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【サッカーの王様】ペレの嘘みたいな凄い成績とエピソード。

サッカー史上最高の選手と日本人以外には当たり前のように言われているペレの経歴を、日本人を教育する為に紹介します。これを読んだら「メッシが史上最高」などと言う日本人は減るでしょう。

更新日: 2018年09月30日

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この記事は私がまとめました

rulliさん

【本編開始】

ペレの凄さを分からず「メッシを史上最高」と言う日本の馬鹿雑誌と馬鹿テレビ、馬鹿Youtube業者に教育されている日本人を教育し直します。

1940年生まれ。

1956ー1974年 サントスFC
1975ー1977年 ニューヨーク・コスモス


サントスFC時代、638試合619得点(公式戦)

ブラジル代表、92試合77得点(歴代1位)
《この77得点は47年経っても未だに破られていない[2018年現在〕》。

【主なタイトル】
W杯3回優勝(1958、1962、1970)

クラブ世界一2回(1962、1963)

サントスFCでブラジル王者5連覇(1961-1965)

サンパウロ州リーグ、得点王11回(17才から9年連続得点王記録も作った)。

ペレがヨーロッパ相手に通用している証拠VTRです。「ペレはブラジル国内だけ」と言うアホな日本人はこれを見たら一発でだまります。

ご覧のようにペレがミラン、ユベントス、インテルなどと試合して得点しているシーンが収録されています。
ペレは現役時代にイタリアのクラブ(一番守備の強い国)と対戦して38試合41ゴールしています。これはミラン、インテル、ローマなど強豪クラブとばかり試合してこの成績です。日本人は日本の雑誌のアホ教育でペレが欧州のクラブとろくに試合をしていないと思っているのばかりです。本当にアホだらけです。

ペレが現役時代、出場した試合の90%以上は映像に残っていません。そして足の速かった20才前後の若い頃の映像ほど残っていません。それが残っていたらペレの凄さは後世の人間にもっと伝わったでしょう。

ブラジル、アルゼンチンというのは名選手が本当によく出て来る国であるが、未だにクラシコの得点数でペレを超える選手が出て来ない。
それだけペレが大試合にとても強く偉大だという事だ。
ジーコ、ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、リバウド、ロナウジーニョ、ネイマール、マラドーナ、ケンペス、バティストゥータ、メッシなど両国に名選手が数多く生まれたが、結局、誰もペレのクラシコ得点数を抜けなかった。

ペレは16才でブラジル代表デビューして、   「自分がこのレベルでやっていけるとすぐ確信した」と述べていた大天才。メッシは16才で何してた?まだプロ選手ですらなかった。マラドーナも16才で代表デビューしたんだぞ。

写真は10代の時のペレ。
ペレは16才で初参加したリーグ戦で1年目から大活躍したので得点王になった(その後、9年連続得点王)、そして16才でブラジル代表に選ばれた。
ブラジル代表に弱冠16才でデビューした(1957年の7月7日)。デビュー戦が強豪アルゼンチン代表との対戦だったが、途中出場して代表初得点を決めた(試合は1対2で敗れた)。
3日後、再びアルゼンチンと対戦して初先発してまた得点した。ペレは1ゴールを決めた。ブラジルは2対1で勝利した。
ペレは16才だったが強豪アルゼンチンから2試合連続ゴールをした。ペレはブラジル代表デビュー戦から怪物ぶりを発揮した。

左の写真は、バルセロナ時代のエバリスト。
彼は僅か5年の在籍で、173ゴール(219試合)を挙げた。
バルセロナにはブラジル代表のエース級の名選手が数多く在籍したが(ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、リバウド、ロナウジーニョ、ネイマールなど)未だにブラジル人FW、エバリストの得点記録を抜けない。
エバリストが1964年にバルセロナを退団して54年経ったが(2018年現在)、後輩のブラジル人選手は誰も抜けない。
彼はそれぐらいの名選手だが、25才の時に、16才のペレにブラジル代表のレギュラーの座を奪われて、代表落ちした。そしてW杯出場を逃した。
それぐらいペレが怪物で大天才だったという事だ。

