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【サッカーの王様】          ペレの嘘みたいな凄い成績と      エピソード。

「サッカー、史上最高の選手」と日本人以外には当たり前のように言われているペレの経歴を、日本人を教育する為に紹介します。これを読んだら「メッシが史上最高」などと言う日本人は減るでしょう。

更新日: 2019年05月18日

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rulliさん

【本編開始】

ペレの凄さを分からず「メッシを史上最高」と言う日本の馬鹿雑誌と馬鹿テレビ、馬鹿Youtube業者に教育されている日本人を教育し直します。

1940年生まれ。

1956ー1974年 サントスFC
1975ー1977年 ニューヨーク・コスモス


サントスFC時代、638試合619得点(公式戦)

ブラジル代表、92試合77得点(歴代1位)
《この77得点は47年経っても未だに破られていない[2018年現在〕》。

【主なタイトル】
W杯3回優勝(1958、1962、1970)

クラブ世界一2回(1962、1963)

ブラジル王者5連覇(1961-65)【サントスFC】

サンパウロ州リーグ、得点王11回
(17才から9年連続得点王記録も作った)。

ペレがヨーロッパ相手に通用している証拠VTRです。      「ペレはブラジル国内だけ」と言うアホな日本人はこれを見たら一発でだまります。

ご覧のようにペレがミラン、ユベントス、インテルなどと試合して得点しているシーンが収録されています。
ペレは現役時代にイタリアのクラブ(一番守備の強い国)と対戦して38試合41ゴールしています。これはミラン、インテル、ローマなど強豪クラブとばかり試合してこの成績です。日本人はペレが欧州のクラブとろくに試合をしていないと思っているアホだらけです。他の欧州国チームとも何十試合も対戦しました。

ペレが現役時代、出場した試合の90%以上は映像に残っていません。足が速くてエネルギッシュだった20才前後の若い頃の映像ほど残っていません。それが残っていたらペレの凄さは後世の人間にもっと伝わったでしょう。

ペレと言うと、盛んに「1000ゴール以上得点した」
(親善試合を含めた数字)と、
その並外れた得点能力が話題になるが、
彼はW杯で「最多アシスト」記録を持っている、
彼はれっきとした「パサー」でもあるのだ。
本当に彼は「10番」なのだ。

「得点も、アシストも最上レベル」の天才。
それがペレである。

ペレが引退して、約50年になるが(2019年、現在)、
未だに「W杯アシスト記録」は、破られていない。

ブラジル、アルゼンチンというのは名選手が本当によく出て来る国であるが、未だにクラシコの得点数でペレを超える選手が出て来ない。
それだけペレが大試合にとても強く偉大だという事だ。
ジーコ、ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、
リバウド、ロナウジーニョ、ネイマール、
マラドーナ、ケンペス、バティストゥータ、メッシなど両国に名選手が数多く生まれたが、
結局、誰もペレのクラシコ得点数を抜けなかった。

ペレは16才でブラジル代表デビューして、   「自分がこのレベルでやっていけるとすぐ確信した」
と述べた大天才。
メッシは16才でまだプロ選手ですらなかった。

写真は、10代の時のペレ。

ペレは16才で初参加したリーグ戦1年目から 
大活躍し得点王になった(その後9年連続得点王)
そしてこのシーズン中、ブラジル代表に選ばれた。

ブラジル代表に弱冠16才でデビューした(1957年の7月7日)。デビュー戦が強豪アルゼンチン代表との対戦だったが、途中出場して代表初得点を決めた(試合は1対2で敗れた)。
3日後、再びアルゼンチンと対戦し初先発してまた得点した。ペレは1ゴールを決めた。ブラジルは 2対1で勝利した。
ペレは16才だったが強豪アルゼンチンから2試合連続ゴールをした。ペレはブラジル代表デビュー戦から怪物ぶりを発揮した。

プロ1年目、16才でデビューして、
1年目から得点王になるなんて、
本当にペレは「天才」ですね。
日本人はTBSの『消えた天才』とかいうバカ番組を
見て生きているので、本当の天才を知らない。
だから頭のとてもおかしい民族だと思います。
本当の天才は、プロ1年目で得点王で、
プロ2年目、17才(日本だと高校3年生)、
でW杯を主役で優勝してます。

