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フランスが生んだファンタジスタ、ジネディーヌ・ジダン氏の誕生から選手経歴まで

フランスが生んだファンタジスタ、ジネディーヌ・ジダン氏の誕生から選手経歴まで

更新日: 2018年02月12日

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「世界最高のサッカープレーヤーといえば?」という話題になると、真っ先にその名が挙がるジネディーヌ・ジダン氏。そんなスペシャルな男・ジダン氏の経歴を探って参ります。

孔明0530さん

ジネディーヌ・ジダン

ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン(仏: Zinedine Yazid Zidane 発音例, カビル語:Zinəddin Lyazid Zidan、1972年6月23日 - )は、マルセイユ生まれの元サッカー選手。現サッカー指導者でレアル・マドリードの監督。愛称はジズー(Zizou)。選手としては1989年から2006年まで攻撃的ミッドフィルダーとして司令塔の役割だった。

FIFA最優秀選手賞、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、所属チームではワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて獲得した。UEFAゴールデンジュビリーポールでは、過去50年(1954年〜2003年)の欧州のサッカー選手として、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて最も優れた選手に選ばれた。FIFA100選にも名を連ねている。

監督としてもレアル・マドリードの助監督やBチームの監督を務めた後にトップチームの監督に就任。就任1年目でクラブをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。2017年には、史上初めて選手、監督双方でオンズドール、FIFA最優秀賞を受賞した人物となった。

アルジェリアの少数民族カビール人(→ベルベル人)の両親の元に生まれたため、フランスでは「北アフリカ移民の星」としての象徴的な人気もある。

誕生から幼少期

ジダンは、兄5人と姉1人の5人兄弟の末っ子として生まれた。ジダンの両親は、アルジェリア独立戦争が起きる少し前の1953年にフランス領アルジェリアからパリに移住してきた少数民族ベルベル人で、一家は1968年から港町マルセイユ北部の北アフリカ移民が集まって住む一角で暮らし始めた。そして72年にジダンが生まれた。

父のイスマイルは倉庫番とデパートの夜間警備員で、母のマリカは主婦だった。一家が居住していたカステラン地区という場所は、失業率が高く、犯罪発生率も高い区域だったが、一家の暮らしは快適な方だった。ジダンは5歳頃、兄や近所の子どもたちと家の近くにあった800平米ほどの広場でサッカーを始めた。これがジダンとサッカーの出会いだった。兄たちのうち、3男のノルディーヌはジダンと同じくらいサッカーの素質があったという。

当時、ジダンはオリンピック・マルセイユのファンであり、特にブラジュ・スリスコヴィッチ、エンツォ・フランチェスコリやジャン=ピエール・パパンがお気に入りだった。子供時代は父親の影響で柔道もしており、11歳の時に茶帯になった。

選手経歴

9歳で地元クラブのASフォレスタに加入すると、すぐにその才能を認められチームキャプテンに抜擢された。10歳の時には隣の地域にあるUSサン=タンリというASフォレスタよりも格上のチームの一員となった。1983年に、SOセプテーム・レ・ヴァロンに加入した。しばしばプロヴァンス地方の選抜チームでもプレーしたが、多くの出場機会には恵まれなかった。

14歳の時に参加したエクス=アン=プロヴァンスでの3日間のトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトであるジャン・ヴァローの目に止まった。再びヴァローが見に来た試合、ジダンは他選手の欠場によってリベロのポジションに入り、決していいプレーを見せることはできなかったものの、ヴァローはカンヌでのトレーニングをジダンに提案した。マルセイユを離れてカンヌでホームステイをする提案にジダンの父親は反対したが、貧しかった一家では受けられない教育を受けさせることができると考えた母親はこれに賛同し、ジダンはマルセイユを離れることになった。

家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えたFCナント戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた。

翌シーズン、ジダンはリザーブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた。3年目の第3節AJオセール戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。

1991年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長からルノー・クリオをプレゼントされた。3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、フランス・フットボールから「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された。1991-92シーズンは、UEFAカップでの躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。パリで兵役に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。

シーズン終了後、350万フラン+4選手でFCジロンダン・ボルドーへ移籍。

移籍初シーズンは、左の守備的MFとしてプレー。35試合に出場して10得点を挙げ、UEFAカップ出場権を得た。1994年にはリーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれた。1995年、ブラックバーン・ローヴァーズFCの監督をしていたケニー・ダルグリッシュがジダンとクリストフ・デュガリーの獲得に興味を示すも、会長は「ティム・シャーウッドがいるのに何故ジダンを欲しがるのか?」と語り、獲得することはなかった。

1996年にはインタートトカップを勝ち上がり出場したUEFAカップで決勝まで進出。4回戦レアル・ベティス戦での35メートルのシュートや3-0で勝利を収めた準々決勝ACミラン戦2nd legなど好調なプレーを披露。決勝では敗れたものの、ユヴェントスの首脳陣をして「ミシェル・プラティニの後継者をみつけた」と言わしめた。

