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英雄の息子ナポレオン2世の不遇な人生

あの英雄ナポレオン1世と皇妃マリー・ルイーズの間に生まれた、ナポレオン2世。英雄のもとに生まれたが故なのか、その人生は不遇なものでした。

更新日: 2020年06月29日

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英雄ナポレオン1世の息子、ナポレオン2世。
本名をナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトといいます。
待望の跡継ぎであり、誕生してすぐに「ローマ王」とされたことからもそのことがうかがえます。
しかし、両親からの愛を十分に受けることのなかった人生でした。

父の退位によって、母親の祖国へ

1814年4月6日にナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿で退位すると、母マリー・ルイーズと共に、5月21日にオーストリアに帰国した。

しかし、オーストリアの政治家メッテルニヒがナポレオンを慕う一派によって担ぎ出されることを阻止するために、監禁状態にされてしまったそう。

母親にも見放され・・・

1816年3月7日に、母マリア・ルイーゼがパルマ公国の統治を任され、パルマへと旅立っていった。その後、彼の生活は一変し、フランス語を話したり、フランス語の本を読む事を禁じられ、ドイツ語を学習する事を強制された。1817年5月1日に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯爵アダム・アルベルトの娘アルベルティーヌを出産し、ウィーンでのフランツとの面会の約束を破ってしまった。母親に約束を破られた彼は、この時大変に悲しんだという。マリア・ルイーゼが重い腰を上げ、フランツに会いに行ったのは、それから2年も経った1818年の7月だった。それからパルマに戻ったマリア・ルイーゼは、1819年8月9日にはナイペルク伯爵の息子のギヨームを生み、また彼との面会の約束を破った。

ナポレオンの血を引いていることから、将来父のようになるのではないかと恐れたのでしょう。
ハプスブルク家へ取り込む策として行われたようです。
母親が息子を省みなかったのは、彼が政略結婚によって誕生したためであるといわれています。

成長した彼は・・・

1822年ごろから、彼は「ライヒシュタット公爵」と呼ばれるようになります。

ドイツ語によるナポレオン中傷に囲まれながら育ってきたライヒシュタット公爵は父の真の姿を知りたいと思い、フランス語を昼夜熱心に学んだ。ライヒシュタット公爵は宮殿内の図書館に入り込んでは、フランス語の本を貪るように読んだ。父の部下ラス・カスが発表した『セント・ヘレナ島の記録』も、モントロン伯爵の『回想録』も、彼を感動で包んだ。ライヒシュタット公は父ナポレオン1世が、常々オーストリア人達が言っているような「ヨーロッパの平和を乱した罪人」ではなく、偉大な英雄であった事を知った。ライヒシュタット公爵はこれ以降、父の事を深く尊敬し、強く憧れるようになった。

ちなみに彼の成績は、ラテン語以外は好成績を修めていたそうです。
時のロシア皇帝から「綺麗で賢く、好感の持てるなかなか良い少年ではないか」という言葉をかけられたそう。
父親の性質の良い面を受け継いだようですね。

「父のようになりたい」、その願いが自身の命を削ることに

理想に燃えていたプリンスは、他の貴族の子供達がお飾りの指揮官に収まるのとは違い、自ら野営地を指揮し、兵士達と同じく熱心に軍事訓練を行っていたそうです。

そして無理が祟り、軍を離れる事になっても、少し体調が回復すると飛んで戻って行く程。

彼の心の中には、いつも自分の年の時の父はこうだったと、偉大なる父に対する憧れとライバル心が交差していた様です。

そんな生活がたたったのでしょう、彼は結核を患うことになります。
しかし、それでもなおこのような生活を送るのです。
すべては、父に近づくために。

不幸な境遇を知っていた側近がマリー・ルイーズへ再三に渡って「どうかフランソワ様にお会いください!」と嘆願したため、亡くなる前に親子の再会は叶ったものの、もはやどうにもならない状態でした。そして”ナポレオン2世”は不運な境遇のまま、21歳という若さで亡くなってしまったのです。

幼い頃に父と離れ離れになり、母からは見放され、孤独な人生を送ったナポレオン2世。
もし若くして死ななければ、どのような人生が待っていたのでしょう。

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