1. まとめトップ

【サッカーの王様】          ペレの嘘みたいな凄い成績と      エピソード。

「サッカー、史上最高の選手」と日本人以外には当たり前のように言われているペレの経歴を、日本人を教育する為に紹介します。これを読んだら「メッシが史上最高」などと言う日本人は減るでしょう。

更新日: 2020年03月15日

0 お気に入り 23760 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

rulliさん

【本編開始】

ペレの凄さを分からず「メッシを史上最高」と言う日本の馬鹿雑誌、テレビ、馬鹿Youtube業者に教育されてる日本人に歴史を教えます。

1940年生まれ。

【所属クラブ】
1956ー1974  サントスFC
1975ー1977  ニューヨーク・コスモス


サントスFC時代、638試合619得点(公式戦)

【ブラジル代表】
1958-1971  92試合77得点(歴代1位)

《この77得点は48年経っても未だに破られていない[2019年現在〕》。


【主なタイトル】
W杯3回優勝(1958、1962、1970)

クラブ世界一2回(1962、63)

ブラジル王者5連覇(1961ー65)【サントスFC】

サンパウロ州リーグ、得点王11回
(17才から9年連続得点王記録も作った)。

ペレがヨーロッパ相手に通用している「証拠VTR」です。    「ペレはブラジル国内だけ」と言うアホな日本人は、       これを見たら一発でだまります。

ご覧のようにペレがミラン、ユベントス等と試合し、得点シーンが収録されてます。
ペレは現役時代、イタリアのクラブ(一番守備の強い国)と対戦し、38試合41ゴールしました。
ミラン、インテル、ローマなど強豪とばかり試合し、この成績です。

日本人はペレが欧州のクラブとろくに試合した事がないと思ってるアホだらけです。
彼は、他の欧州国チームとも何十試合も対戦しました。わざわざ欧州遠征し、戦いました。

ペレの「出場試合の90%以上」は映像に残っていません。
足が速く、エネルギッシュだった20才前後の若い頃の映像ほど残っていません。
それが残っていたら彼の凄さは後世の人間にもっと伝わったでしょう。

ペレと言うと、盛んに「1000ゴール以上得点した」
(親善試合を含めた数字)と、
その並外れた得点能力が話題になるが、
彼は、W杯で「最多アシスト」記録を持っている、
彼はれっきとした「パサー」でもあるのだ。
本当に彼は「10番」なのだ。

「得点も、アシストも最上レベル」の天才。
それがペレである。

ペレが引退して、約50年になるが(2019年、現在)、
未だに「W杯アシスト記録」は、破られていない。

ブラジル、アルゼンチンは名選手が
本当によく出て来る国だが、
未だに「クラシコの得点数」で
ペレを超える選手は現れない。
それ程、彼がとても大試合に強く、
偉大という事だ。

ジーコ、ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、
リバウド、ロナウジーニョ、ネイマール、
マラドーナ、ケンペス、バティストゥータ、メッシなど両国に名選手が数多く生まれたが、
結局、誰も「クラシコ得点数」を抜けなかった。


ペレは、16才でブラジル代表デビューし、    「自分がこのレベルでやっていけるとすぐ確信した」
と述べた大天才。
メッシは16才でまだプロ選手ですらなかった。

写真は、10代のペレ。

ペレは16才でリーグ戦デビューし、
1年目から大活躍し得点王になった
(その後9年連続得点王)
プロ1年目で、ブラジル代表に選ばれた。

ブラジル代表に弱冠16才でデビュー
(1957年7月7日)。
初戦が強豪アルゼンチン代表との対戦だったが、
途中出場し、代表初得点を決めた
(試合は1対2で敗れた)。
3日後、再びアルゼンチンと対戦。
ペレは初先発し、1得点した。
ブラジルは、2対1で勝利した。
彼は16才だったが強豪アルゼンチンから
2試合連続ゴールを決めた。

ペレは、代表デビュー戦から怪物ぶりを発揮し、
この年齢で代表に定着した。

16才でデビューし、
プロ1年目から得点王になるなんて、
本当にペレは「天才」ですね。
日本人はTBSの『消えた天才』とかいうバカ番組を
見て生きているので、本当の天才を知らない。
だから頭のとてもおかしい民族だと思います。
本当の天才は、プロ1年目で得点王で、
プロ2年目、17才で
(日本だと高校3年、初夏)
W杯を主役で優勝してます。