ユヴェントス

1996年7月、移籍金3,500万フランでユヴェントスへ移籍。「海兵隊長」のニックネームで呼ばれるフィジカルコーチのジャンピエロ・ヴェントローネのフィジカルトレーニングとメディカルスタッフのケアによって強靭な肉体を手に入れた。移籍当初は低調であり多くの批判を受けたものの、当時監督だったマルチェロ・リッピはジダンを起用し続けた。

リッピはジダンの最も適したポジションを試行錯誤し、当初のセントラルMFから2トップの下の攻撃的なポジションに置いた。そのことから徐々にチームに順応し、10月20日のインテル戦をきっかけにユヴェントスのファンから認められ始めた。試合前にチームメイトのラファエレ・アメトラーノ(英語版)から「今日、お前はゴールを決めて俺達を勝たせる」と言われていたジダンは、得点を決めた後ベンチのアメトラーノを指さして駆け寄り抱擁を交わした。このシーズン、ユヴェントスはセリエA、インターコンチネンタルカップ優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。

その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称されたアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップを操るトップ下の位置でプレー。2度のリーグ優勝に貢献したほか、UEFAチャンピオンズリーグにも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスはUEFAチャンピオンズリーグを優勝しており、レキップ紙はジダンを不吉の象徴として黒猫と呼んだ。

1999-00シーズン、ジダンは好調を維持し、クラブも第26節終了時点で17勝8分1敗の成績でシーズンのほとんどで1位をキープ。しかし最終8試合で4敗を喫し、最終節のペルージャ戦でも0-1で敗戦。2位のSSラツィオが勝利したため、勝ち点1差で優勝を逃した。ジダンは「私たちは1年間こつこつとつらい仕事をしてきたが、最終節ですべてを失った。こんなことならもっと早く負けていればよかった」と悔しさを滲ませた。

翌シーズン、カルロ・アンチェロッティは3ボランチを置くフランス代表に近いフォーメーションを敷き、同郷のダビド・トレゼゲも加入した。ユヴェントスは上々のスタートであったが、2000年10月25日、UEFAチャンピオンズリーグのハンブルガーSV戦でジダンはヨヘン・キーンツのファウルに対して頭突きの報復行為を行ったことによって5試合の出場停止処分を受けた。この試合ではエドガー・ダーヴィッツもレッドカードを受けて9人での戦いを強いられ、1-3で敗北した。

その翌日のガゼッタ・デロ・スポルトでは「ジダンとダーヴィッツがユーヴェを沈ませた」との見出しで批判された。2週間後のパナシナイコスFC戦でもユヴェントスは負け、UEFAチャンピオンズリーグを予選敗退した。また、より開放的でテクニカルなスペインリーグでのプレーを望んだことやスペイン人の夫人が母国で暮らすためにイタリアを離れたがっていたことなどから、クラブに何度も移籍を訴えた。ユヴェントスのオーナーであったジャンニ・アニェッリは、「問題はジダンじゃなくて奥方にある。私には彼女をどうすることもできない」と語っていた。

レアル・マドリード

2000年8月23日、モナコで行われた欧州サッカー連盟のレセプションで偶然レアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレスが同じテーブルとなった。その際にペレスは「レアル・マドリードに来たいか?」と英語で書いた紙ナプキンをジダンに見せて問い、ジダンはそれに「イエス」となぐり書きして答えた。2001年7月、当時史上最高額となる9000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍。

ジダンはユヴェントス時代と同じ背番号21を望んでいたが、サンティアゴ・ソラーリがすでに使用していたため、前年に引退したキャプテンであるマヌエル・サンチスの5番を継いだ。

当時のクラブと代表双方でキャプテンを務めていたフェルナンド・イエロやツートップを組んでいたラウル・ゴンサレスとフェルナンド・モリエンテス、また超攻撃的左サイドバックのロベルト・カルロスや自身と同じくバロンドール受賞経験者のルイス・フィーゴら豪華なタレントを擁し、銀河系軍団と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した。また、当時のレアル・マドリードの補強、チーム作りの方針は「ジダネス&パボネス」(ジダンなどのスター選手とフランシスコ・パボンなどのカンテラ選手の共存)と呼ばれた。

加入当初は親しい友人に「こんなことなら引退してしまいたい」とこぼしたほどマスコミからのプレッシャーに追い詰められ、スペインでの生活への順応にも苦戦していたが徐々にチームに馴染み、特に2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦、バイエル・レバークーゼン戦での決勝点となったボレーシュートは、CNNなどのメディアでサッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価され、「永遠に伝説として語られることになるゴール」(レキップ)、「ジダンは神に祝福されている」(フランス・フットボール)と賞賛された。

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