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幻のフランス王 ルイ17世を知っていますか?

フランス革命によって両親を失い、劣悪な環境の中で幽閉され続け命を落とした、幻のフランス王ルイ17世。運命の歯車がどこかひとつでも食い違っていなかったら、歴史の闇に消えることはなかったのかもしれません。

更新日: 2020年06月29日

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フランス王に「ルイ17世」なんていたっけ?って思った方もいるでしょう。
それもそのはず、彼は名目上の「フランス王」だったからです。
彼はフランス革命によって、たった10歳でこの世を去りました。

その人生がどれほどのものだったのか、まとめていきます。

ルイ16世とマリー・アントワネットの次男として誕生

出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子となった。姉はのちに従兄のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、ブルボン朝最後の王太子妃となるマリー・テレーズである。

ルイ16世とマリーは二男二女をもうけましたが、長男と次女は夭折。

ルイ・ジョセフが病没したため、ルイ・シャルルが王太子となります。シャルル4歳の頃でしたが、この直後、フランス革命が勃発することになります。

たった4歳でフランス革命に巻き込まれ、その6年後に命を落とすとは思いもしなかったでしょう。

母親から深く愛された

幼年ながらも目鼻立ちは整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持つ美しい顔立ちと愛嬌もあり、活発な性格で宮廷内の人々を魅了した。マリー・アントワネットは「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いだ。

心優しい少年に成長

シャルルはとても心優しい面も持ち合わせていました。自分がされて嬉しかったことを姉にも味合わせてあげたいと、同じことを姉にもしてほしいと、よく要求しました。また、フランス革命が起こり、ヴェルサイユ宮殿からパリに移る馬車に飛びついた女達が、アントワネットに悪態をついた罵声を浴びせると、それまで馬車の後部座席で、両親の間でおびえていたにも関わらず、馬車の窓から顔を出して『ママを許してあげて!』と、母親を案じて叫びました。

わずか8歳で(名ばかりの)国王に

1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。1月28日、ヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。しかし、ルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった[3]。

家族から引き離され、劣悪な環境に一人きり・・・

ルイ・シャルルの監視役
に57歳の野蛮な無教養で粗野な人間が指名された。
 ルイ・シャルルを母のアントワネットから強引に引き離し、書く冥福を着せられ、革命
歌を歌わされ、何か気に入らないと暴行の限りを受けた。父の処刑から9ヵ月後、つ
いに母のアントワネットも処刑された。

 その判決に「ルイ・シャルルに自慰行為を教えた」とあったが「全ての母親に虚偽
と訴えます」と傍聴席にアントワネットは凛として訴えた。

 ルイ・シャルルへは性的虐待、ブランデーの飲酒強要、判決のルイ。シャルルの
供述署名は乱れている。このとき、供述の裏づけとして姉のテレーズと面会した。
 姉と弟の短い抱擁が最後の別れともなった。

厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。

監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。

母の死さえも知らされず・・・

独房に墨で書かれた「ママ、あのね…」という書きかけの言葉と花の絵が残されたことや、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。

ようやく援助を得られたが・・・、時既に遅し

6月6日、新たに主治医となったフィリップ・ジャン・ペルタン医師が治療に向かった。彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び少し、様態が改善した。
しかし、ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた、何の望みもなかった」と報告している。

6月7日、施しようのない衰弱と失神、深夜には容態が急変。8日、脈が弱くなり、腹部も膨張しているシャルルに、医師は付き添い看護師を要請します。すでにシャルルは激痛にもがいています。意識が朦朧としはじめ、汗を大量にかき、喉の奥でゼイゼイと呼吸をしています。3時頃に呼吸困難に陥り、看守が慌てて抱き上げると、長い長いため息をつき、か弱く灯していた命の火を静かに消しました。ルイ・シャルル、フランス王ルイ17世 10歳でした。

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