ペレは、メッシというW杯優勝できない凡才とは、
違いますね。
その後、ペレはプロ・デビュー1年目から
「9年連続、得点王」の記録を作りました。
やっぱり、メッシとは格が大きく違いますね。

日本人は、ペレはビッグ・クラブに入団し、
その為、容易に偉大なキャリアを築いた
と思っている人間ばかりだ。しかし、それは違う。

ペレがサントスFCに入団した時、
サントスはまだ「3回」しか優勝経験がなかった。

ペレが1軍デビューした際の
現在、「サンパウロ州・ビッグ4」と呼ばれる
他の3チームの優勝回数は、
コリンチャンス  15回(当時、最多)
パルメイラス   12回 
サンパウロFC   7回
だった。

その後、ペレの力により、彼の退団時には
サントスFCは、計13回優勝チームで、
「ビッグ・クラブ」と扱われるようになった。
それ以来、現在でもその地位で存在しているのだ。

ペレは、
メッシのようにビッグ・クラブ(バルセロナ)で
キャリアをスタートし、
記録を作った訳ではなかった。
また当時、
ブラジルはW杯で優勝した事がなかった。
ペレの登場で、「最多優勝国」になった。

天才少年ペレの登場で、歴史は変わった。
ペレは、サントスFCでも、ブラジル代表でも
両チームを育て、現在の権威(ブランド)を
作り上げたのである。

最初からビッグ・クラブの恩恵に預かり、
楽に勝利し、記録を作った他の連中とは、
大きく違う訳である。

写真、左端が ペレ。シュートを撃った。

リオ・デ・ジャネイロのマラカナン・スタジアムで
行われた「コパ・ロカ」という、
両国の「定期戦の大会」に、ペレは出場した
(観客、8万人)。

後半から出場し、後半31分、同点ゴールを決めた。
しかし、その1分後、アルゼンチンが追加点を決め
試合は、1-2で敗れた。

左の写真は、バルセロナ時代のエバリスト。

エバリストはバルセロナ5年の在籍で
リーグ戦で、78ゴール(114試合)を挙げた。
現在でもヒバウドの86ゴール(157試合)に次ぎ、
バルセロナ歴代ブラジル人助っ人で、2位の得点数だ。
同クラブにはブラジル代表エース級の名手が数多く
在籍したが(ホマーリオ、ホナウド・ナザリオ、
ヒバウド、ホナウジーニョ、ネイマールなど)、
彼はそれに匹敵する名手だ。

エバリストは当時、ブラジル人FWでトップの1人だった。
しかし、25才の時、
16才のペレにブラジル代表の座を奪われ、
W杯出場を逃した。
それ程、ペレが怪物で大天才だったという事だ。

写真は試合前、
左がペレ(16才頃)、右が父親、ドンジーニョ。
まだ保護者同伴であった。

ペレは、「トルネオ・リオ・サンパウロ」
(リオとサンパウロ、2州中で、最強チームを決める大会)に参加し、公式戦デビュー。
「第1節、サンパウロ戦(1957年4月26日)」で
3-1で勝利し、1得点した。

また「サンパウロ州リーグ」では
1年目で得点王。
41得点(38試合)も決めた。
17才の誕生日の2カ月後、リーグ戦が終了した。

彼はまだ子供だったがブラジルで一番うまかった。
天才少年ペレは、「リーグ戦1年目から得点王」
という前代未聞の大活躍をした。
「最年少得点王記録」は未だに破られていない。

写真中央は、W杯1958決勝戦終了直後、
優勝し、感動して泣いているペレ。
まだ17才だった。
右は、GK、ジウマール。

ペレは最年少だったがエースで
「チーム得点王」となりブラジルを優勝させた。

ブラジル悲願の初優勝は17才の少年の大活躍によってもたらされた。
ペレは12月に
「サンパウロ州リーグ、得点王」になった半年後、
翌年6月のW杯で、
弱冠17才でMVP級の活躍で優勝してしまった。
彼は17才で
最大の夢をあっさりと叶えてしまった。

写真、右が ペレ。
   左が GK、キャレ・スベンソン
        (スウェーデン代表)