ペレは、メッシというW杯優勝できない凡才とは、
違いますね。
その後、ペレはプロ・デビュー1年目から
「9年連続、得点王」の記録を作りました。
やっぱり、メッシとは格が大きく違いますね。

写真、左端が ペレ。シュートを撃った。

リオ・デ・ジャネイロのマラカナン・スタジアムで
行われた「コパ・ロカ」という、
両国の「定期戦の大会」に、ペレは出場した。

後半から出場し、後半31分、同点ゴールを決めた。
しかし、その1分後、アルゼンチンが追加点を決め
試合は、1-2で敗れた。

左の写真は、バルセロナ時代のエバリスト。

彼は5年の在籍で、リーグ戦で、78ゴール(114試合)を挙げた。現在でもリバウドの86ゴール(157試合)に次ぎ、バルセロナ歴代ブラジル人助っ人では2位の得点数だ。
バルセロナにはブラジル代表のエース級の名選手が数多く在籍したが(ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、
リバウド、ロナウジーニョ、ネイマールなど)、
彼はそれに匹敵する名選手だ。

エバリストは当時、ブラジル人FWでトップの1人だったが、25才の時に16才のペレにブラジル代表レギュラーの座を奪われて、代表落ちした。そしてW杯出場を逃した。
それぐらいペレが怪物で大天才だったという事だ。

写真は試合前に父親と写るペレ(16才頃)。
まだ保護者同伴であった。
左がペレで、右が父親のドンジーニョ。

ペレは15才で親善試合に出て一軍デビューした。
翌年、ペレは16才でリーグ戦(サンパウロ州リーグ。当時、ブラジルでリオ州と並び一番レベルの高いリーグ)に初参加して公式戦デビュー。
それで1年目から得点王になった。
41得点(38試合)も決めた。
17才の誕生日の2カ月後、リーグ戦が終了した。
ペレはまだ子供であったがブラジルで一番うまい選手であった。
天才少年ペレは、リーグ戦1年目から得点王になるという前代未聞の大活躍をした。
ペレの最年少得点王記録は未だに破られていない。

写真中央は、W杯1958年大会で決勝戦終了直後、優勝して感動して泣いているペレ。まだ17才だった。右は、GKのジウマール。

ペレは最年少だったがチームのエースで、
チーム得点王となりブラジルを優勝させた。
ブラジル悲願の初優勝は17才の少年の大活躍によってもたらされた。

ペレは弱冠17才で12月にサンパウロ州リーグの得点王になった半年後、翌年6月のW杯でMVP級の活躍で優勝してしまった。
ペレは17才で最大の夢をあっさりと叶えてしまった。

写真は、17才でW杯に優勝して
「優勝トロフィー」を掲げるペレ。

ペレはW杯に大会史上最年少17才で参加して話題の選手になっていたが、大会が終わった時には主役になってしまい更に話題となり、この大会以降、
サッカー界で一番注目される選手となってしまった。

ペレは17才で既に「スーパー・スター」になってしまった。

彼はまさに天才、怪物と呼ぶべき選手だろう。

ペレはW杯準決勝のフランス戦で17才で3得点して、ハットトリックを達成した。
彼は未だに「W杯最年少ハットトリック記録」を持っている。恐らくこの記録は永遠に破られないだろう。

日本人よ。高校サッカーで、
「天才」だの何だの騒ぐ、バカな事はいい加減、
止めろよ。
TBSは「消えた天才」とかいうバカな番組を
作るなよ。
天才は、「高校3年で、W杯を主役で優勝する」
んだよ。

写真は、1958年12月にペレが
「18才でブラジル史上シーズン最多得点記録、66得点(46試合)」を作ってサントスFCで優勝した時の記念写真。

この年は半年前の6月にW杯でも主役で優勝していた。
ペレは18才にして既にブラジル史上最高の選手になっていたのだ。

18才と言うと、他の若者がようやく下部組織からプロ・デビューする年齢だ。
しかし、ペレは既にW杯優勝し、史上最多得点記録を作り、ブラジル史上最高の選手になっていた。
彼は本当に他の選手とは次元の違う選手である。