写真は試合前に父親と写るペレ(恐らく16才頃の写真)。まだ保護者同伴であった。
左がペレで、右が父親のドンジーニョ。
ペレは15才で親善試合に出て一軍デビューした。
翌年、ペレは16才でリーグ戦(サンパウロ州リーグ。当時、ブラジルでリオ州と並び一番レベルの高いリーグ)に初参加して公式戦デビュー。それで1年目から得点王になった。41得点も決めた。
17才の誕生日を迎えた2カ月後、リーグ戦終了した。
ペレはまだ子供であったがブラジルで一番うまい選手であった。
天才少年ペレは、リーグ戦1年目から得点王になるという前代未聞の大活躍をした。
ペレのこの最年少得点王記録はブラジルで未だに破られていない。

写真中央は、W杯1958年大会で決勝戦終了直後、優勝して感動して泣いているペレ。まだ17才だった。右は、GKのジウマール。
ペレは最年少メンバーだったがチームのエースで、チーム得点王となりブラジルを優勝させた。
ブラジル悲願の初優勝は17才の少年の大活躍によってもたらされた。
ペレは弱冠17才で12月にサンパウロ州リーグの得点王になった半年後、翌年6月のW杯でMVP級の活躍で優勝してしまった。
ペレは17才で最大の夢をあっさりと叶えてしまった。

写真は、17才でW杯に優勝して「優勝トロフィー」を掲げるペレ。
ペレはW杯に史上最年少の年齢(17才)で参加して話題になっていたのだが、大会が終わった時には主役になってしまいもっと話題の人物となった。
彼はまさに天才、怪物と呼ぶべき選手だろう。

ペレはW杯準決勝のフランス戦で17才で3得点して、ハットトリックを達成した。彼は未だに最年少ハットトリック記録を持っている。恐らくこの記録は永遠に破られないだろう。

写真は、1958年12月にペレが「18才でブラジル史上シーズン最多得点記録、66得点」を作ってサントスFCで優勝した時の記念写真。この年は半年前の6月にW杯でも主役で優勝していた。
ペレは18才にして既にブラジル史上最高の選手になっていたのだ。

18才と言うと、他の若者がようやく下部組織からプロ・デビューする年齢だ。しかし、ペレは既にW杯に優勝し、史上最多得点記録を作り、ブラジル史上最高の選手になっていた。
彼は本当に他の選手とは次元の違う選手である。

写真はその2年後、1961年にイタリアでインテルと再び試合した時のペレ(20才)。右の選手はバロンドール受賞者でインテルのエース、ルイス・スアレス。この試合もサントスは4-1で勝った。ペレは1得点した。

W杯初優勝した翌1959年、サントスFCは欧州遠征してインテル・ミラノと試合して7-1で勝った。
この試合、18才のペレは4得点した。大ショックを受けた当時のインテル会長は試合後、ペレにオファーを出したがサントスFCは断った。
「ペレは欧州で通用しない」と言うアホ日本人は歴史を知るべきだ。ペレはバルセロナのFWから16才でブラジル代表のレギュラーを奪った大天才で、欧州の強豪相手に点を取れる。

写真は、1963年のペレ。23才の時の写真。
これはクラブ世界一を決めるインター・コンチネンタル・カップの第1戦の試合前の写真だ。
これはイタリア、ミラノのサンシーロ・スタジアムでの写真。

左の選手はACミランのMF、ジャンニ・リベラ(1969年にバロンドール受賞した)。
この試合、サントスFCはACミランに2-4で敗れた。しかし、ブラジルでの第2戦(ホーム、しかしサンパウロではなくリオデジャネイロで開催した)を4-2で勝利してタイに戻した。
そして引き分けなので第3戦が行われ、サントスFCは1ー0(リオデジャネイロ開催)で勝ち、連勝してミランを下し、この年、世界王者となった。

写真は25才の時のペレ。
サントスFCのアウェー用のユニフォームを着て写っている写真。
ペレはサントスFCの伝説になった。

当時ブラジルは、W杯連覇して国内に優秀な選手が数多く居たが、ペレは9年連続で得点王になった。

ペレは現役時代の垂直飛び(ジャンプ力)が104センチで、現在のNBAバスケット・ボールの一流選手と同じレベルである。スピードも映像解析から元フランス代表のティエリ・アンリより速い事が確認されている。
ペレは身体能力において現在のトップ選手より優れていた。

