュソスは変身の神》《ディオニュソスは自らを隠し、かつ自ら表明する神》《自らを隠し、別の形態をとり、諸力を変える》などを参照(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』158頁)。

そうした〈神々〉に喩えられる〈変身する力〉が、無意識的身体から〈この私〉へ次つぎと立ち昇り、或る対象を奪取占領して変身を遂げる。対象に生成するのである。「本性が多様でないような〈この私〉は存在しない。」

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或る同じ対象、或る同じ現象は、それを占有する力に応じて意味を変える。

出典ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』24頁

例えば〈神〉という対象は、〈神〉を乗っ取る力に応じて本性を変える。
占有とは、乗っ取りです。それによって、〈神〉の意味、本性、キャラにめまぐるしい変化が生じる。

キリスト教が乗っ取る〈神〉を、ニーチェが乗っ取り、それによって「愛ゆえに自己犠牲も辞さない、人類を救済する全能の神」から「世界と生に対する憎悪ゆえに他者への残酷な仕打ちも辞さない、奴隷たちの攻撃衝動を投影した観念」へと、〈神〉の意味が変わりました。

もともとヨーロッパ布教でのキリスト教も、多神教が既に乗っ取り済みの〈神〉を新たに乗っ取ったのであり、それを今度はニーチェが乗っ取った。乗っ取るたびに〈神〉の意味が変わります。

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哲学な夜さん