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「野茂 英雄」という生き方

野茂さんはメジャーへの道を切り開いた先駆者として大きな功績を残しています。ですが、それと同じくらい「人生の生き方」を教えてくれた存在でもあります。また、野球だけに留まらずスポーツ全般に根性論ではなく科学的な理論を取り入れるという考え方を導入した先駆者でもあります。

更新日: 2017年10月20日

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m.satoakiさん

〇日本人メジャーリーガーのパイオニア

野茂英雄は、「トルネード(竜巻)投法」からのストレートとフォークボールで、三振の山を築いた伝説のピッチャーです。日本人メジャーリーガーへの道を切り開いた先駆者としての偉大な足跡は、誰もが認めるところです。

〇ですが、当時野茂選手のメジャー挑戦はバッシングの嵐でした。

彼が最初にメジャー挑戦を表明した時、日本球界は彼に対し、批判と中傷を繰り返していた。
だが、野茂はそんな逆境にも挫けず、メジャーリーグへの道を選んで大活躍。批判を賞賛に変えたのだった。

今でこそ、メジャー挑戦でバッシングされることはなくなっていますが、当時は「メジャーに挑戦する」ということは日本の世の中を敵に回すようなものでした。ですから、あの元ジャイアンツの松井選手がメジャーに行くときの会見でも慎重に言葉を選んでいました。

メジャー挑戦に当時、日本中から大きなバッシングがあったことについて野茂氏は「マスコミは球団側にしかついてなかった。自分が答えているところしか映さないし、質問がひどい」と当時を振り返ってコメントした。

〇メジャー行きを決断した背景

鈴木啓二監督の元では野球はできない。と思っていました。そして鈴木啓二監督にだけではなく、近鉄球団に関しても不信感を抱いていました。

いくら上司であろうとも納得できないことには自らの主張を貫き通し、リスクをとって新たな道に挑戦する姿勢が若い人に勇気を与えます。

〇日本球界時代の素晴らしい記録

ゴールデンルーキーとしてプロ入りした1990年は18勝8敗、防御率2.91、奪三振287個で、投手タイトル独占し、MVPや沢村賞など数々の栄誉にも輝く大活躍を演じました。その後も、4年連続最多勝や、最多奪三振タイトルを得るなど球界のエースに登り詰めながら、1995年に単身メジャーリーグ挑戦した野茂英雄。

トルネード投法と名付けられた野茂英雄はプロ初年度から前評判以上のとんでもないピッチングを見せつける。
1990年4月29日のオリックス戦では1試合17奪三振の日本タイ記録を達成。一年をとおして高いパフォーマンスをみせた野茂英雄はなんと18勝をあげ最多勝を獲得。それ以外にも最優秀防御率と最多奪三振、最高勝率など投手4冠を達成。もちろん新人賞とMVPも受賞し、なんと投手で最高の栄誉とされる沢村賞をルーキーイヤーに獲得する快挙を成し遂げた野茂英雄。このとき日本には空前の野茂英雄フィーバーが巻き起こり、清原和博らと数々の名勝負を繰り広げることとなります。

〇ドラフトで8球団が1位に指名しました。

野茂英雄が一躍名を上げたのが社会人野球です。新日本製鐵堺へ入社した野茂英雄は、フォークボールを習得し、2年目で都市対抗野球出場を果たすなどの実績を積み、日本代表に選出されるなど頭角を現します。1988年のソウルオリンピックでは、石井丈裕(プリンスホテル→西武→日本ハムほか)や、潮崎哲也(松下電器→西武)らと中心投手として銀メダル獲得に貢献しました。

1989年のドラフト会議では、史上最多8球団が野茂英雄の1位指名で競合し、抽選の結果で近鉄バファローズが指名権を獲得しています。

先輩でチームのエースに清水信英さんという方がいらっしゃって。その清水さんに言われたんです。「ピッチャーをやるからにはエースを目指せ」「エースとは打たれても、味方がエラーをしても、態度を変えずに投げる選手だ」と。

〇高校時代の野茂選手

野茂投手の「トルネード投法」は、成城工業高校(現在の成城高校)時代にはすでに確立されつつありました。1985年の全国高等学校野球選手権(夏の甲子園)の大阪大会で、2年生ながらエースとしてマウンドに立ち、生野高校を相手に、大会史上2人目となる完全試合を達成しています。

3年生になって迎えた夏の予選、公立高校ながら優勝を狙えるピッチャーとして、注目を集めていました。強豪校がひしめく大阪大会で、5回戦に進出した成城工業は、古豪・興国高校を相手に7回まで0-0で進みます。しかし野茂投手は8回に2アウト2塁からヒットを打たれ、その1点が決勝点となって敗退してしまいます。

〇野茂選手が自らの野球人生を振り返るインタビュー

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