写真は、W杯1970年大会に優勝して、3度目のW杯優勝を達成したペレ(29才)。
優勝セレモニーでトロフィーを掲げるペレ。

ペレはW杯1966年大会で、酷いファウルを何度も受けて負傷して優勝できなかった事に怒り、25才という脂の乗った時期に、ブラジル代表引退を発表した(これもよく考えれば25才で引退とは前代未聞で凄い話である)。
しかし、その2年後に翻意して、再びブラジル代表に戻って来てW杯南米予選を戦い、そして3度目のW杯に参加した。そして優勝した。
大天才ペレにとって、W杯は17才の時から簡単な大会である。

写真は、W杯1970年大会の時のペレ。この時、29才。この翌年にブラジル代表を引退した。
2018年現在、ペレがブラジル代表引退して47年経ったが、未だにペレの代表最多得点記録(77得点)は破られていない。
ブラジルは世界で一番名選手が数多く現れ、才能の宝庫と呼ぶべき国であるが、47年も記録が破られていない事はとても凄い事だ(今の方が代表の試合数が多いにも関わらずだ)。
全盛期に2年間休まなければペレは代表100得点を軽く達成できた。記録をもっと伸ばせた。また33才ぐらいまで代表でプレイしてたらもっと記録は伸びた。そういう意味ではとても残念である(当時のサッカー選手は今より引退が早かった)。

「天才マラドーナ」とよく言われるが、天才という言葉はペレの方がふさわしい。
サッカーの大天才がペレである。

ペレはマラドーナより遙かに得点能力が高い10番である。そして、ペレはマラドーナより遙かに多くのタイトルを獲得した。

ペレは「正直言って、私の方がマラドーナより上だと思う」
とマスコミ、ファンが持ち出す(アルゼンチンと西欧一部の国がやる話題)について回答している。

ペレにしてみれば、「はっきり言ってしまえば両者は比較する段階でない、答えは最初から分かり切っている事だ」というのが本当の気持ちだろう。

写真は、ニューヨーク・コスモス時代のペレ。

ペレは攻撃的MFでありFWではありませんでした。
ペレは一番点を取れるCFのポジションでプレイしていませんでした。
それでもCF以上に点を取っていました。

ペレは、「私はパスを多くしていた。CFのロナウド・ナザリオやロマーリオと得点数を比べられる事に当惑する。私は彼らとは違うポジションだった」
とコメントしています。

でもペレはその2人より得点数が多いです。

写真は、W杯1966年大会で酷いファウルを受けて負傷した時のペレ。
この大会後、ペレはW杯であまりに酷いファウルを受けた事に怒って、ブラジル代表を2年間も放棄した。ペレは25~27才という選手として脂の乗った時期に代表を放棄してしまった。

既にW杯で2回優勝しているのでこういう決断が出来たのかも知れない。しかし、FIFAが新ルールを作ったのでペレは2年後に復帰した。そして3度目のW杯優勝を簡単に成し遂げた。さすが大天才ペレである。

写真は、1962年のサントスFCの集合写真。
サントスFCの攻撃陣はサッカー史に大きな足跡を残した。
前列右から2人目がペレ。
前列右端の選手がぺぺ。
前列右から3人目がコウチーニョ。
前列左端の選手がドルバル。

サントスFCの攻撃陣はペレ656試合643ゴール、ぺぺ750試合405ゴール、コウチーニョ457試合360ゴール、ドルバル612試合198ゴール。

公式戦ゴールが4人だけで1600得点以上になる。サッカー史上最強の攻撃陣だ。
サポーターは大量得点の試合が多くて、さぞ幸福だったろう。

このペレのハットトリック回数は圧倒的である。
この記録は永遠に破られない可能性が非常に高い。

2018年現在で、「天才」と呼ばれる事が多いリオネル・メッシですらペレの半分の回数しか残せていない。
現代の天才の能力を持ってしても、この92回の記録には全く届かない。
ペレが史上最高の選手とされるのは当然だろう。

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