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マラドーナの「神の手」「5人抜き」を生んだワールドカップ史上最大のドラマ・1986年メキシコ大会とは

それはたくさんの若者たちが命を失った戦争の4年後、死者1万人の大地震の翌年に起きた奇跡だった!

更新日: 2018年07月18日

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1986年・ワールドカップメキシコ大会

・・・その4年前、二つの重要な出来事がありました。

1.コロンビアのワールドカップ開催権返上

ひとつは、コロンビアによるワールドカップ開催権の返上でした。コロンビアは1974年のFIFA総会で、86年大会の開催国に選ばれていました。しかし、政情不安による治安の悪化や経済の低迷など、国内の混乱によって、1982年の秋、ついに開催権の返上を余儀なくされました。

ワールドカップの出場国(チーム)数は、1982年のスペイン大会以降、それ以前の16チームから24チームに増えていました。

これにより大きく増加した試合数と大型化した大会規模は、当時のコロンビアにとって、背負うことをあきらめざるを得ないほどの重荷でした。

ワールドカップを失ったコロンビアは、その後、左翼ゲリラによる1985年の最高裁占拠事件、同年に起きた火山噴火による大災害など、立て続けの不幸に見舞われることにもなりました。

2.本物の戦争・フォークランド紛争の勃発

コロンビアがワールドカップ開催権を返上した1982年、同じ南米で、世界中が固唾をのんで行方を見守った大事件が起こっていました。フォークランド紛争(またはフォークランド戦争、あるいはマルビナス戦争)です。

アルゼンチン南東沖の大西洋上に浮かぶ小さな島々からなるイギリス領フォークランド諸島(マルビナス諸島)に、同年4月2日アルゼンチン軍が侵攻。イギリスはすぐさま艦隊を派遣し、両国の間に戦争が勃発しました。

内政の失敗による混乱への国民の目を領土問題に向けて逸らそうとした当時のアルゼンチン政権が、国民を煽った挙句、後戻りできなくなり、起こしてしまった紛争でした。

戦闘は6月20日に終結(島を奪回したイギリス政府による停戦宣言)しましたが、その間イギリスは多くの艦船を失い、アルゼンチンは政権が倒れ、両国ともに多数の若い人命が失われました。

そして開催前年、またも悲劇が起きました

ワールドカップを返上したコロンビアに代わって、開催地に選ばれたのはメキシコでした。メキシコは、ヨーロッパと南米以外では初めての開催となった1970年の大会を過去に成功させていました。

今回、さらに大きくなった大会においても、メキシコ国民はふたたび間違いなくワールドカップを盛り上げてくれるものと、世界中のサッカーファンが期待していました。

ところが、開催前年の1985年9月、そのメキシコを悲劇が襲いました。メキシコ地震です。死者約1万人にもおよんだこの地震によって、首都メキシコシティなどには甚大な被害が生じました。

しかし、メキシコはワールドカップの開催を返上しませんでした。大会は予定通り行われることとなりました。出場国の中には、フォークランド紛争後、いまだ国交断絶の状態が続くアルゼンチン、イギリス(その中心イングランド)も顔をそろえていました。

熱い戦いが始まりました

1986年5月31日、メキシコワールドカップが始まりました。アルゼンチンは2勝1引き分けでグループリーグを突破、イングランドは1勝1敗1引き分けと苦しみながら、同じくグループリーグを勝ち抜きました。

アルゼンチンのエースはディエゴ・マラドーナ。イタリア・セリエAのナポリで「王」の名をほしいままにする黄金時代を迎えていました。

一方、イングランドにはゲーリー・リネカーがいました。イングランド・フットボール1部リーグでの得点王の肩書を引っ提げての出場でした。なお、リネカーはこの大会で最終的に得点王に輝きます。

つい4年前には砲弾とミサイルで戦っていたアルゼンチンとイングランドは、のちのスポーツ史に残る名選手を互いに擁しながら、ついに準々決勝で激突することになったのです。

そしてその舞台は、いまだ震災復興の途上にあったメキシコシティに建つ巨大スタジアム、エスタディオ・アステカでした。詰めかけた観客の数は約11万5千人にのぼっていました。

緊迫の前半戦。そして「神の手」

試合は息詰まる展開となりました。マラドーナを中心にボールを支配するアルゼンチンに対し、イングランドは堅守で前半のゴールを守り切りました。

しかし、後半51分、ついにマラドーナがゴールを決めました。相手のクリアミスを突いて突進、自分よりも約20センチも身長の高いゴールキーパーに競り勝っての鮮やかなゴールでした。

ところが一方、イングランド側は猛抗議を開始。マラドーナのハンドをアピールしました。しかし主審はその瞬間を見ておらず、ゴールは正式に認められました。

はるかのちに、マラドーナはボールを手で叩いたことを認めましたが、当時は「自分の頭と神の手」によるゴールと主張。いまも世界に知られる「神の手」ゴールは、こうして生まれたのでした。

20世紀最高のゴール「5人抜き」

「神の手」の興奮冷めやらぬその4分後、今度は正真正銘の素晴らしいゴールをマラドーナが決めました。

ハーフウェーラインから自陣側に若干下がった位置でパスを受け取ったマラドーナでしたが、味方へパス出来ないと見るや、そのままイングランドゴールに向け、素早いドリブルを開始しました。

マラドーナは華麗にボールをあやつりつつ、4人のイングランド選手を5度にわたってかわしたのち、最後にはゴールキーパーまで翻弄。アルゼンチンに2点目をもたらしました。

「世紀のゴール」「5人抜き」などといまに語り継がれるこのゴールは、2002年にFIFAが投票によって選んだ「ゴール・オブ・ザ・センチュリー」の第1位に輝くことにもなりました。

アルゼンチン優勝

マラドーナの2ゴールに対して、やはり気を吐いたのはリネカーでした。78分にこの大会での6得点目のゴールを決めました。

しかし反撃もそこまで。イングランドは敗れました。なお、リネカーは前にもふれたとおりこの大会の得点王となりましたが、その記録は準決勝にも決勝にも出場せずに成し遂げたものです。

一方、アルゼンチンは、その後準決勝でベルギーを、決勝でも激戦の末西ドイツを破ってついに優勝を果たしました。マラドーナはベルギー戦で2ゴールを決めて合計5ゴール。大会のMVPに輝きました。アルゼンチン国民は戦争で失われた誇りを「神の手」を借りて取り戻しました。

地震によって傷ついていたメキシコもまた、肩代わりで主催することとなったワールドカップを見事に成功させ、世界中からの称賛を勝ち得ることとなりました。

1986年のメキシコワールドカップは、以上の劇的な展開などもあって、20世紀最高のワールドカップと語り継がれる大会となりました。

「神の手」事件のその後・・・

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