左の写真は7-1で勝利した2年後、1961年、
イタリアでインテルと再戦したペレ(20才)。
右はバロンドール受賞者でインテルのエース、
ルイス・スアレス。

この試合も4-1で大勝した。ペレは1得点した。

W杯初優勝した翌1959年、サントスFCは欧州遠征してインテルと試合して7-1で勝った。
この試合、18才のペレは4得点した。大ショックを受けた当時のインテル会長は試合後、ペレにオファーを出したがサントスFCは断った。
「ペレは欧州で通用しない」と言う日本人は歴史を知るべきだ。ペレはバルセロナのFWから16才でブラジル代表のレギュラーを奪った大天才で、欧州の強豪相手に点を取れる。

写真は、ACミラン時代、アルタフィニ。

W杯1958年のブラジル代表で2番目に若かった
19才、ジョゼ・アルタフィニは大会直後、 
イタリアのACミランに移籍した。
当時、セリエAで歴代3位、216得点を決めた
(現在は歴代4位 [2018年時点])。
彼はACミラン・エースで、欧州チャンピオンズ・カップ、セリエAで得点王になった。
欧州CC優勝もした。
ペレより下手な選手が、欧州でこれだけ大活躍できたのだから、ペレが欧州移籍したら容易に活躍したと考えるのが普通だろう。

ペレは「ブラジルの宝」だったので、
当時、ブラジル政府はペレの海外移籍に反対し、
サントスFCも手放す事を拒否した。

写真は、1963年のペレ。23才の時の写真。

これはクラブ世界一を決めるインター・コンチネンタル・カップの第1戦の試合前の写真だ。
これはイタリア、ミラノのサンシーロ・スタジアムでの写真。

左は、ACミランの司令塔MF、ジャンニ・リベラ(1969年にバロンドール受賞した)。
この試合、サントスFCはACミランに2-4で敗れた。しかし、ブラジルでの第2戦(ホーム、しかしサンパウロではなくリオデジャネイロで開催した)を4-2で勝利してタイに戻した。
そして1勝1敗なので第3戦を行い、サントスFCは1ー0(リオデジャネイロ開催)で勝ち、
この年、世界王者となり、世界2連覇を達成した。

写真は、25才の時のペレ。
サントスFCのアウェー用のユニフォームを着て写っている写真。

ペレはサントスFCの伝説になった。

当時ブラジルは、W杯連覇して国内に優秀な選手が数多く居たが、ペレは9年連続で得点王になった。

ペレは現役時代の垂直飛び(ジャンプ力)が104センチで、現在のNBAバスケット・ボールの一流選手と同じレベルである。スピードも映像解析から
元フランス代表のティエリ・アンリより速い事が
確認されている。
ペレは身体能力において現在のトップ選手より優れていた。

写真は、W杯1970年大会に優勝して、
3度目のW杯優勝を達成したペレ(29才)。
優勝セレモニーでトロフィーを掲げるペレ。

ペレはW杯1966年大会で、酷いファウルを何度も受けて負傷して優勝できなかった事に怒り、25才という脂の乗った時期に、ブラジル代表引退を発表した(これもよく考えれば25才で引退とは前代 未聞で凄い話である)。
しかし、その2年後に翻意して、再びブラジル代表に戻って来てW杯南米予選を戦い、そして3度目のW杯に参加した。そして優勝した。
大天才ペレにとって、W杯は17才の時から簡単な大会である。

写真は、W杯1966年大会で酷いファウルを受けて負傷した時のペレ。

この大会後、ペレはW杯であまりに酷いファウルを受けた事に怒って、ブラジル代表を2年間も放棄した。

ペレは25~27才という選手として脂の乗った時期に代表を放棄してしまった。

既にW杯で2回優勝しているのでこういう決断が
出来たのかも知れない。
しかし、FIFAが新ルール
「イエロー(警告)、レッド・カード(退場)」を作ったのでペレは2年後に復帰した。
そして3度目のW杯優勝を簡単に成し遂げた。
さすが大天才ペレである。

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