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美貌の皇妃 エリザベート

ハプスブルク家の支配が終わりを迎えつつあった19世紀末期、一人の伝説的美貌を持った女性がいた。その名前は、エリザベート。今もなお、慕われる彼女の人生をまとめた。

更新日: 2019年10月15日

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エリザベートとは?

オーストリア=ハンガリー帝国の実質的最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妃。
「シシィ」の愛称で知られる。

※ドイツ語発音の表記では「エリーザベト」が正しいが、日本では慣例的に「エリザベート」と表記される。この記事では両方の表記が表れることに留意してもらいたい。

出自と少女時代

バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれた。幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリーザベトは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。

ノイシュヴァンシュタイン城などを建てさせたルートヴィヒ2世とは近い親戚で、互いに良き理解者であったという。

エリザベートの生家であるヴィッテルスバッハ家は、神聖ローマ帝国に皇帝を二人も輩出している名門であるが、芸術家気質で変わり者が多いことでも知られる。御多分にもれず、エリザベートの父親、マクシミリアン公爵もこのタイプで、時に農民の格好をしては、バイオリン片手に酒場や路頭をうろつき、幼少時代のエリザベートは、通行人が投げてくれる銅貨を集めたことさえある。彼は湖のほとりの緑豊かな地に城を構え、子供たちに狩りや乗馬、水泳やボートこぎなどを教え、自然の中で伸び伸びと育てた。自家用のサーカス小屋を建てるほどのサーカス好きで、エリザベートは、この父親に鍛えられ、曲馬なみの馬術をこなすほどの名騎手に成長している。

オーストリア皇帝に見初められ・・・

そんな生活は1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げた。シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。

「皇帝のことは慕っています。でも、あの方がわたしのことを想ってくれる、というのがわからないの。こんなに若くて至らない娘なのに。皇帝が幸せになるよう、何でもするつもりよ。でも、ほんとにうまくいくのかしら。ああ、あの方が皇帝でさえなければ…」

息苦しい宮廷生活

ハプスブルク家の女傑として、若き皇帝の背後で実権を握っていた母后ゾフィーは、そんな「田舎臭い」エリザベートに一流の宮廷作法を仕込もうと目を光らせる。素直で可憐なヘレネであれば、姑の手引きにさぞかし感謝したことだろうが、エリザベートにとってはがんじがらめの「くつわ」をはめられるようなものだった。
 第一子のゾフィー(生後一年で赤痢にかかり死亡)が生まれると、乳児は宮廷の定めに従い、乳母・養育係りに預けられ、エリザベートは我が子と母子らしく過ごすことが許されず、はがゆい思いをした。第三子の皇太子ルドルフにいたっては、立派な宮廷人および軍人に育てようとする母后ゾフィーの干渉がひどく、嫁姑は度々激しい口論を交わすことになる。頼みの綱のフランツ・ヨーゼフはこの頃、イタリア独立戦争に奔走しており、愛妻を気遣う余裕も時間もなかった。

「私は牢獄で目を覚ました。手には鎖が重く、憂いは日々に厚い。
自由よ、お前は私から奪われた」

ウィーンからの逃避行

エリザベートは不眠症、食欲不振、対人恐怖症、肺炎などを患うようになり、半年ほど、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に療養に発たねばならなくなった。宮廷から離れると驚くほど回復したものの、戻るとすぐに悪化してしまったため、今度はイオニア海に浮かぶコルフ島で長期療養した。こうして一年後にウィーンに戻ると、子供たちはすっかりゾフィー色に染まっていた。子供を奪われたように感じたエリザベートは、虚脱感を埋めるように引き続きさすらいの旅を続ける。結果、宮廷生活への興味をすっかり失い、皇妃、母、妻としての責務を放棄するようになっていった。

「人間を避ければこの世は素晴らしい」
「旅の目的地が重要なのは、その間に道のりがあるから」

己の美の追求

若さと美貌を永遠に保持するため、二十代からベジタリアンとなったエリザベートは日に三回体重計に乗り、痩身に専心。一七二センチという長身だったが、体重は四十五―七キロを保ち、ウェストは五十一センチにも絞り込まれた。断食を始めとする過度なダイエットのほか、北欧で生まれたばかりの体操を即座に取り込むなどして体形維持に努めた。背中がまっすぐになるよう枕は使わずに寝ていたという。

彼女の自慢はくるぶしまで届くほどの髪で、毎日の髪の手入れに二―三時間を要し、洗髪の際は三十個の卵黄とコニャックをブレンドしたシャンプーが使われた。髪が抜けることを嫌い、手入れの際に髪結い係がうっかり髪を抜いてしまったりすると厳しく叱りつけたという。
 姑ゾフィーに「顔は綺麗だが、歯が黄色く、歯並びが悪い」と言われていたことから、歯にコンプレックスを持ち、話すときは扇で口元を隠し、口数が極端に少なく、いつでも唇を固く結んでいたと伝えられる。人嫌いのため、宮廷内でも人に会うのを必要最低限に抑え、庭に出るのに自分専用の螺旋階段を作らせたというのは有名な話だ。

悲しみに次ぐ悲しみ

ルートヴィッヒ二世の溺死、母の死、妹ゾフィーの焼死そして1889年1月、最大の悲劇が皇帝一家を襲う。皇太子ルドルフがマイヤーリンクの狩猟の館で男爵令嬢と情死を遂げたのである。激しい衝撃を受けてエリザベートは錯乱状態に陥る。皇帝の配慮で葬儀には出席しなかったが、ハプスブルク家の霊廟を訪れ、泣き叫ぶエリザベートの声が地下の墓所にこだまし、鬼気迫るものがあったと霊廟の修道僧が書き残している。旅に明け暮れ一人息子の身辺にいることのなかったエリザベートは、深い後悔に苛まれ、人前をさ避け、さすらいはさらに激しさを増していった。皇太子ルドルフの死後、エリザベートは喪服しか身に付けなくなりその姿は大陸を移動する黒いカモメのようであった。

この立て続けに起きた愛する者の死、それも自殺による死は、エリザベートに死への願望を募らせることになる。そうでなくとも、美に異常なまでに執着していたエリザベートにとって、老いること自体が苦痛で、三十歳を過ぎてからは肖像画を描かせることも写真を撮らせることも極力拒んできた。中年以降はただでさえふさぎこむことが多く、旅以外に生きる喜びを感じられなくなっていた彼女は、ルドルフの死以降、常にべールを被り、大きな扇子で顔を隠し、どこに行くのも喪服で通したという。

旅の果て

1889年9月10日午後1時、放浪の旅の途中、スイスのジュネーヴ、レマン湖畔で、遊覧船に乗ろうと向かう途中、突如として暴漢に襲われて心臓をやすりで一突きにされ倒れた。手当ての甲斐もなく滞在先のホテルのベッドで60歳の生涯を閉じた。犯人は25歳のイタリア人、ルイジ・ルケーニという無政府主義者だった。すでに生きることに疲れ切っていたエリザベートにとって、たとえ暗殺者の手によって迎えた末期であっても、ようやく手に入れられた安息であったのかもしれない。

主席副官から知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフは悲しみに崩れ、「わたしがシシーをどれほど愛したか、そなたにはわかるまい」と嘆いたという。アナーキストが多いからと、エリザベートのスイス行きを懸念していた彼には悔やんでも悔やみきれない結果となってしまったのだ。

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