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哲学者ニーチェ 絶望する前に知っておきたい人間哲学の名言〜感動の究極的人生論

関連ワード:生き方、人生哲学、無意識、それ(Es)、ノマド、変身、生成変化、哲学者、名言

更新日: 2017年12月16日

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この記事は私がまとめました

このまとめの指針は「もっと深みのあるニーチェを」です。ニーチェの本格的な人間哲学をお伝えできればと思います。よろしくお願いします。

哲学な夜さん

深すぎるニーチェ あきらめる前に

──満ちあふれる生の充実──

「満ちあふれる生の充実」の精神とは「この生を徹底的に肯定する精神」であって、ニーチェはそれをギリシャ悲劇に見られる精神として、ギリシャ悲劇が奉納された神「ディオニュソス」にちなんで「ディオニュソス的精神」と名付けました。

人には「生きること」がまだまだ足りないのではないかとニーチェは問いかけます。ニーチェの答えは「満ちあふれる生の充実」です。ディオニュソス的精神ともいわれるその生き方とは?
ニーチェが自分と真剣に向き合う一途な人生哲学をまとめてみました。

人間とは橋である

人間の偉大なところは、かれが橋であって目的ではないということである。───ニーチェ

出典ニーチェ『ツァラトゥストラ』。但し、ジャン・グラニエ『ニーチェ』須藤訓任訳、白水社、113頁からの孫引き。

ニーチェの名言です。カッコ良すぎます。人間は終着点ではなく、その先へ架けられた橋である。
いつでも途上であり移行である「自分」を、まるでモノのように固定化することが人生を貧しくしている。
もっともっと「生きる」ことができるのだと、前向きな気持ちが湧いてくる名言ですよね。人間とは、過程のことなのである───。

「人間」というカテゴリが出来たから「人間未満」とか「妖怪人間」みたいな、「人間の周縁(人間以下)」というカテゴリが出来、「人間の周縁」と区別することによってしか、「人間」の輪郭はたち現れない。

人間以下との区別を通じてしか自分の輪郭をもつことができないのが人間なので、現状維持に縛り付けられ、次の自分へ向かう「橋」であることから遠ざけられるわけです。
自己イメージの輪郭で「自分」を囲うことによる人生の損失。いろんなことにチャレンジできる自由が輪郭のせいで見えなくなっている、といえます。

乗り越えられるべき人間

人間とは乗り越えられるべき何ものかである。人々は多くの道と手段によって自己の乗り越えに成功しうるのである。───ニーチェ

出典ニーチェ『ツァラトゥストラ』。但し、ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳、河出文庫、394頁からの孫引き。

よく知られたニーチェの名言ですが、あらためて読むとスゴイ言葉です。一切が無意味であるというニヒリズムに立ってこそ視界に入る「人間」の枠付けに、ニーチェは注目します。
ニーチェによると、自分を「人間」として意識する自己の乗り越えが、人生を豊かにする。自己イメージの枠組みをすり抜け、もっと自由に!生きることに賭けるニーチェの熱い思いが伝わってきます。

大枠で自分がヘテロであるにしても、同性愛や異性装などへの欲望の揺れがわずかでもないかどうか、あるいは対人間という制限を超えた、動植物やモノに対しての非有機的なエロティクスがないかどうか、そういうあたりの感性を、大枠でヘテロであることによって潰さないこと。

人間の乗り越えを的確にとらえたツイート。動物、植物、モノなどに対する、知覚しにくい微粒子のような愛情。───自分を人間として意識する縛りが、微細な愛情を破壊し、生の広がりに制限をかけている。
人間の枠付けを無視する子どもはお気に入りのものなら何であれ愛情を向けると言われるので、成長するにつれて「締めつけ」が身についていくのでしょう。
わずかな「揺れ」にも反応できる感性を磨き、自分の中身をもっと膨らませること。橋である人間にはそれができる。このツイートでヘテロというのは人間とほぼ同じ意味です。

グラデーションを彩る人間

人間は、動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。───ニーチェ

ニーチェの名言です。動物をいくらか含み、超人をもいくらか含む、「中間」としての人間。
どこから人間がはじまるのか、また、どこで人間が終わるのか、線を引くことができないグラデーション。わずかな揺れに感応しながら色合いが変化する、無限のグラデーションを成すのが人間です。
どこかしら動物的でどこかしら超人的な人間の生の形に、制限はない。立ち止まるな、とニーチェから力強いメッセージを贈られているかのようです。