決勝戦で、ペレは後半10分、後半45分に2得点し
ブラジルは、5-2で地元スウェーデンを下した。
見事、悲願の初優勝を成し遂げた。

ペレは、「チームのエース」で、
チーム最多の6得点(4試合)を挙げた。

ペレは大会前に怪我をし、調整が遅れ、
先発も奪われ、GLの第1戦、第2戦は欠場した。
しかし、GL第3戦から先発すると、
決勝トーナメントでは、
「3試合連続ゴール」の大活躍をした。
怪我してなければ、もっと点を取り、
更に活躍できただろう

写真は、17才でW杯に優勝し、
「優勝トロフィー」を掲げるペレ。

ペレはW杯に大会史上最年少17才で参加し、
話題の選手となっていた。
しかし、大会が終わった時には主役になってしまい更に人気者となり、この大会以降、
世界を代表するスターの1人となってしまった。

ペレは17才で既に「スーパー・スター」になってしまった。

ペレはW杯準決勝のフランス戦で
17才で3得点し、ハットトリックを達成した。
彼は未だに「W杯最年少ハットトリック記録」を
持っている。
恐らくこの記録は永遠に破られないだろう。

日本人よ。高校サッカーで、
「天才」だの何だの騒ぐ、バカな事はいい加減、
止めろよ。
TBSは「消えた天才」とかいうバカな番組を
作るなよ。
天才は、「高校3年で、W杯を主役で優勝する」
んだよ。

写真は、1958年12月にペレが
「18才で、ブラジル史上シーズン最多得点記録、66得点(46試合)」を作り、
サントスFCで優勝した時の記念写真。

この年は半年前の6月、W杯でも主役で優勝していた。
ペレは18才にして既に
「ブラジル史上最高の選手」になっていたのだ。

18才と言うと普通の若者はようやく下部組織からプロ・デビューする年齢だ。
しかし、ペレは既にW杯優勝し、
「シーズン史上最多得点記録」を作り、
ブラジル史上最高の選手になっていた。
彼は本当に他の選手とは次元の違う選手である。

左の写真は、7-1で勝利した2年後、1961年、
イタリアでインテルと再戦したペレ(20才)。
右は、バロンドール受賞者で、インテルのエース
ルイス・スアレス。

この試合も4-1で大勝した。ペレは1得点した。

W杯初優勝した翌1959年、
サントスFCは欧州遠征し、インテルと戦い、
7-1で大勝した。
18才のペレは、4得点した。

試合後、大ショックを受けたインテル会長は
ペレにオファーを出したが
サントスFCは断った。

「ペレは欧州で通用しない」と言う日本人は
歴史を知るべきだ。
ペレは16才で、バルセロナFWから
ブラジル代表レギュラーを奪った大天才で
欧州の強豪相手に点を取れる。

写真は、ACミラン時代、アルタフィニ。

W杯1958年のブラジル代表で
ペレに次ぎ、2番目に若かった
19才、ジョゼ・アルタフィニは大会直後、
イタリアのACミランに移籍した。
当時、セリエAで歴代3位、216得点を決めた
(現在は歴代4位 [2018年時点])。
彼は、ACミランのエースで
欧州チャンピオンズ・カップ、セリエAで
得点王になった。優勝もした。
ペレより下手な2才上の選手が、
欧州でこれだけ大活躍できたのだから、
ペレは欧州で容易に活躍できると考えるのは
普通だろう。

ペレは「ブラジルの宝」だった為、
当時ブラジル政府は海外移籍に反対し、
サントスFCも手放す事を拒否した。

写真は、
右が ペレ(23才)。
左は ACミランの司令塔MF、ジャンニ・リベラ
(1969年にバロンドール受賞した)。


左の写真は、1963年、
イタリア・ミラノで開催された
クラブ世界一を決める
「インター・コンチネンタル・カップ、第1戦」
試合前の一枚。

この試合、サントスFCは、ACミランに
2-4で敗れた。
しかし、ブラジルでの第2戦を
(ホーム、しかしサンパウロでなく、
リオデジャネイロで開催した)
4-2で勝利し、タイに戻した。

1勝1敗で、決着がつかず、第3戦を行い、
(リオデジャネイロ開催)
サントスFCは1ー0で勝ち、
この年、世界王者となり、世界2連覇を達成した。

1 2 3