「あらゆる人間は動物であると言うならば、あらゆる人間は動物のうちに含まれると私は言いたい。しかし同時にこのことで私が理解するのは、動物の観念が人間の観念のうちに含まれるということである。」ライプニッツ

人間のうちには、人間的成分がどこからか希薄化しはじめ、動物的成分を強めていく濃淡がある。ニーチェよりも前に、ライプニッツという哲学者が人間と動物の相互貫入をすでに指摘していました。
動物的な、さらには植物的な性質をうちに含みもつ人間の、流動性ゆえの豊穣性。哲学者にして数学者のライプニッツ(1646 - 1716)は天才的な着想で世界を顕微鏡的に究明した人です。

思考に「私」は不要である

ひとつの思考(Gedanke ゲダンケ)がやって来るのは、その「思考」が欲するときであって、「私」が欲するときではない。したがって、「私」という主語は、「思考する」という述語の条件であると言うことは、事実の歪曲である。「それ」が思考するのである( Es denkt エス デンクト)。───ニーチェ

ニーチェ名言のなかで最も哲学的な名言でしょう。せっかくの生を矮小化する「私」への批判です。思考も意志も性愛も、すべては「それ」において決まった後で私のもとに届けられるのだ、こうニーチェは主張します。のちにフロイトが無意識と名付ける「それ Es」です。

幼子は〈私〉を拡大投射した〈人間〉という枠組みなどもたない。〈私〉がなにかを決め、何事かを為すといった能動態偏重には傾いていない。環境世界が〈私〉を生成し、起きた何事かや為した何事かが、はじめて意味を生みだすような、野生的なネットワークのなかにいる。それを大人は思いだすのである。

私という主語がなくても思考は活動しており、私という自己意識の外に「生きること」はある、と考えるニーチェに共振するツイートです。
意識の中心から外れた非人間的ネットワークの中で何事かが生成し、それに見合う「私」が付随してその都度生成するのだから、私は結果であって原因ではない、と。

私の外───橋としての人間へ

魂や意識の内部であろうと、本質や概念の内部であろうと、それらはつまるところ、いつも哲学の原理となっているものです。…ニーチェは反対に、思考やエクリチュールを外との直接の関係のうえに築いています。

出典ジル・ドゥルーズ「ノマドの思考」本間邦雄訳、ジル・ドゥルーズほか『ニーチェは、今日?』本間邦雄ほか訳、ちくま学芸文庫、175頁。但し、一部省略。

意識や魂という内面への隷属関係を断ち切り、思考を自立させるとともに、本質や概念という内部との関係を断ち切り、言葉(エクリチュール)を自立させること。
人間的な干渉をやめることで〈思考する「それ」が言葉を発する〉という現実が顕在化するとニーチェは考えます。
人間の枠付けが妨げになって気づきにくい微粒子状の感情を表面へ引き上げ、新しい自分を生みだすわけです。

剥き出しの世界

ニーチェにとっては、存在、意味、目的、諸価値、神、そして昼と夜、そして全体と統一性が有効性をもつのはただ世界の内部においてのみであって、逆に《世界》そのものは、意味として、全体として思考されることができず、語られることもできないのである。もちろん、なおさらのこと世界 - 外としても思考できない。世界は、世界の外そのものなのだ。

出典モーリス・ブランショ『無限の対話』本間邦雄訳。但し、『ニーチェは、今日?』192頁からの孫引き。

ニーチェは世界の内部を見るのではなく、世界を見る。それは世界を超えた向こう側(世界 - 外)などではなく、意味という保護膜を引き剥がされた世界そのものであり、そのものであり過ぎるという〈過剰〉ゆえに「世界の外そのものである」。
内面や内部への隷属関係を断ち切られた思考と言葉で「それ」が世界を思考し語るとき、剥き出しになった世界、たとえばコンクリートの割れ目から精いっぱい伸びる名の知れぬ花が、まったく新しい姿となって現われるでしょう。

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